⑤違和感
翌日の早朝、母の絶品手料理を平らげた一瀬は、鞄を担いで家を出た。
道路に出て視線を泳がせるが、いつもなら待っているはずの彼女の姿はない。
「……珍しいな、咲良が一緒に登校しないなんて」
昨晩の反応とは食い違っている点を不審に思いながらも、尾鳥高校へ足が向いた。
二年一組の戸を開けると、行儀良く着席している泉の姿があった。
頭には新しいオシャレなのか、ピンクのヘアピンを着けている。
不自然なくらいに背筋を伸ばして、視線は黒板の黒を一心に見つめている。
「おはよう咲良、やっぱり先に来ていたのか。なんだよ、この前のお返しのつもりか」
「……」
一瀬は笑いながら自席に向かう。泉の様子が普段と違うように感じたが、そんなものかと思ったのだ。女は一日単位で心境が変化しやすいと聞いている。
沈黙を貫く泉を視界の隅に感じながらも、鞄を机の脇に置いて着席する。
今日は上里と親水公園に遠征か。どうせその前に教室にやって来るに違いない。そんなことを考えながら天井を仰ぐ。
「……ふぅ」
思わずため息を吐いていた。けれどもこれは、悪い感情から来るものではない。
ふと泉の方に視線を落としてみると、彼女は来たときとまったく変わらない姿勢で静止し続けていた。
何かがおかしい――そう思った一瀬は、重い腰を上げて泉の前にしゃがみ込む。
「おい、どうしたんだよ咲良? 先から何をボーっとしてるんだ」
視線はやはり黒を見つめたままだ。
「おはようって言ってるんだよ。今日は無視を決め込むつもりか」
独り言の続く一瀬がいたたまれなく思ったのか、クラスメイトのヤジが飛んでくる。
「咲良―。倦怠期なのー?」
「一瀬君、可哀想だよー?」
「ほら、また恥ずかしいこと言われてるけど」
動かなくなったテレビを叩くつもりで声を掛けてみても、やはり無反応だった。
そのとき誰かが、「このままだと新堂先生来ちゃうよ」と口にする。
「新堂……先生」
すると、泉がぎこちなく口を動かし、ほんのりと頬を赤く染めた。
何に反応したのか。考えを巡らせる暇もなく、唐突にその目がぎょろりと振り向く。瞳は焦点が合っておらず、漆黒の闇に渦巻いているように見えるほどだ。
「どうしたんだよ咲良……」
憔悴の吐息が混じる一瀬。
泉はそんなこともおかまいなしに、教室を飛び出す勢いで手を引っ張った。
「ちょっと……来て。相談があるの」
「おいっ……! なんなんだよ、まったく……」
廊下にいる生徒も段々と教室に集まってくる時間帯。そんなタイミングで教室を出ていく二人を、クラスメイトは「おアツいねー」と一笑した。
一切の人影のない屋上前の踊り場に着くなり、泉は何てことないように言った。
「女を落とす方法を教えて欲しいの。そういうのは得意でしょ」
相変わらず様子のおかしい泉に、一瀬はそのまま聞き返してしまう。
「女を落とす? 急に口を開いたと思ったら、咲良、なんかお前おかしいぞ? いつもと違う気がする」
そんな感想しか出てこない。少なくとも一瀬の知っている態度は、もっと明るいものだったのだ。早朝から黄色い挨拶をして――かと思ったら、クラスメイトの言葉で湯を沸かしたように赤面する。
なのに目の前にいるのは、そんな泉ではなかった。まるで腑抜けになってしまったかのような、感情が存在しない空っぽの人間。冷ややかな瞳で、泉は続ける。
「おかしいのは私たちの関係じゃない? 付き合い始めて一年も経ってるのに、キスとデートを重ねているだけ。セックスしている人もいるくらいなのに」
「何を言って……」
無理しているとは思えない発言に、さすがに焦りを感じ始めた。
「どうしたんだよ咲良? お前はそんなことは言わない奴だ。俺の顔をちゃんと見ろ」
虚構を見つめる頭を優しく掴み、目と目で向き合おうとする。
泉の瞳は徐々に光を取り戻した。
「あ、れ……私、何してたんだっけ……」
「……ああ、咲良! ようやく正気に戻ったか! ……ったく、心配かけやがって!」
一瀬は目に溜まるものを悟られないように泉を抱きしめた。跡が残るくらいに、深く深く抱きしめる。泉は状況を理解できていないようだった。
「……ああ、慎太郎、おはよう。こんなところで何してるの……?」
「馬鹿なお前に手を焼いていたんだよ……」
まさしく感動ドラマにありそうな一幕。
しかしながら、それを噛みしめている余裕はなかった。
「ちょっとそこの二人、朝のホームルーム始めるわよ。早く教室に入りなさい」
階下から担任の声が聞こえて、慌てて身を引き剥がす。
「あ、新堂先生。あの、咲良の様子がおかしくて……」
「わぁ、真希ちゃんだぁ!」
すると、またもや泉は、文字通り目の色を変えてしまった。
「ちょっと、学校ではその呼び方はしないでねって、昨日約束したでしょう」
「ごめん、また会えて嬉しくなっちゃって……。ね、真希先生」
ハートマークが付きそうな喋り方をする。
新堂のお腹に顔を埋める。やはり、いつもの泉と態度が違かった。
「ふふふ……やっぱりうちの生徒は可愛いわね」
新堂はそんな泉をあやすように頭を撫でる。
「ほら、一瀬君も急ぎなさい。このままだと遅刻扱いにするわよ」
「いいってぇ。二人だけで行こうよ」
「まったくもう、泉さんってば甘えん坊さんね」
一瀬を置いて、二人で教室の方に姿を消してしまう。
「……咲良、だよな? どうなってんだ?」
一瀬は終始状況が理解できなかった。それどころか、彼女がまるで違う別の人間とすり替わったのか、そんな馬鹿げた思考が脳裏を過ってしまうほどに混乱していた。
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