第24話 箸從其河流下
──腕を引かれている気がした。
目を開けると、左右の腕を誰かに掴まれていた。
まるで天から持ち上げられているような感覚。
そういえば、やけに歩幅が狭い。視線も低いし、地面も近い。
いや、地面ではない。橋の上だ。
左右を掴む手の正体は、あたしよりずっと背の高い二人の男。
橋を、男たちに引きずられるようにして渡っているのだ。
──あの時だ。
帰ってくるはずだった母さんが帰ってこなくなって、次第に生への渇望を失っていった、あたし。
まともに抵抗することもなく、自分がどこに連れていかれようとしているのかも考えていなかった、あの時のあたしだ。
なぜこんな懐かしい夢を見ているのだろう。
彼と出会ってから、一度もこんな
あたしが寝ても醒めても覚えているのは、この後の邂逅だけ。
そう、ちょうどこの橋の中ほどで、向こうから歩いてきた彼と──。
「──……?」
あたしの歩いている場所からは研究所までが一望できる。
その真白の道で、あたし達より前に歩いている人影はどこにもない。
──どうして?
あたしは確かに、ちょうどこの橋の真ん中で彼に──イブキに出会ったはずなのに……。
どこかに、どこかに彼の姿がないかと必死に見回しながら、足を進める。
そうしているうちにあっという間に研究所の門まで着いてしまった。
「……ぁ」
そして、背後で門が閉まるその時まで、あたしを橋の上を見続け──、
「いやぁ、あんまりにも意外で驚いてもうたわ」
突如、頭上から降ってきた言葉にハッとする。
瞬きと共に景色が切り替わり──あたしは地面に倒れ伏していた。
バッとフードが取り払われる感覚。
一気に視界が広く、明るくなる。
全身を襲う強烈な悪寒に耐えながら見上げると、感情のうかがえない
「……ぅ、く」
見られた。
ついに、この数年隠し通してきた〈
「
その言葉に、思い出す。
そういえばコイツは十年前もあたしを追ってきたんだった。
襲撃前にイブキと約束した”あたしが清算すべき過去”には、この女も勘定に入れて然るべきだったのだろう。
──今はもう、それどころではなくなってしまったけれど。
思考がうまく纏まらない。
どこまでバレてる?
母さんの死は?
イブキはどこ?
この悪寒は、悪夢は、なに?
真っ白になる頭にいくつもの疑問が浮かんでは消える。
それを見透かしたように、ミスズリが口を開く。
「まさか、十年前は微塵も効かんかったもんが通じてまうとは」
「な、にを……」
「精神系の
恐怖を、
「そやねぇ。無いもんは煽られへんさかい、十年前はクシナはんには効かへんかったんよ。──そやけど、いまは効きはった」
「…………っ」
「この十年、たぁくさん、心を教えてもろうたんやねぇ」
羞恥とも、怒りとも取れぬような、熱さが胸の奥から込み上げてくるのが分かった。
自分の大事なものが、この女に盗み見られている気がする。
橋の上からあたしを抱き締めて飛び降りるイブキも。
必死にあたしを逃がそうと頭を働かせるイブキも。
大都会の駅を自慢するイブキも。
あたしを驚かせようとするイブキも。
申し訳なさそうに抱き締めてくるイブキも。
後輩を優しく助けてあげるイブキも。
寝ぼけ眼で照れたように笑うイブキも。
美味しそうにご飯を食べて喜ぶイブキも。
あたしとの誓いを結んでくれたイブキも。
受験勉強に苦しみながら努力するイブキも。
初めて訪れる地下基地に驚くイブキも。
あたしを信頼するイブキも。
あたしの信頼に応えようとするイブキも。
隣で歩いて駄弁っているイブキも。
──その全てが溶けて崩れ落ちていく夢を見た。
「ぅ、ああ……っ」
胸の前でぎゅうぅと両手を握って身体を丸める。
そうして自分の大事なものが失われゆく寒さを少しでも凌ごうと足掻く。
消える、消えていく。
いずれ必ず、消えてしまう。
あたしにだけは、
……ああ、あたしはもう、どうしようもなく。
「死ぬのが、怖くなってもうたんやろ?」
ミスズリの声が、あたしの心の声を代わりに拾い上げた。
彼と出会ってからの十年で築き上げた、あたしの財産。
この世のどんな
もう、たったの一年しか残されていない、ありふれた日常。
あたしが死んでしまったら、もう二度と味わうことのできない日々。
だからあたしは、歩み寄る死神の足音に、本当は誰よりも怯えている。
迫り来る死神の鎌を、何よりも恐れている。
「────」
それは、本当に?
「────」
本当に、あたしの心の奥にある恐れ?
十年間、彼と暮らして得たものが……。
「──ちがう」
意識するより早く、声がこぼれ落ちた。
あたしの意識が恐怖の闇に沈んでいくのを、余裕と共に見ていた蛇女の目がすがめられる。
「なんやて?」
「ちがう、わ」
「……なにが?」
怪訝そうに見下ろす女の目を、真正面から睨み返す。
「死ぬのが、怖いんじゃない」
肺腑から空気を絞り出す。
「──生きるのが、楽しいのよ……っ」
駄々をこねる子供のように腕を振るう。
抵抗を見せたこちらを警戒したか、ミスズリはそれだけで過剰なほど距離を取った。
「イブキと一緒にいる今が、楽しいの。だからっ、あたしは生きてるのっ」
地面に手をつき、ゆっくりと身体を持ち上げていく。
「死ぬのが怖いだなんて、そんなくだらない理由で生きているんじゃない……!」
叫ぶ心に同調するように、力強く地を踏み締める。
「嘘やろ……? あのナメクジと違って《金縛り》を解除できとるわけじゃないちゅうに……」
ミスズリが認めたくないとでも言うように首を振る。
未だにあたしの視界では、現実と重なるように幸せな”今”が溶けていっていた。
けれど、そんなの、いつものことだ。
恐怖なんてあるに決まってる。
いつか自分が消えてしまうのなんて、怖いに決まってる。
でも、大丈夫なのだ。
怖さを抱えたまま、”今”を生きてもいいのだ。
「──ああ、なんてバカなこと考えていたのかしらね」
ふと、
彼女の邪魔になるからだなんて。
それは自分を納得させるための言い訳だ。
彼が、彼の隣のあたしが消えることに、救いが欲しかったのだ、あたしは。
あたしがいなくなれば彼女が報われるからって、そう考えて自分の死に意味を持たせようとしたのだ。
「ほんとう、昔から狡いのよ、あたしは」
ふふ、と笑みが溢れるのを、不気味なものでも見るようにミスズリが見ていた。
が、彼女はすぐさま我に返ると、
「……まあ、ええわ。どうせ満足には動けへんのやろ?」
一升瓶を持つ手とは反対の手で、
それは、長く黒い鞭。
「痛みは恐怖を誘発すんねん」
黒鞭をしならせ、ぴしゃりと橋を打つ。
「いまクシナはんが感じてる恐怖に上乗せしていけば、いずれ
「…………」
彼女の予想は正しい。
いまも絶え間なく視界が歪み、凍えるほどの寒気が全身を襲っていた。
《停止》の
蝸牛の如く、ゆっくりとしか動けないには違いないのだ。
依然、絶体絶命。
けれど、あたしの心にあるのは一つの宝だけだった。
初めて彼とここで出会ってしまった時の記憶。
あの時たぶん、あたしは泣いていた。
いなくなってしまった母を想って泣いていた。
けれど、何もない心では、涙を流すことすらできなかった。
だから、あたしは河をぼうっと見つめていたのだ。
自分の代わりに、この河が涙を流してくれていた気がしたから。
そして、その河の源を辿るように──。
「大人しゅう寝なはれ……!」
ミスズリが腕を薙ぎ、空気を裂く音がした。
唸る黒閃。
まるで死神の鎌のように迫るそれは、
「────ほら、こわくない」
肩に当たった瞬間、不自然に勢いを失って、地に垂れた。
ミスズリに向かって──さらにその奥に向かって、笑いかける。
「ね? あたしの英雄」
「クシナ……ッ!!」
あたしの名を呼ぶ彼の声が、何万回目の木霊を打った。
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