3‐B 魔

 誰からも気づかれないように、ベランダの猫の置物の中に電子レンズの望遠カメラを設置するまで、その人がわたしを覗いているのに気づかなかった。

 レンズを設置したのは気晴らしだった。どうしようもなくシンに振りまわされる自分に嫌気が差したからだった。はじめてのデートのとき、シンはいった。『きみはきみ自身のままでいればいい』この前の最後のデートのとき、シンはいった。『なんて、わがままな女なんだ!』その間に、どのくらいの貴重な時間を二人はすり減らして来たのだろう。

 たったの二年だから決して長い時間ではない。『それくらいで気づいてよかったのよ!』と女友だちはいった。『わたしなんか七年も経ってから、お互いが違うものを見てるって気がついたんだからさ』じゃあ、最初に見ていた同じものって何だったの? とわたしは聞き返したかったが、それは止めた。どんな答えが返ってきても、それを自分とシンの関係に置き換えて考えてしまいそうな気がしたからだ。恋愛なんて、所詮はみんな似たものだから、特別な感情さえみんな同じだと思うと空しかった。それは誰でも罹るウィルス性疾患。距離的にいっても空気感染だよなぁ、やっぱり。。じゃ、写真なんかで憧れる場合はパタンの一致(完成?)か? 脳内化学物質と記憶部位との戯れだ。そこまで完全に制御できたら面白いと思う。少なくとも、いまはね。新しい恋を拾ったときには、それじゃイヤだ! 話は戻って、懐かしい気分と相補感を、誰だか知らなかった相手に感じるのだ。容姿や動きや癖の好みも、わたし自身に気づかれることなく刷り変えられる。そうすれば、わたしは常に満足。シンのこと考えると空しいなぁ。あいつの、何故だか傾いた歩き方とか、鉛筆を指先で転がす癖とか好きだったのに…… いまはキライだ! アウトドア派じゃないので、同世代の男たちと比べると白すぎる背中なんか、知らない人みたいだったもんなぁ。こないだなんか、一緒のベッドの中で目覚めて、ぎょっとしちゃったよ! でも年齢的にも身体は疼くし、他にセックスの相手はいないし…… まぁ、全然じゃないけど…… 恋の駆け引きは楽しいけど、気力がいる。って、年寄りみたいなこと考えてる。いまは朝だからまだトロトロしてるけど、会社に行ってルーチンワークをはじめると、意識の隙間に怨念が湧く。同じ事を繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し考えてしまうのだ。シンのことを切り捨てられない自分が、自分でキライだ。心が離れてしまっているのに(といういいかたもわがままだよなぁ)、こうされたい、ああされたい、じゃなく、こうされるはずだった、ああされるはずだった、と意識の螺旋をこねくりまわす。ぎゃ、だよね。でも、他のことは浮かんでこない。でも、あきらめて流されるのも癪だしなぁ。望むものに変わらないなら変えてやればいいわけだけど、努力は要るし、しかも完全にそれじゃ面白くない。ちょっと怖いしね。自分が権力者だと知っている権力者は、支配しているものたちが怖いから、ますますその権力を強くしようとするけれど、すると、それ以上に怖さも増して…… まぁ、たいていは、そんな感情はどっかで麻痺するわけだけど…… わかっている、馴染んでいるものは安心だけど、住みなれた街の気がつかなかった一郭のように、ほんの一瞬でもどこかミステリアスなところがなければ(またそれが自分の許容範囲内になければ)、恋愛関係はつまらない。家族になってしまえば、そんなことはどうでもいいことに、つまり生活の裏側になってしまうから余計な要素はいらないけど、そこまでシンを見切れもしない。困ったな、って感じか? それでも、それなりに(場合によっては)のほほんとしていたから、覗きの人が、距離はあるけど向かいのビルにいるのは刺激になった。わたしはきれいだし(と思いたい)、スタイルもいいし(もっと、そう思いたい)、頭も切れるから(ま、専門に関してはね。それで食べてるんだから)、危害がないところで誰かに見つめられるのは悪い気はしなかった。あっ、あわててつけ加えると、覗きの彼がわたしの好みだったことが、そう感じさせたいちばん一番の要因だ。細い肩にスラリとした体躯、少しだけ神経質そうな表情と、華奢ともいえそうな顎の線。あるときなんかは、風呂上がりだったんだろうけど、延びていない萎えたペニス姿の、かわいい彼の姿を見かけたりもした。知らない相手だから容姿は重要。そうでなければ、蹴り殺すか、撃ち殺すか、爆弾でも投げ込んでやりたい気分になったはずで、実際、警察かビルの管理人に電話をして、最低でも恥をかかせていたに違いない。怒ったときのわたしは怖い(らしい)。もちろん、自分ではいつも茫洋としているってだけの感じだったけどね。

 だから、シンがわたしの友人といい関係になっていると知ったとき、わたしは自分の中に脹れ上がってきた感情に自分自身でびっくりしてしまった。そんな感情を抱くこと自体が癪だという感情さえ湧かなかったのだから…… そして一度(ひとたび)そんな感情にとりつかれてしまうと、それを脳裡(表?)から取り去ることができなくなった。考えの螺旋がぐるぐるまわった。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる、ネジのように頭の感情部位に突き刺さっていったのだ。そんなわたしの一瞬の表情の変化に、『あ、でも間違いかもしれないから……』と、シンと友人との関係を密告してきた別の友人はぎょっとしていい繕ったが、わたしの中の凍てついた感情がそれで緩和されることは金輪際なかった。その友だちにしてからが、普段姉さん然として、わがままなシンの振る舞いをわたしが優しく許しているように思えたから、噂話を密告しても平気だと高を括ったのだろう。が、それまで、わたしの中にわずかずつだが積もっていた疑惑――香水の匂いだとか、髪の毛だとか、立ち居・振る舞いだとか――が一気に筋をなして繋がってしまい、わたしひとりの力では決してほどけないように絡み合ってしまったのだ。そんなわたしを覗きの彼はどう見ていたのだろう。傍目なんてわからないものだ。けっこう、憂鬱そうで可愛らしいなんて思っていたのかもしれない。

 猶太の魔法陣による悪魔召喚のことはまた別の友人から聞いていた。わざわざ好き好んでネットワークにホームページを出している、ちょっと変わった女(の子)からだ。わたし自身もネット経由で悪魔召喚に関する情報を集めた。調べてみると山のように沢山あったが、こんなときは勘が働くもので、二〇個目くらいに欲しい情報に巡り合った。もっとも、信じる気などさらさらなかった。これも気晴らしというだけだ。ベランダに望遠レンズをつけたのと一緒で…… シンにちまちま文句をいう気力はなかった。問い詰めれば、それなりに楽しい時間を味わえたかもしれないが、それにはどうしても不快感がつきまとうし、より大きなダメージを受けるのは、シンが見切れない自分の方だと知っていた(悔しいよなぁ!)。で、別にのめり込めるものを見つけたかったのさ。はっ! 実際、放っておいても(シンとというよりは自分の心との)対決のときは来るだろうし、自分の思い通りに行かないからって、何かと理由をつけてさめざめと泣くのもイヤだった。そういった涙は自分のために流す涙だ。そいつは、あんまり好きじゃなかった。だからスケールはいい加減だったけれど、けっこう大きな魔法陣を和室に紙を敷いて描いた。妙に理系の血が騒いで細部にこだわったから、描いている間はまさに忘我の境地だった。けれども完成して、呪文を称えた辺りでばかばかしくなった。一応最後まで称えたけれどさ。……種々のアイテムも呪文も略式だったけど、まぁ、気分、気分。だからというか、当然というか、結果として、呪文が終わっても悪魔は召喚されなかった。それで、これもヘンな話だけど妙に身体が疼いてきて、ベッドに入って自分を慰めた。ちょっとシンの名前を口に出してみた。最初の頃のことを思い返して、渾名じゃなくって本名で。でもそれは、もう顔つきも体つきも違う別の人格を持っていた、同じ名前の違う存在。たぶん、だからだろうが、その名前でもイクことができた。ばかばかしいけど、ちょっと演じてみちゃったわけだ。とそのとき、ふいに電話が鳴った。シンからだった。わたしは不機嫌な声で返事をすると(当たり前だよな!)、酔っ払ったシンのシン自身によって正当化されたいいわけを聞かされるはめに陥った。じっと、じっと、じっと。『お互いに心が離れてしまったから、一緒にいてもしょうがない』とか『きみのことは大事に思っているけど、だからこそ別れる必要があるんだ』とか、とか、とか、とか…… それを理由にさめざめ泣けたら楽だと思った。『わたしはいつだってあなたのことを思っているのに、どうしていつもわたしばかりが……』っていうふうにさ。実際、大昔に同様の理由で泣いたときには、それなりに気がさばけたものだ(ヘンな表現)。でも、いまとなってはバカらしい。いまは、シンの声を聞いているとムカムカしてくる。そして、それだけの理由で、わたしはシンを呪い殺す気になった。最後くらいは、面と向かって、取り繕わずに話ができんのか! 『わかった』とわたしは電話に答えた。『好きにすれば』

 時が溯ればいいと思ったりはしない。けれども、あの後深夜喫茶に行って酒を飲んでそこそこの男と寝たのは失態だったな、とは思った。まぁ、はじめての店だったし、後腐れはないだろうし、そいつが寝ている間に服を着て帰ったから、たぶん二度と遭うこともないだろうけど…… 普通の誰かみたいに行動したことが、自分でちょっと恨めしかった(情けない!)。でもまあ、話はそこで終わり……だったはずなんだろうけどなぁ、普通なら。

 シンが同じ会社の同僚に殺されたのは、それから二週間後のことだった。

 その前日、深夜に、新しいシンの恋人兼わたしの友人から『矢上さん(シンの名字だ)、あなたのところに行ってないかしら?』と電話があったとき、不信な感じは抱いたけれど。あれから直接その話を二人でしたことはなかったが、シンがわたしに自分のことを告げたのは、電話の向こうで彼女も聞いていたはずだ(彼女がそこにいたという確信はある)。そんなバツの悪い相手にその内容で電話をしてくるなんて、よっぽどのことだと想像がつく。もちろん、わたしは『知らない、来てないよ』と答えた。電話の向こうの友人は泣きそうだった。でも、知らないものは力になれない。返答は事実だったし…… それに彼女が悪いんでもない。翌日、警察が取り調べに来て、びっくりした。犯人が覗きの彼と知れたからだ。そのときだけは、ちょっと背筋に悪寒が走った。でも、そんなものかもしれないなぁ、とも思った。シンに哀れみは感じなかった。覗きの彼は黙秘を続けているらしい。警察はシンの元彼女のわたしから何を聞き出せると思ったのだろう。彼は覗きのことを口にしていないようだ。だったら、わたしも口を鎖していよう。そして、いつの日か、わたしが彼をまだ憶えていて、彼がまだわたしのことを好きだったとしたら(だって、他の理由が考えられる!)、出所してくる彼に花束の一輪くらいはあげてもいい。

 シンの通夜にはいかなかったが、あとで送られてきた写真には、参列者の中にちょっと目つきの鋭い男が写っていた。二、三日前、わたしの元を訪れた友だちの中の男二人が、その人のことを<悪党>と呼んでいた。そのとき何故か、わたしは写真の中で男が振動しているように感じた。存在を一定に固定せず、ときによっては過去に溯っているようなイメージが浮かび、そして消えた。だがそれは、ほんの少し前に魔法陣を描いて呪文を唱えた和室で、訪れた友人たちをもてなしたからではないだろう。

 まさか、ね?(了)


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