②一瀬の朝

 朝の尾鳥高校。一瀬のクラスである二年一組の教室には、すべての生徒が揃っていたが、いつもならもう来ているはずの新堂の姿はまだなかった。

 泉は依然として、行儀良く椅子に背中を付けている。

 近寄りがたい空気を纏う生徒。それは泉だけには留まらなかった。

 いつの間にか、泉と似たような生徒が、教室内の大半を占めている。

 普段と違うテンポで戸が開かれたかと思うと、一瀬が数回しか見たことのない教師が入ってくる。教師は、自分が新堂の代理で来たことを説明した。

「今日はホームルームと朝自習の時間を潰して、みんなで一つのテーマについて語る時間にしたいと思います」

「はぁ、なんだそりゃ……?」

 続け様に放った言葉に、一瀬を含め数人の生徒は難色を示した。中には反論する生徒も居たが、そんな言葉は耳に届いていないのか、教師は続ける。

「そのテーマとは、『真希先生』についてです」

 益々意味がわからなくなる。

 だが、一瀬の反応とは違って、クラスメイトは一挙に色めき立った。新堂の名前を聞いただけで、話題のアイドルスターが挙がったかのように盛り上がるのだ。

「いいですね。そうです。真希先生はこの学校でも上位に君臨される素晴らしいお方です。皆様には真希先生が真希先生たる所以は何か、是非とも話し合って欲しいのです。真希先生が担任されているクラスです。さぞかし貴重な寵愛を賜っていることでしょう」

 今度は宗教めいた言い方をする。気色悪い以外の何物でもない。

「まずは黙祷を捧げます。今から流れる音楽に身を委ねましょう」

「黙祷……?」

 疑問符を浮かべる一瀬。その回答はすぐに音として返ってきた。

 形を持たないメロディが教室のスピーカーから流れてくる。その旋律はとても不可解で、クラシックを嗜むことのある一瀬でも、馴染みのない音楽だった。

 まるで喜怒哀楽は一切込められていない、暴力的とも言える旋律だというのに、クラスメイトのほとんどは心地良さそうに耳を傾けている。背筋を伸ばし、張り付けたような笑顔でいることが、彼らにとっての黙祷だったのだ。

 一方的な展開に、我慢できなくなった者が現れた。

「なんだよこれ、面白過ぎるんだけど!」

 威勢を張るのは、クラスでも荒れていることで有名な生徒だ。

「ワタベ君。今は黙祷の時間ですよ。静かにしましょうね」

「静かにって言われても、こんなの笑うなって方が無理っしょ? 黙祷って何? もしかして俺にドッキリでも掛けてるわけ? あー、だから新堂まだ来てないんだ」

 さっきまでの色めきが一気に冷めていく。笑顔はなくなり、教室内には静寂が流れた。

「何? どうしたのみんな?」

「なるほど、そういうことでしたか。向こう側の人間がまだ居たのですね。どなたか、愛を与えてあげて下さい」

 教師が冷めた口調で言うと、ワタベの周囲から十人ほどの生徒が立ち上がった。瞳には影を落としている。およそ感情なんて感じられない有様に、ワタベはたじろいだ。

「なんだよお前ら……! 変な顔して近づいてくんなよ!」

 大声を張っても生徒たちの態度は変わることもなく、ワタベを取り囲むように、ゆっくりとにじり寄った。壁として覆ってくる生徒に恐怖を覚えたのか、ワタベは一人の生徒を突き飛ばした。それはあからさまな虚勢だった。

「ドッキリ掛けんなら、こいつにやった方が盛り上がるぜ!」

 それでもやはり生徒たちの態度は凪のまま。

 壁際に席があったワタベは、角に追い詰められた。

「ワタベ君。あなたも『私たちの仲間にしてあげる』」

 女子生徒はピンクのネクタイピンをカチカチと鳴らし、満面の笑みを注いでいる。

 その姿に、この世の物とは思えない何かを感じたのか、ワタベは腰を抜かした。

「なか……ま……? はは、は……」

 突き飛ばされた生徒は、顔色一つ変えずにその体を這い上がろうとしている。

 そのままワタベは群がる生徒で姿が見えなくなり、一切の声も発しなくなった。

 一部始終を黙って見ていることしかできなかった一瀬の体に、ようやく危険信号を放つ電流が流れる。

 このままここに居てはいけない。

 どう考えても異質すぎる空間に、出てきた考えがそれだった。

 一瀬は足を弾いた。

「咲良、逃げよう!」

 泉の手を引っ張っても、その場に立ち上がるだけで、付いて来ようとはしない。

「おかしいんだよ、この教室! みんなの様子がなんか変だ!」

「一瀬君。静かにしましょう」

「くっ……なぁ、咲良! しっかりしてくれ!」

 目が合っているはずなのに合っていない感覚。泉は床にくっついて微動だにしない。

 一瀬は歯噛みした。何か突破口はないものか視線を彷徨わせる。

 すると、昨日校内の様子を見て回ったときの情報と共に、気付いたことがあった。

 黙祷を捧げる生徒――すなわち様子のおかしい生徒及び教師の全員が、ピンク色のアクセサリを身に着けているのだ。そして一方、ワタベを含め反抗的な生徒は、それと同類と思えるものを身に着けていない。

「そうか、こいつか! 男はネクタイピン、女はヘアピンを着けてる! これを取れば、元の咲良に戻っ――」

 髪に手を伸ばそうとすると、泉はその腕を握り締めて力強く拒んだ。

「やめて。今の私、凄く幸せなの。なのに、どうしてそれを奪おうとするの?」

 相変わらず表情は変わらない。せめて怒りを露わにして欲しいとも思うがそれもない。

「でも! 原理はわからないけど、これを着けてるせいでみんなおかしくなってるのはたしかなんだ!」

「私はおかしくないよ。その証拠に見て。……ね、私、こんなに幸せそうでしょ?」

 また張り付けたような笑顔になる。

 そこに、一瀬の知っている泉は微塵も存在していなかった。

「それでもあなたがこれを奪おうと言うのなら、ハサミを突き立てて死んでもいい?」

「一瀬君。どうやら、君にも愛が必要なようですね」

 意気消沈している場合ではなかった。

「クソッ!」

 こちらにも感情のない生徒が寄ってくる。なりふり構って居られなくなった。

 廊下まで飛び出した一瀬は、女子生徒の悲鳴で、教室内に目を奪われた。

「いやぁああ! こっちに来ないでぇええ! 一瀬君、助けてぇええ!」

「ムラオカっ!」

 見ると、普段泉と仲良くしている女友達が、ワタベと同じように生徒に囲まれている。

 生徒たちはムラオカに群がると、存在を飲み込んでしまう勢いで覆い被さった。

「いやぁ! いやぁああああ!」

 助けを求める手が、大勢の人の海に沈んでいく。

 二年一組の教室では、他にも正常な生徒が助けを求めていたが、できることは何もなかった。

 駆け出した一瀬を追うように、クラスメイトが廊下に雪崩れ込む。

「落ち着け! とにかく落ち着け! 俺の頭じゃ理解できないことが起こってるのはたしかだ! とにかく今は、協力できる仲間を見つけないと……!」

 一瀬は決して後ろを振り返らなかった。

――――

 放送室。黒いタイトスカートを履いた成人女性は、操作パネルを弄っていた。

「――これでいいのね?」

「はい、先生の望み通りの結果になるかと」

「ならいいわ。ようやくここに理想郷が完成するのね」

「ええ、素晴らしいことですよ」

 後ろに佇む男は、艶のあるメガネを煌めかせた。

「君の協力には感謝しかないわ。これで、争いや不安に駆られた日々と決別できる。ここに赴任が決まったその日から、ずっと願っていたんだもの」

「できますよ。新堂先生を嫌う人なんていません。今頃、僕の作った音楽に酔いしれているはずです。二曲目も直に仕上がります。それが終われば、もう戻れなくなりますよ」

「大丈夫。きっとみんなもそれを望んでいるはずだわ」

「そう思います。僕は教室に戻りますね」

 女は過去を思い返すように瞳を閉じた。

「これでいい。これでいいのよ。これでみんな、いつまでも幸せでいられる……」

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