④誰かの家
ほとぼりが冷めてから暮林が向かった先は、一軒の民家だった。
当然のように、上里も十数メートル後ろに張り付いている。
塀よりも高々と成長したシンボルツリーは、ここが終点だと教えているようだった。
「しゃれた樹を植えてんな~」
田舎じゃ見たことのない、竹のように聳える細い木々に、感嘆の声が漏れる。
纏っているオーラを鑑みるに、樹齢は二十年弱といったところか。まだまだ若造という印象だが、雨の日も風の日も、住人と共に人生を歩んできた立派な家族だということが、上里には理解できた。
門番とも言えるシンボルツリーが許可をくれたような気がして、表札を確認すると、 『黒不澄』と書いてあった。
「『くろすまず』……。自分ちじゃねーみたいだが」
脳裏に泥棒の二文字を浮かばせ、慎重に後を追う。門を通ると、暮林が玄関ドアに手を置いているところだった。鍵が閉まっていないのを知っていたのだろうか。
「フリーズ」
どこからともなく拳銃を取り出し、それを両手で握り締める。
彼の緊張感が、重厚な鉄の塊にのしかかった。
インターフォンの金属部分が鏡のように反射し、二人の目が交錯する。
しびれを切らしたのは暮林だ。
「誰、あんた? 不法侵入だけど。何のつもり?」
「不法侵入はそっちだろ。やっぱりお前が尾鳥に潜む悪魔の一人か?」
手からは汗が滴り落ち、地面に小さな染みを作る。
上里は拳銃を滑らせないようにさらに強く握り締めた。
「何言ってるのかわからんし、その格好も意味不明なんだけどさ」
暮林は気怠そうに頭を掻く。
「それ、銃でも構えているつもりなのか……?」
「その気になれば撃てる。眉間を撃ち抜いてやろうか」
と言って、上里は一歩前に踏み込む。俺は本気だという主張をするためだ。
しかしながら、暮林の態度が変わることはない。それもそのはず。この拳銃はあくまで上里にしか見えていないのだ。つまりは彼の妄想の拳銃で、ただのごっこ遊びなのである。暮林には、上里が素っ頓狂な格好で立っているようにしか見えていないはずだ。
「なるほど、そういうタイプね。見なかったことにしてあげるから、さっさと帰りなよ」
暮林はそれを察したのか、付き合い切れないといった感じで、家の中に入ってしまう。
「あ、おい! 待ちやがれ!」
そして上里の方は、慌ててその背中を追いかけた。
暮林は、ベッドで寝込んでいる虚弱な男の傍らで、胡坐をかいていた。
「フリーズ。止まれ」
上里はまたもや妄想の拳銃で威嚇する。
上階からする声を頼りに、この部屋まで辿り着くことは簡単だった。
「あんた、しつこいな。同じ学校の先輩じゃなかったら、警察に突き出してるぞ」
暮林はネクタイを一瞥すると、すぐに男の方に視線を戻す。上里なんてまるで眼中にない。男の方が何倍も心配なのだろう。
「何してるんだよ」
「友達の家なんだ。クロスが体調を崩したって聞いたから、見舞いに来てやったんだよ」
二人の声で僅かに目を覚ました病人が、薄目で暮林に視線を向ける。
「誰、その人……?」
「知らん。中二病って奴じゃね」
浮浪者を相手するように暮林は吐き捨てた。
「あとそれ、ダサいからやめた方がいいよ。人んちに勝手に上がってすることじゃない」
「友達の家だからって勝手に上がり込むのはどうなんだ」
上里はようやく警戒を解く。目論見が外れたことを実感していた。
「ははっ、たしかに、そう言われると怪しく見えてもおかしくないか。クロスの家はいつも両親が居なくてさ、俺たちのたまり場になってるんだ。勝手に入ってもいいことになってる。第二の家みたいな感じだよ」
暮林の言葉に反応した病人が口を開く。
「勝手に入ってもいいなんて言ってない……」
「開けっ放しのくせによく言うぜ」
どうやら二人は、かなり気心の知れた間柄のようだ。
長居するのは無用だと判断した上里は、物音一つ立てずに部屋を出ようとする。
暮林は、友人の方に意識が行ったまま、何てことないように言った。
「なぁあんた。手空いてるなら、ちょっと買い出しに行ってくれよ。クロスのために、適当に食い物を買って来て欲しいんだ。黙っておいてやるからさ」
「パシられるのは御免だ」
「そう。なら仕方ないな」
脅迫めいた要素もあったが、上里は芯を貫き通した。
会話の最後を認め、部屋を後にする。
廊下は、日の光を鮮明に感じるほどに静寂に満ちていた。時折部屋の中から暮林の声がするが、まるでこの家の中だけが、外の世界とは隔絶されているかのようだった。
友人の見舞いに来た暮林。
そしてベッドで辛そうに寝込んでいる友人。
上里はなんで今さら、と自分でも感じつつ、小学生のときの事件を思い出していた。後悔しているつもりは一ミリもない。だが、やるべきことはまだあったように感じた。
田舎時代の上里を知る人間は、彼のことを『好奇心旺盛でやんちゃな子供』と認識していた。その契機はどこに起因するのか。
小学生の頃、いつものように畑と一瀬を誘い、近所の畦道を走り抜けていた上里は、道のど真ん中に黒い塊を見つけた。燦々と照り返す太陽の下、額に滲ませた汗を風で乾かしながら、興味津々に近づいてみる。
「……何これ?」
異様なほどに存在感を放つ塊に、宝石のように輝いた瞳は釘付けになった。
その様子を見て、畑は珍しくもなさそうに、
「蛙の死がいだな」
「死がい?」
「車かなんかに轢かれたんだろ。よくある事だよ」
「上里は初めて見るのか?」
一瀬は問うが、実は初めてではなかった。
上里自身、今よりもっと幼いときから『死がい』というものは何度か目にしていたはずだった。だが、その存在をはっきりと認識してはいなかったのだ。目の前の楽しいこと、自分のしたいことに夢中だった上里は、常にそればかりに気を取られていて、少し目を逸らせばどこにでもあるような生死に、気付かない人生を送っていた。
このとき上里は、初めて手の触れられる距離で『死』というものを経験したのだ。
「ははは、おもしろ」
大抵の生物は人間を意識すると逃げていくのに、これだけ凝視されても地面に張り付いてびくともしない。そんな――物と化した蛙に、上里は薄ら笑いを浮かべた。
その日から上里は、生物の死に興味を持つようになった。
蚊を潰したらその蚊がどんな風にして息絶えているのか気にするようになったし、家内に害虫が現れた際には、捕まえて逃げられないようにした上で、脚を一本ずつもぎ取り、腹を潰し、胸を潰し、頭を潰し――独自の遊びをするようにもなった。
傍目からは生物がどの段階まで息をしているかわからないが、上里には何となく『そのタイミング』が理解できる。
「あ、これで死ぬのか」
上里はいつも決まって、生物が『死』を主張した時点で、無邪気に――だが残酷なトーンで感想を呟く。そして心の中で、形容し切れない良い感情が生まれていることを実感するようになった。
罠に掛かったハクビシンを見つけたときには、近くにあった木の棒で小突いてみることもあった。生態観察のように優しかったそれも、時間の経過によって暴力的なものに変わっていく。
そして上里はまた呟く。
「ああ、死んだ」
またある日、家の手伝いがあるからと、友人に誘いを断られた上里は、こっそり持ち出したナイフを携えて、一人で森へ遊びに行くこともあった。そのときに都合良く見つけた一匹のイノシシに、猟奇的な好奇心は吸い寄せられていく。
鬱蒼と生い茂る草木の中で対峙する一匹と一頭。子供なのかやけに小さかった生物を見て、上里の感情は昂ってしまった。
しばらくして、ペンキをぶちまけたような血塗れの黒い塊が横たわる。
「ははは、死んだ」
返り血なのか自分の血なのか、本人でもわからないくらいに赤く染まった上里は、手に掛かったまだ温かい液体を、噛みしめるように笑い続けた。
上里が村に帰ってきても、大人たちは小さなケガを心配するだけだった。
「大丈夫? つかさ君!」
「お前、その格好、どこ行ってたんだよ!」
農作業をしていた一瀬の親子は、そんな風にしか声を掛けてこない。
最後まで、彼の狂気に誰一人として気付くことはなかった。
――成長した自分なら、クマだって簡単に殺すことができた。そのための練習だって何回もしたし、多少の返り討ちくらい我慢するつもりだった。あの事件以降、上里は何度もそう思うことがあった。
たしかに元々の目的は登山だったが、事件に直面したときの内心には、『あれほどの巨大な生物がどのようにして死ぬのか』、そういう考えが渦巻いていたのである。
一瀬がケガをしたことは想定外だった。親友でありながら、彼が自分のことをそれだけ思ってくれていることを喪失していた自分に落ち度があったのかもしれない。大人たちが非難する一方で、上里は考え方をそうシフトするようになっていた。
法律と常識が、好奇心を制限する。
別に、一瀬のことを悲しく思っていないわけではない。
自分ではそうわかってはいても、上里は『神様』の声に従うのみだった。
それが人間らしい生き方。今もなお、そう信じて疑うことはない。
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