④帰宅後

 上里、子供たちと別れ帰路に着き、日の暮れた頃合いに自宅に到着する。リビングのある窓には明かりが灯っている。どうやら随分と長い時間を過ごしていたらしい。

「たまにはこういうのもいいかもな」

「ふふっ、慎太郎の意外な一面が見れて良かったよ」

「汗臭い男は嫌いじゃないのか?」

 汗の染み込んだ制服は、いつもと比べると少しだけ重い。一瀬自身は気にならないが、周囲に与える臭いの影響は確実だった。

 家まで付いて来ていた泉は、構わずに彼氏に抱き着いた。

「全然。むしろもっと好きになったかも」

「ああ、また明日な」

 一瀬が彼女の頭を撫でてやると、嬉しそうに手を振って去っていく。

 本来なら自分が家まで送るべきなのだろうが、泉は高校との位置関係的に別にいいと言って、気を使ってくれていた。

 熱いシャワーを浴びたい欲を纏って玄関を開ける。

 するとタイミング良く、三つ下の妹の恵衣子が脱衣所から出てきたところだった。

「あ、お帰り、お兄。今日は遅かったじゃん。先にお風呂もらっちゃったよ」

「ああ、ただいま」

 バスタオルでわしゃわしゃと短髪を拭く恵衣子。その目はきょとんとしている。

「珍しいね。お兄がただいまを言うなんて」

「そうか?」

「いつも、ああ、しか言わないじゃん」

「そういう日もあるだろ」

 ローファーを脱いで、靴先を外に向けて並べて置く。

 自分の部屋に荷物を置こうと階段に足を伸ばすと、それに待ったが掛けられた。

「ホント好きなんだねー、咲良ちゃんの事」

「何だよ急に」

「香水の匂いがするから。咲良ちゃんのでしょ?」

「俺にはよくわからないよ」

 むしろ今は男の汗の方が強いはずだ。それも、匂いではなく臭いの方だ。

「ね、あとで勉強教えてよ。今度のテスト、点が良かったら新しい服を買ってくれることになったんだ」

「またか。教科は?」と兄が問うと、「数学」と妹は答えた。

「じゃ、夕飯が終わったらな」

「オッケー。部屋で待ってるからねん」



 一瀬家では基本的に、夜七時には帰宅するという暗黙の了解がある。年間のうち数日を除いて、ほとんど毎日、家族全員で夕食を囲っていた。ちなみに朝食も同じである。

 ダイニングテーブルに、合図もなく一瀬家が集まっていく。

 そして大抵の場合、最後に席に着いた母を見計らって、父が挨拶をするのだ。

「いただきます」

 それに続いて、家族全員が箸を動かす。

 一瀬家では、灯りの下で家族団らんの時間が流れていた。

「……ん? 今日のから揚げ、いつもより一段と美味しい」

「そう? 材料は何も変えてないけれど」

「今日のお兄、外で遊んできたからじゃない? 疲れた体に染み渡ってんだよ。制服に泥付いてるくらいだったし」

「そういうものかな? 助っ人をしたときの方が疲れてると思うけどな」

 一瀬は特に部活に所属しているわけではない。中学時代はサッカー部に精を出し、高校生になってからもそうあるべきだろうと、同様の部活に籍を置いていることもあったが、泉という優先すべき存在ができてすぐに辞めた。

 だが、それから一年が経った今でも、一瀬の現役時代の能力を知っている生徒が、度々練習試合の助っ人や、はたまたやったこともないスポーツのコーチを依頼してくるのだ。

 助っ人を頼むなら一瀬。いつの間にか、そういう通例も広がっている。

「んじゃ、今回はそれだけ充実してたんじゃない?」

 恵衣子の言葉の意味を考えながら、今度はポテトサラダを口に運ぶ。やはりこちらもいつもより美味。市販の麦茶まで上質に感じる。

「まあ、母さんの作るご飯はいつも美味しいか」

「もう、慎太郎ったら。褒めても何も出ないわよ」

「事実だしね」

 嬉しそうに笑う母を見て、一瀬は噛みしめるように手料理を味わった。

 夕飯が終わった後は、九時になるまで、リビングで各々が時間を過ごす。

 最後にごちそうさまをする一瀬。母はすでに空いた皿を洗っていた。適当にテレビでバラエティー番組を流している中、父親がテーブルで何やら板を広げている。

「慎太郎、将棋やるか」

「いいよ別に」

 母に自分の食器を渡してから、リビングのソファに移動する。

「恵衣子は何やってるんだ?」

「テスト勉強だってさ。張り切ってるんだよ」

 一足先に自室に戻っていった恵衣子が気になる父。男の気配を感じたのかもしれないが、夕飯を早食いするような娘に、今のところその懸念は無用だろう。

「そういうことか。――何枚落ちにする?」

「とりあえず前と同じ六枚で」

「弱気だな。そろそろ四枚でもいいじゃないか」

「勝ってもないのに、ハンデを緩くするなんてできないよ」

 父と二人でポータブル将棋を並べていく。年季が入っていることもあり、文字の擦れたものが散見していた。近々新品をプレゼントするのもありかもしれない。せっかくなら木製の豪勢なものを調べておこうと心にメモしておく。

「高い壁に挑むことが、成長の近道になるってこともある」

「わからなくもないけどね。まあ、今回は六枚で」

「ああ、わかったよ。――母さん、勝ったときのために酒を用意してもらえるかな」

「ふふ……はいはい、わかりましたよ」

 母は滑稽そうに、冷蔵庫を開けてつまみを用意する。

「言ってくれるじゃん。負けても知らないからね、父さん」

「良い目つきだ。慎太郎」

 一方でこちらは、いつもよりも白熱していた。



「待たせたな。勉強は捗ってるか……て、おい」

 父との一局を終えた一瀬は、約束通り妹の部屋にやって来ていた。筆記用具と折り畳み式のテーブルと、必要になるかわからないが、高校の数学の教材を携えて部屋に入る。

 しかしながら、一応出しておいたやる気は一気に引いていくことになった。

「あ、お兄」

 こともあろうに、恵衣子は漫画に読み耽っていたのだ。

 何のアニメかゲームか知らないが、美術館のように飾られた、たくさんのタペストリーとポスターとティーシャツに、気圧されながらもカーペットに腰を下ろす。イケメン系カワイイ系あらゆるジャンルのキャラクターが、全方位から一瀬にキラキラを送っていた。

 恵衣子は、百冊は漫画が入っている棚に、今読んでいた漫画だけを逆さにして戻す。

「遅かったじゃん。何してたの?」

「父さんと将棋」

「負けた?」

「勝ったじゃないんだな。負けたよ。お前は漫画を読んでたみたいだが」

 一瀬は持ってきたテーブルを広げ、その下に筆記用具と教材を置いた。

「ごめん、ちょっと休憩してた」

「休憩ね。本当にやってたのかよ」

「やってたって。ほら、この問題集、わかるところはちゃんとやったもん」

 と言って、机に広げていた教材をテーブルの方に持ってくる。

 広げられたページをざっと見てみると、空白になっている部分が九割だった。

「ほとんどやっていないみたいだが」

「ほとんどわからなかったの」

 自分の頭をコツンと叩く。彼女がやったら可愛かったかもしれないが、相手が妹では、ちょっとウザいくらいだった。

「どこからやる?」

「とりあえず連立方程式。算数なのに英文字がたくさん出てきて頭パンクしそうで」

 算数ではなく数学だろ。突っ込みたい気持ちを抑えてペンを握った。

 一瀬の教え方が上手いのか、段々と解き方を覚えていく恵衣子。

 数十分後には母がコーヒーを差し入れしてくれて、益々拍車が掛かった。

 問題集の何ページかが黒く染まったとき、恵衣子は砂糖増しましコーヒーを一口含んでベッドに背中をもたれる。

「ふぅ、結構いい感じじゃない? 敵の特徴がわかってきた感じ」

「覚えはいいんだな。俺の助けなんていらなかったんじゃないか」

「いや、先生より全然わかりやすいよ。数学の先生、うるさすぎて何言ってるのかよくわかんないんだもん」

「それだけ数学が好きなんだろ」

 こんなのどこが楽しいんだか。恵衣子は言いながら、体を解そうとして立ち上がる。

「さすがに体が硬くなってきたかも……うあぁっ!」

「おいっ!」

 だが、長時間の勉強が影響したのか立ち眩みを起こしてしまう。一瀬は咄嗟に体を受け止めようとした。

 ガッチリとした肉体の上に覆い被さるように倒れる。

「ごめん! 急にクラクラしちゃって!」

 恵衣子は急いでどこうと体を起こそうとした。

「……あ」

 不意に冷静になる二人。

 妹の寝室の、妹のベッドのすぐとなりで、不自然な体勢になっている。

 恵衣子の頬は上気していた。もしかしたら、好きなアニメのワンシーンでも思い出していたのかもしれない。

 そして一瀬の方も、こんなに近くで妹の顔を見るのは久しぶりであり、少し動揺していた。傍目からは気付かなかったが、薄い化粧を施している。視線を少しずらすと、倒れたときに部屋着が開けてしまったのか、艶のある白い肌も覗かせていた。

 沈黙が続くと気がおかしそうになる。一瀬はそう思った。

「大丈夫か?」

「……うん」

 ゆっくりと右手を上げ、恵衣子の唇に指を触れる。

 すると、思いもよらぬ展開だったのか、恵衣子は両目を閉じてしまった。

「コーヒー、付いてた」

「……あ、うん。そっか、ありがと」

 一瀬が落ち着いて言うと、恵衣子は恥ずかしそうに今度こそ体を起こした。

 転倒事故のせいで気が散ってしまったのか、そこから先、勉強の手は思うように進まなかった。原因には気づいていたが、敢えて触れないようにする。

「――お兄、わたしって可愛くないのかな?」

「俺は可愛いと思ってるよ」

 恵衣子はぴくっと体を震わせた。

 虚を突かれたせいか、素直な言葉が飛び出していた。

「なんだ、学校で変なこと言われたのか」

「まあ、そんな感じ。やっぱりオタクな女って気持ち悪い?」

「別に。好みは人それぞれだろ。周りの目なんか気にするな。自分の好きなものに一途なんだ。俺はそういうの好きだぞ」

「そう……だよね。うん、わたしもそう思うよ」

 妙な言葉選びが面白かったのか、恵衣子は笑みを零していた。

 その様子を見て、一瀬はまだまだ余裕はありそうだと感じた。

「まだ勉強続けるか?」

「うん」



 十一時過ぎ。先ほどまでリビングから聞こえてきたバラエティー番組の音も、今では静かになっている。恵衣子の勉強会はキリの良いところで終了となり、ようやく一日が終わるという時間帯。一瀬はこの時間が好きだった。

 ミニマリストの如く整理された自室にて、ノートパソコンでネットサーフィンをする。テレビを見るのはあくまで家族の好みであり、一瀬にとっての世界の情報源はインターネットだった。

『世界で起こっている紛争問題。幾重の苦しみを背負う子どもたち』

『百万人に一人の難病を抱えた女性が語る壮絶人生』

 一通りブックマークに目を通したところで、脇に置いたスマホが着信する。

『今日は楽しかったー。おやすみなさい』

 メッセージアプリを開くと、画面一杯に彼女からのおやすみメッセージが表示される。それ自体は、何か良い出来事がある度にくる愛らしいものだが、今日は一段と絵文字が多かった。イタい女のテンプレートのような有様だ。上里との邂逅もあって、若干浮ついているのかもしれない。一瀬はそう思って、深くは考えないようにした。

『ああ、お休み』

 返事をして、再びネットサーフィンに戻る。

 マウスのクリック音と、キーボードの打鍵音が、デクスライトで灯る寝室に響き渡る。

 一瀬は気付かないうちに呟いていた。

「……幸せ者だな」

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