幕間 果敢無き姫のうたかたの夢・二


 母さんに救われた後、しばらくの間は一緒に暮らした。

 私は追われる身であったから、実質『逃亡生活』と呼ぶのが正しいのだろうか。


 のらりくらりと拠点を変えて、母さんは私を連れて旅をしていた。

 して、くれていた。


 その中で「喜怒愛楽」とか「とりあえず笑っとけばいいよ! うん!」なんて適当な教えを残してくれた。

 いや、本人的には大真面目だったのだろうけど。


 彼女は感覚的なフィーリングの人だったから、感情の一つも分からない私に何かを教えるにはとことん相性が悪かったのだ。


 でも、その時の私には理解できずとも、今の自分になら理解できることは沢山ある。

 彼女の言葉が無駄じゃないのは、今のあたしが証明できる。


 だからそう、あの〈幽寂の悪夢〉が起きて彼女が帰らぬ人になってしばらくして。


 たった独りで彷徨さまよい、呆気なく捕まえられた私の前に現れた少年。


 彼の美しい翡翠の瞳を初めて見た時、私は確かにその輝きに目を奪われていたのだと、今ならはっきりと認められる。



 ♢♢♢♢♢



「────」


 橋上に一陣の風が吹いた。


 両腕を引かれながら、ぼんやりと川の流れを目で追っていた私は靡く髪に逆らわずに、顔を前に向ける。


 そこに、少年が立っていた。


 彼の短い亜麻色の髪は風に揺られ、その眼はしかと私のことを捉えている。

 まっすぐな翡翠の輝きに、不思議と見覚えがあるような気がした。


「ねえ」


 彼が私に──私たちに向かって口を開く。

 まだ声変わりしていない、女の子のような声だった。

 けれど、


「男二人で女の子捕まえて、何してんの?」


 私にはないものが籠った、芯の通った声だった。

 そこで気づく。


 ──ああ、既視感の正体は母だ。


 彼は私にはない、強い意志からなる感情を持っているのだと。


「なんだ、お前。研究所ウチからの帰りか?」

「子供にゃ分からない大人の事情ってのがあるんだよ。さっさと帰んな」


 呆れたような声が左右の頭上から響く。

 そんな中でも彼はじっと、こちらの目を見ていた。

 私もどうしてか目が離せずに、彼のことを見つめ返していた。


「おい、さっさと行けって──」


 言葉の途中で、彼が地面を蹴った。

 まっすぐにこちらに向かって駆け出す。


「ちっ、なんだよ、このガキ!」


 泡を食って二人の男が彼を止めようとした瞬間。


 ──両腕の、左右から掴まれていた箇所に、ぱしっと弾かれるような感覚。


 男たちの手が離れ、特に力を入れているわけでもなかった私の腕がだらんと垂れる。


「あ!? なんだ?」

「いま何か──」

「ごめんね!」


 驚いて隙のできた男たちの間を縫って、彼は謝りながら飛びかかってきた。

 私はされるがまま、避けようとも思わない。


 そんな私を抱えながら、彼が橋の路面を転がる。

 それから飛び起きて、男たちを睨みつける。……私を腕に抱いたまま。


 一瞬でさっきまでと状況が逆転していた。

 大人二人と彼は、互いに睨み合って動かない。


「おい、お前はそいつが誰か知らないだろ。意味わかんないことするな」

「さっさとこっちに寄越せ」

「嫌だね。死んだ目した女の子が大人に手ぇ掴まれて研究所に連行とか、見逃したら一生思い出して後悔する」


 気丈に言い放つ少年だが、彼が睨みつける二人の後方、研究所の入り口から何人もの警備員らしき人が出てくるのが見えた。

 男たちは嘲笑う。


「ほら、どうせ捕まんだから。大人しくそいつを寄越せって」

「今なら見逃してやるよ」

「…………っ」


 どんどん近づいてくる集団に、少年は焦燥を露わに歯噛みする。

 このまま踵を返して逃げても、あっけなく捕まって終わりだろう。


 彼の瞳が、再びこちらを見やる。

 私が無感動にそれを見返すと、彼は眉を顰めた。


「勘違いだったら悪いんだけど、捕まってたよね、アイツらに」


 別に答える義理もなかったが、自然と声が出る。

 その際、母さんに教わったように、とりあえず口角を上げてみた。


「確かに、状況的に私は捕らえられていたというべきでしょう」

「……君って、ひょっとして物凄く変な子?」


 前方への注意を切らさずに、彼は微妙な表情を浮かべる。

 まあいいや、と呟きを落として、


「なら、遠慮しないから。しっかり掴まっててね」

「おい、お前、何を……」


 男が言い終わるより前に、少年は私を掴んで駆け出した。

 橋の欄干の、向こうへと。


「────」


 どうしてか軽々と浮き上がった彼と私の間を、風が吹き抜けていく。

 眼下には幅の広い川。水面に日の光が反射して煌めいていた。


 背後で大勢の男たちが何か叫んでいたが、ほとんど聞き取れない。

 なにせ、



「ぅおわあああああああああああああああああ!!!」

「………………」



 耳元で、それはそれは大きな彼の叫び声が轟いていたから。



 ♢♢♢♢♢



「し、しぬかとおもった……ごほっ、げほっ」

「……けほ」


 私たちは運良く、溺死する前に河岸に流れ着いた。


「こほ……なにも考えてなかったのですか」

「え?」


 彼は私に話しかけられて、驚いたようにこちらを見た。

 じっと見つめていると、ふいっと目を逸らす。


「いや、まあ、めちゃくちゃ衝動に任せた感じだったし」

「衝動」


 復唱する。

 彼はぽたぽたと水滴の垂れる地面を見ていた。

 頭を振って水を飛ばし、立ち上がる。


「行こう。アイツら追ってくるかもしれないし」

「どこへ?」


 ぺたんと座り込む私と、見下ろす彼の間に沈黙が落ちる。


「…………どこ行こう?」

「知りませんが」


 端的に答えると、彼は苦い表情を浮かべた。


「うーん、君、親御さんは?」

「帰ってきません。半年ほど」


 もっと苦そうな表情をした。


「土地勘はある?」

「初めて来ました。彼らに捕まったのは少し離れた所です」


 いよいよ安息香酸デナトニウムを舐めたような表情になる。

 それから諦めたようにため息をつくと、


「とりあえず、研究所と逆方向に行こうか」


 そう言って、私の手を握って歩き出した。

 それから三十分もしない頃のことだ。


「……っ、もうこっちにまで!?」


 それほど離れていない場所からサイレンの音が聞こえてくる。


 考えればすぐに分かることだ。

 子供の足で本気の大人から逃げおおせるわけがない。


 私はやっぱり無感動に、優しく手を引く彼を見ていた。

 けれど、そんな私とは対照的に彼は周囲を見回して、


「あっち……!」


 少し離れた所に見える、森のような場所を目指して走りだした。

 その必死な表情を目に焼き付けるように見つめながら、彼を追い抜かないようにして付いていく。


 幸運にも誰かに見つかるようなことはなく、私たちはそこへ辿り着いた。


「はあ、はあ……神社、か」

「ですね」


 サイレンの音が近づいてくる。

 彼は迷ったようにあたりを見回し、


「隠れよう。このまま逃げるよりは、可能性があるし……」


 やがて厳しい表情のまま、鳥居を潜った。

 その後に続き、問う。


「どうして諦めないのですか?」

「……どうして、とは?」

「普通に考えれば、素直に諦めるべきでしょう。この状況で逃げおおせることは不可能です」

「やってみなきゃ──」

「そもそも」


 なぜ、私はこんなことを彼に尋ねているのだろうか。

 一瞬そんな考えが頭をよぎる。


「貴方に、私を連れて逃げる必要があるのですか?」

「ある。……もう、後悔するのは御免なんだ」


 歩きながら彼が振り返る。

 翡翠の瞳をじっと見返す。


「俺がしたいと思ったからしてるだけ。迷惑?」


 少しだけ考える。

 それから、


「いえ。……不思議です。私、なんだかふわふわしている気がします」


 口角を上げる。

 すると彼はきょとんとしてから、


「そっか……!」


 満面の笑顔を浮かべたのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る