⑥シミュレーション

 春の月が昇る頃。公園のベンチにもたれる上里は、天高く煌々と輝くそれを仰ぎ見ていた。夜空を漂う闇までもが、そのまま落ちてくるんじゃないかという圧倒感だ。

 これで天の川でも拝めたら最高だったのだが、都会のど真ん中でそれを求めても無駄なのだろう。小さい頃は天体観測をよくやったものである。

「『小悪魔』……ね。……いや、やっぱり違うな。そんなチャチなモンじゃねー……。あの学校には『悪魔』がいるわ……」

 時計はちょうど影で隠れており、まともに時間を確認することはできないが、人影がないことや、近隣の家に灯りが少ないことを鑑みれば、相当に遅い時間なのは明白だ。

 しかしながら、彼の世界にとって、時間というものは大した問題ではなかった。

 上里は内から溢れる好奇心に、全身全霊を委ねていた。

「あは、あははは……そうだよな、神様……。やっぱりいるよな、一番悪い奴が……。あぁは、感じるね~……黒い感情がデカくなっているのを感じる……。明日になればさすがにわかるかもな……」

 笑いたくて笑っているわけではない。これはもはや生理現象ですらある。

 上里は壊れた人形のように小さな声を垂れ流していた。

「ははははは……楽しみだ。本物をぶっ倒すってどんな感覚なんだろうな~」

 自販機で買ったオレンジジュースを最後の一滴まで飲み下し、ゴミ箱に放り投げる。

 だが、それなりに離れていることもあり、缶はフチに弾かれしまった。

 舌打ちをする。

 とそのとき、満月の光のたもとに黒い何かが現れる。それは嫌みのように缶を『踏み潰した』。気分を阻害され我に返って視線をずらすと、公園を埋め尽くす漆黒の闇の中に、人の形をした何かが佇んでいるのが見える。

「なんだよオマエ。せっかく人が悦に浸ってんのに邪魔しないでくれるか」

 ここを通りかかった住民か、はたまたパトロール中の警官か。なんにせよ、上里には煩わしいだけの存在だ。上里が強い嫌悪を示したというのにそれは近づいてくる。

「はぁあ? なんだコイツ……」

 目を凝らしてみる。やはり誰か人のようだ。胴体を中心に手と足が二本ずつ伸びており、頂点には頭が付いている。そしてその人相はというと――、

「……?」

 『それ』が月光の元に晒された瞬間、上里は反射的に身を引いていた。頭に牛のような角が生えているのだ。しかも顔のパーツは、大きさも配置もデタラメである。

「ウソだろ! マジモンの悪魔じゃねーか!」

 すぐに察した。というより、これほどに異形の姿をしているものは、そう形容する以外にない。悪魔は白い息を吐きながら、獲物に忍び寄るかのように歩みを進める。

「うぁああ! 来るな化け物ォ!」

 動転して拳銃で眉間を撃ち抜くと、白い息はそれ以上出て来なくなり、悪魔は膝から崩れ落ちた。そのまま黒よりも黒い肉体は、影に溶けて消えていく。

「なんだよコレ。おい神様、悪い冗談だよなぁ?」

 問いかけても状況は好転しない。闇の中から次々と悪魔が出現する。

「クソッ! クソッ! クソッ!」

 出入り口から忍び寄る悪魔を拳銃で撃ち抜いても、今度はフェンスをよじ登って別の悪魔がやって来る。それを撃ち抜くと背後から。それを撃ち抜くと正面から二体。

「いくら倒してもキリがない! どんだけ湧いてくんだよ!」

 公園を覆う闇そのものが、悪魔を生み出し続けている。

 上里は高台に移動するため、遊具を登りながら銃を乱射した。

「寄るなっ! この化け物めっ! 悪魔なんざ、俺が全員ぶっ倒してやらァ!」

 無限の弾を使って、無限の悪魔に応戦する。

「このっ! このっ! このっ!」

 しかしながら、時間は無限ではなかった。疲労は確実に蓄積されていく。

「俺に勝てると思ってんなよ! オマエなんか! オマエなんか!」

 それと同時に、上里の快楽も高まっていった。

 遊具を頂点に、悪魔が我先にと這いずり上がろうとし、上里が裁きを下すように撃ち抜いていく。こんなにも滑稽な時間は、無限に続いても構わないと思うくらいだ。

「はははははっ! ああ、楽しいっ! 最高の気分だっ!」

 トリガーハッピーになった上里は、その快楽によがりながら天を仰いだ。

 先ほどよりも月の輝きが増しているように感じられる。

「あぁ?」

 突如、月を隠す黒い物体が降りてくる。

 翼を生やした悪魔だ。それは目にも留まらぬ速さで上里に覆い被さった。

「クソッ! 放しやがれちくしょう!」

 身を捩っても拘束を止めようとはしない。むしろ掛かる負荷は重くなっていく。

 攻撃を受けることのなくなった悪魔たちは、次々と遊具の柵を乗り越えていった。

「なんだよオマエら。よせっ! 何をする気だ!」

 そして獲物を舐るかのように、ゆっくりと顔を近づける。

 表情なんてないはずなのに、その様子はどこか楽しげだった。

「ウソだ! やめろっ! やめろぉっ! おいっ!」

 無数の悪魔たちは、全身を飲み込んでしまうほどに、存在を食ってしまうほどに、

「やめろぉおおおおお!」

 上里に鋭い牙を覗かせた。


「うるせぇぞ!」


 しゃがれた怒声が耳に届く。それは上里でも悪魔でもない、第三者の声だった。

「何時だと思ってんだクソガキが! 近所迷惑ってもんを知らんのか!」

 うつ伏せになったまま声の主を辿ってみると、唾をまき散らす人間の老人が立っている。暗闇の中でわかったことは、全身は薄汚れていて、服はクタクタになっており、大小様々な袋を丸々に詰めて、それらをカートに乗せて押していること。

 袋の中には、上里が捨て損じた缶が『綺麗な状態』で収めてあった。

「静かにしろ。気が散る」

 老人はそう言うと、水飲み場の方へ行ってしまった。

 悪魔は一切存在しなくなっていた。上里は冷めきった感情を吐露する。

「……萎えたな。良いところだったのに」

 シミュレーションはここでお開きにし、身を起こして気持ちを落ち着けた。

 老人の方を見ると、ゴミ山が連なるカートの中から、ポリタンクを取り出している。

「ふん、どっちが迷惑なんだろうな……」

 完全に気分を害されたこともあり、公園を去ろうとする上里。

 老人のすぐ傍まで近づいたとき、やはり異質な格好だと印象を受けた。

「なぁ爺さん。爺さんってホームレスって奴だよな」

「あぁ? だったら何だってんだ。冷やかしなら失せろ」

「いや、その割にはまともな服を着てんな~って思ってさ。どうやって手に入れたの、それ。どこかで拾った?」

 面白半分で問いかけると、老人は沈黙する。

「あとそれ、水を汲んでるけど、それって立派な犯罪だから。俺に説教垂れるくらいなら、そういうことすんなよ」

「さっきからゴチャゴチャうるせぇな。ガキの相手してる暇はねぇんだよ」

「そう怒るなよ。その反応は、否定はしないってことでいいか?」

 上里はあくまで主導権を握り続けた。というのも実は、念のため確認しておきたいことがあったのだ。こんな夜分に公園をうろついている身分が言えた義理ではないが、はっきり言ってこの人間はまともではない。

 だから彼はそうなのかどうか、その『是非』をはっきりさせておく必要がある。

「ちなみに食糧はどうしてんの?」

 また沈黙する。どうも後ろめたいことがあるようだ。

「ほら、ちゃんと答えろよ。そしたら、お望み通り失せるからさ」

 上里が譲歩すると、ようやく老人は反応を示した。

「……食料がなんだって?」

「食べ物はどうしてんのかな~って話だ。もしかして、万引きなんてしてないよな?」

「だったらどうするってんだ? こっちだってな、生きるために必死なんだよ」

「そっか」

 納得したように息を吐き、何度か瞬きした。相変わらず老人は沈黙を語るが、上里にとってはどうでもいいことだった。口に出して罪状を整理する。

「ゴミの持ち去り、盗水、万引き。ま、十分かな」

 老人の眉間を拳銃で撃ち抜く。

 死体となったそれの天辺からは血が噴き出し、糸が切れたように崩れ落ちた。

 瞳孔の開き切った瞳は、上里の足元を映している。

「すぅううはぁああ。あぁ、気持ちいいな~」

 ぴくりとも動かなくなった物体は捨て置いておく。

 ……良い。

 実に良い気分だ。

 上里は、快楽が沸々と蘇ってくるのを感じていた。

「今日の討伐数一。帰るか」

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