2-B 臆

 その人の存在にはじめて気づいたのは、思い返せば、壊れた携帯の充電器を買いに近所のパソコン・ショップに走り、びっくりしたようにお互いを見つめ合って凍結してしまった奇妙なカップルを見た日だったような気がする。

 その日は、いつも乗る八時二十二分の準急より三~四〇分遅い電車で帰った。そこに彼がいたのだ。そのときは別段気に留めはしなかった。細い顎の線がちょっと好みかな、と思った程度だ。そして、ずいぶん疲れている様子だった。その後、しばらくしていつもの電車で帰宅してみると、どこかからともなく視線が注がれるのを感じた。何気なく振り返ってみると、あのときの彼から発せられたものだとわかった。それからも、わたしはしばしば同じ電車の中で彼の視線のシャワーを浴びた。

 視線というのは不思議なものだ。彼がわたしを見つめている視線を、わたしははっきり感じることができた。が、わたしがそう感じていることを、彼は気づいているのだろうか? あるいは、同じ電車に乗り合わせた何人もの乗客たちは、そんなわたしと彼の関係ともいえないような希薄な関係の香りを、嗅ぎつけることはないのだろうか? もっとも、わたしは幼いときから人に見られるのは馴れていたので、その辺りの感覚が人より多少は優っていたのかもしれない。

 さらにしばらく経ってから、わたしは彼と近くのコンビニで出遭った。これは偶然だったのだろう。入って来たとき、彼は少しもわたしに気づかなかったからだ。が、買い物を済ませてレジに並び、入り口のガラスドアに映った彼の姿をチラと見やると――そのときは、惣菜を買っていた――、今度は彼はわたしに気がついているようだった。それからほんのわずか後、わたしは左手の薬指に熱さを感じた。彼が指輪を見つめていたのだった。それは、いつもわたしがしている安物の指輪ではなく、数日前に幼い頃の許婚から貰ったものだった。

 許婚とは、その一ヶ月くらい前に偶然再会した。許婚は海外文献の翻訳を生業としていたが(それは、そのときはじめて知った)、仕事の都合で本社に出張してきたらしい。ここ一〇年くらい滅多に会う機会はなく、最後に会ったのも数年前だったが、会えば時間が瞬時に引き戻される関係はまだ続いていたようだった。互いに気づいたときには、昔と同じに『ナヅケ』『オヨメ』と当時の愛称で呼び合った。そのときは、翌日食事をしようという約束だけで別れたが、その食事の前に、どういった戯れか『いつかの約束を果たす』と、わたしが一切憶えていない記憶を元に、決して安くはない指輪をくれたのだった。いまのわたしは許婚に特にこれといった感情は抱いていなかったが、指輪は、わたしの中にいつしか仕舞われていった甘酸っぱい記憶をいくつか引き出してきた。その中には、誰にも知られることはないと当時思っていた廃屋の破れた畳の上で、許婚の幼い性器に好奇心いっぱいに触れた記憶も混在していた。わたしの小さな細い指に触れられた許婚の性器は、その時点ですでに淡く充血したピンク色に変わっていたが、まだ成長しきっていない小さな生き物は、もちろん白い叫びをもらすことも、男の獣性を呼び覚ますこともなかった。そしてもちろん、わたしはわたしの小さな同じものを許婚に触らせることはしなかった。子供の汚れた手で触れられれば、そこから黴菌が入り、悪くすれば化膿するだろうと知っていたからだ。けれどもそれが、その後のわたしのすべての機会を奪う要因になってしまったらしい。

 男のものを見るのは、まあ、二回目のはじめてのときは想像以上に身体が固まってしまい、そんな自分を可愛く思ったりもしたのだが、抵抗はなかった。けれども、わたしはわたしの性欲を刺激する相手に自分を見せることができなかった。期待とそれ以上の混乱の中で衣服をすべて脱ぎ去ったこともあったが、それさえあくまで布団の中でのことで(そこまでは大胆にできた)、相手の男を感じさせる指先がわたし自身に延びてきたとき、それを入り口に触れさせることはできなかった。そのとき、わたしはいきなりまさぐって相手のものを握り、勢いを込めてそれを上下・前後にしごいた。単純な男の生理くらいは理解していた。有無をいわせぬ前に、たとえ優しい相手であっても、どう考えても腕力的に優勢な獣を静まらせるためには、それを解放してやる必要があるということくらいは…… それに相手だって、まだ若く多感な一〇代だったのだ。わたしの恐れを、不承不承ながら、相手は理解した。だから、わたしの耳元で『うっ』というかなり堪えた鳴咽をもらすと、『出ていって』と冷たい声でわたしが両親が留守の相手の家の部屋のドアを睨む前に、筋肉が美しく骨に張りついたしなやかな身体の持ち主は、うなだれた自分自身を瞬時わたしに見せて、その部屋を去った。わたしはドアが閉まったのを確認すると、大慌てで衣服を身につけ、宙に浮かんだような混乱の中で、次に相手としなければならない会話の内容を考え、しかしそれさえ取り繕う余裕もなしに、逃げるように相手の家を去ろうとした。最寄り駅まで見送ってくれた相手に、別れ際、『今度はたぶん大丈夫だと思う』という笑みを浮かべたような気もするが(プライドの問題だ!)、その辺りの記憶は判然としない。その相手とはその後もしばらく付き合ったが、所詮獣性が優る可哀想な若い男に肌を見せることは二度となかった。最後の別れ話のとき、ぎっしりと人の詰まった映画館で、どうでもいいようなコメディ・リリーフのとき、わたしは相手の熱くなった根元を解放してやった。もし憶えているなら、それは相手にとって暗い過去になっているかもしれない。あの日以来、わたしと一緒にいるとき、相手はいつもそれを延ばしていたからだ(可哀相に……)。だから、おそらく家を出る前に一度は放出してきたはずなのに、それはあっという間に弾けた。わたしは溢れ出た相手の白い息遣いのほんの一部を当時お気に入りだった自分の洋服に刷り込み(噴出口に触らないようにうまくやったつもりだったが、余計に手についた部分はハンカチで拭った)、その恋を終わりにした。L席の一番壁側に座っていて、またわたしは気づいたけれども気にしなかった沈丁花の香りは(その元は思ったよりもねとついていなかった)、まわりにいた多くのカップルの鼻孔にも届いていたに違いない。しかしいま思えば、映画が終わり、その場で通路の前後に分かれるまで、相手は純粋に(トランクスの中が)気持ち悪かったかもしれないわね。

 コンビニで彼に見つめられて指輪の部分が熱くなったとき、そんなことまで追想したりはしなかった。けれどもその帰り道、彼がわたしの跡を付けていると認識したとたん、いつのまにか封印していた様々な記憶が噴き出してきた。事件が重なるにつれて、そして年齢を重ねるにつれて、わたしのプライドはどんどん高くなっていき、そしてハードルもどんどん高くなっていった。わたしの指と(そして口と)わたし本人は、いつの間にか、単に誰かのマスターベーションの延長となっていた。現実に生きてしごいてくれる男の夢というわけだ。だから、男の裸さえ見たこともない御局さまたちよりは確かに経験を積んでいたわけだが、結局はただそれだけのことだった。自由にワン・ナイト・ラヴができる娘たちを羨んだことはもちろんないが、わたしの指先のすべての記憶が、わずかに(ある場合は大いに)形の違う十数本の肉棒だけというのは空しすぎた。そして想いがそこに至ったとき、彼はわたしを見失った。その日、わたしは自分で自分を慰めた。想像の中には、なぜか目鼻のない彼の顔が浮かんだ。許婚から貰った指輪は翌日ベランダの窓から放り投げた。電話番号も教えていないし、許婚と偶然出遭ったパソコン・ショップも滅多に行かないところだったので、さらに偶然でもないかぎり、二度と出遭うことはないだろう。食事の後、『この前仕上げた仕事』といって渡された翻訳本は捨てないで残した。本がわたしを呼んだからだ。猶太の隠れた伝統に関する本だった。

 それからしばらくは電車の中でも彼の姿を見かけなかった。その間に、わたしは本を読み終わった。さらにしばらくすると、わたしはまたしても左手の薬指に視線を感じた。彼の視線は『ほっ』としていた。それは、アクセサリー屋で気に入ったペンダントを買い求めた日のことだった。本の中のちょっとしたことは、すでに試していた。わたしは彼をいとおしいと感じていた。

 電車を降りると、案の定、彼はわたしの跡を付けてきた。『今度は見失うんじゃないわよ!』と願いながら、それでも別段いつもと速力を変えることなくわたしは帰路についた。彼はバレバレに身を隠しながら、わたしの後を追ってきた。商店道を行き交うの人たちの彼に対する視線の方が気になったが、不思議なことに、誰も彼を見ている風はなかった。住宅街に入り、アパートに辿り着くと、彼はわたしを見失ったようだった。そこで、急いで部屋に入るとベランダに出て、洗濯物を取り込みながら彼を捜した。すると、いた! だが、彼はまだわたしの姿に気がついていないらしい。こちらの方向を向いて、洗濯物を見ていたというのに…… それとも、すでにわたしの存在を確認していたのだろうか? そのとき、ふいに彼の眼がわたしを捉え、一瞬、二人の視線が交錯した。が、次の瞬間、彼は他人のふりをして、しかもそのままどこかへ消えてしまった。まぁ、こんなものかもしれないわね、とわたしは肩を竦めて、食事を作りに部屋に戻った。

 けれども数時間後、彼は戻ってきた。どうやったのかは不明だが建物および玄関の鍵を開けて部屋の中に入ったらしい。その物音でわたしは目が覚めた。彼の動きは、こちらがじりじりするほど緩慢だった。気配はこんなに濃厚だというのに…… わたしは待った。もう待てないのだからという想いを胸に秘めながら。おそらく、もっとも安全で上手く行くはずの遣り直しを期待して……

 彼が奥の部屋に近づいた。机に置いたペンダントにも気づいたらしい。襖に手をかけ、それと壁との境を指先でゆっくりと撫でているのが感じられた。わたしの身体が硬直した。彼が意を決してのろのろと襖を開けはじめた。わたしは濡れていた。わたしは眠ったふりをしていた。襖が、人ひとり完全に通り抜けられるくらい開かれた。彼が身を乗り出した。わたしの寝顔を見た。そして、ああ、もう彼は去ろうとしている。彼は満足していた。ただ、わたしの寝顔を見ただけで…… わたしの中で最後の戦いがはじまった。決死の覚悟で「きて……」とか細い声を口にした。顔が羞恥で真っ赤に染まるのを感じた。わたしは両手で顔を覆った。

 そして――

 彼のそれは決して最初から固くはなかった。それどころか、かなりの間、固くさえならなかった。わたしの心から、はじめて恐怖心が薄れていった。わたしはやっと最初のハードルを越えたのだ。けれども、まだ道は遠い。彼はまだ、わたしの大切なものに触れていない。彼もまた、結局わたしを道具としか見做さなかった十数人の男たちのように、ただ去って行ってしまうのだろうか? それともプライドばかりが高くて、その実、臆病すぎるわたしの気持ちに、いくらかでも付き合ってくれる気があるのだろうか? わたしはもう子供ではなかった。自分の容貌が衰えはじめているのも知っている。けれどもわたしは、彼にわたしを宝物として扱ってもらいたかったのだ。

 そのとき、時計の針がしゃんと鳴った。そして、わたしの中で止まっていた時間が再び動きはじめた。

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