二話 幸せと不幸

①朝の教室

 一瀬慎太郎は、愛する人を幸せにすることを目的としていた。

 彼女の泉咲良は自分と同じか、あるいはそれ以上に尊い存在で、言動にはあまり出さないが、彼女を救うためなら何だってできると思うくらいに愛していた。

 たしかに最近は泉の干渉を煩わしく思い、校舎で時間を潰したこともある。それが理由で誘拐事件に発展したとなれば、彼氏である自分の責任を問われるのも当然だ。

 だとしても、朝っぱらから職員室に呼び出しを食らうなんて、あまりにも屈辱だった。

 となりで一瀬と同じく気を付けをする赤ネクタイの男は暮林。そして一瀬の担任である新堂先生は、暮林の弁明を、人形のように頭を揺らしながら聞いていた。タイトスカ―トから伸びるほっそりとした脚を艶めかしく感じる余裕もない威圧感がある。

「つまり、その件と二人は何の関係もないってことね?」

 見た感じ二十代前半に見えるが、経験値は一瀬の遥か上をいくそうで、美人な顔には似つかわしくない目の細め方をする。

 早朝の職員室は忙しない教師たちが行き交っていたが、二人の意識は目の前にしか向いていなかった。

「いや……えっと、はい。そうですよ……僕と一瀬はたまたま近くを通ってただけです。帰り道が一緒なんですよ」

 そう答えるのは暮林。車を止めるほどの勇気を張ったというのに、それを隠し通すとなると、これほどに挙動不審になるのはおかしな話である。

 それにしても新堂先生、昨日の事件について尋問するのはいいが、どこから情報を仕入れたのだろう。やはり面倒な野次馬がリークしたのだろうか。

「学年違うのに、仲良いの?」

「あったりまえじゃないですか! 僕にとって尾鳥高校の全校生徒がフレンドですから! 数回ラリーを交わせばもう親友ですよ!」

「……そう。一瀬君は?」

 暮林を相手に建設的な話をするのは難しいと判断したのか、一旦諦めて、椅子の向きを一瀬に変える。

「こいつと親友になったつもりはないですけど、言っていることに間違いはないですよ。本当にただ通りかかっただけなので」

 毅然とした態度で応答する。ピシッと着こなしたブレザーは一切揺れることがない。

「泉さんを車から引っ張り出してるところを見たっていう話があるけど」

「気のせいですよ。外野はああいう状況に遭遇したとき、変に悲劇めいたり、美談めいた見方をするんです。当事者の意見を尊重して下さい」

 二人の顔を見比べる新堂。

 多めに一瀬の顔を確認したかと思うと、新堂は大きなため息をついた。

「わかった。君たちがそう言うなら信じるわ。うちの生徒は無関係ってことで話を通しておくわね」

「そうして下さい」

「もったいねぇ……」

 新堂が「え?」と声を漏らすのと同時に、一瀬は馬鹿野郎の脇を小突く。

「いいわ。教室に戻りなさい」

 失礼しました。二人は綺麗に声をハモらせて職員室を後にする。

 戸を閉め安堵の息を漏らす暮林。

 廊下の方では、生徒たちが室内とは違った賑わいを見せていた。

 一瀬はネクタイを首元まで引き上げると、先んじて二年生のエリアへ足を運んでいく。

「おい、ちょっとは喜びを分かち合おうぜ」

「もうしたよ。昨日はありがとうな」

 追いかけようという意思が喪失されるほどに、背中を向けたまま手を掲げた。

「言えんじゃん」

――――

「どうでしたか?」

 説教の様子を見ていた暮林の担任は、事務処理といった感じで新堂に話しかけた。

 まだ春だというのに額が汗で光っている。妙に中年臭い男だ。

「否定しているし、信じるしかないですね」

「いいじゃないですか、それで。我々の時間を奪われたんじゃ溜まったもんじゃないですよ」

「はは……そうかもですね。それはそうとタニグチ先生、今日、どこかでお時間を頂けますか? 宜しかったらご相談があるんですが……」

「は、はぁ……」

 屈託のない――だがどこか意味ありげな笑みに、暮林の担任は曖昧な態度になった。



 二年一組に戻ってきた一瀬を笑顔で出迎えたのは泉だった。

「おはよう! 慎太郎!」

 穢れ一つのない無垢な彼女が、胸に頭を埋めてくる。

「ああ、おはよう咲良」

 ようやく日常が戻ってきたのを実感した一瀬は、とろけるような感情を泉に覆い被せた。

 惚気すぎては目立ってしまうと思い、ゆっくり身を剥がす。

 ふと教室内を見渡すと、遅れて来た割には、いつもよりも賑やかさが足りなかった。

「なんか、人少なくないか?」

「転校生が来たんだって。何人かは様子を見に行ってる……そうじゃなくて!」

「昨日あんなことがあった割には元気そうだな」

「元気じゃないよ! 一緒に帰りたくてずっと待ってたのに、全然慎太郎が来ないんだもん! 私、寂しかったよぉ」

 なんと可愛い小動物だろうか。どこか演技しているように見える部分もあるが、それが彼女の余裕ならばと、一瀬も正直に理由を話す。

「たまには一人で帰らせてくれよ。ゆっくりしたいときだってあるだろ」

 感動ドラマ風の空気だったのに、急に一瀬が壊すものだから、泉は口を尖らせる。

「そう言って一人で帰ろうとするの何回目だっけ?」

「お前も待ち伏せしてるの何回目だっけ?」

「カップルは何時いかなるときも一緒に行動するもんなんじゃないの? 慎太郎は私に対する愛が足りてないんだよ。だからあんな事になるんでしょ」

「それはお前が可愛すぎるからだ。逆に野暮ったい格好でもしてみたらどうだ」

「ななっ――」

 一瀬の発言に、泉は二の句が継げないようだ。

 言い返せなくなった泉に代わって、カップルの甘いコントを見ていた友人が口を出す。

「咲良―。お腹一杯だからもういいよ」

「ははは、お疲れ様ー」

 文武両道、容姿端麗な一瀬と――男友達も女友達も多い、交流の広い泉。

 この学年のベストカップルとも言える二人の関係は、学年全体に知られている。

 一瀬はもちろんそのことを理解した上での態度なのだが、一方の泉は、そこを突かれると熟れたリンゴのように赤くなってしまうのだ。

 そんなに好きなら同棲しちゃえばいいのに。誰かが言った台詞がトドメを刺す。

「それもそうだな。恵衣子とは仲良いだろ。きっと喜ぶぞ」

「ううう……」

 家族の名前まで出され、完全に茹で上がってしまったようだ。

 そんな泉を軽く冷ますために、一瀬は頭を撫でるように叩く。

「ま、もう少しお前のことを大切にするようにするよ。昨日は俺のせいだしな」

 ヒューヒューというありきたりな冷やかしよりも、その台詞は良く効いていた。

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