幕間 果敢無き姫のうたかたの夢・三


 境内を見回している彼は、どうやら隠れられそうな場所を探しているようだった。

 とりあえずサイレンの音が聞こえなくなるまで、ということなのだろう。


 その場凌ぎもいい所だ。

 けれど、どうしてか「もうやめましょう」という気にはならなかった。

 代わりに、


「どうして、そんなに必死なのですか? 後悔とは?」


 尋ねてみたいことが、まろび出てくる。


「追われてるってのに余裕だね、君……」


 やや呆れながら言う彼に、そういえばと追加で問う。


「貴方のお名前は?」

「イブキ」

「そう、イブキさんというのですね」


 まじまじと後ろ姿を見ながら頷いていると、彼は嫌そうな表情をした。


「『さん』だと男か女か分からないから嫌なんだ。せめて『くん』にして欲しいかな」

「分かりました。イブキくん」

「それで、君は?」


 訊かれると、一番最初に思いついたものが自然と言葉になった。


「クシナです」


 それは彼女・・に呼ばれていた名。

 初めのうちは安直だなと思っていたものだが、気がつけばその名で自認するようになっていた。


「クシナさん」

「『さん』は要りません」

「……『ちゃん』?」

「名前以外は不要だという意味です」

「じゃあクシナ」

「はい」


 声を潜めて、けれど不安を誤魔化すように彼は言葉を続けた。


「逃げきれたらどうする?」

「どう、とは」

「だって、ほら……家族も、今はいないんでしょ」

「そうですね」


 淡々と肯定する私を見て、恐る恐る伺うように言った。


「一緒に、暮らす?」

「なぜですか?」

「うっ……いや、だって……独りは寂しいだろ」

「そうなんですか?」


 私はただ理解できない感情について尋ねただけのつもりだった。

 けれど彼にとっては、そうではなかったらしい。


「寂しくないの?」

「寂しいという気持ちがどういうものか分かりません」


 いつの間にか足を止めていた彼は、その翡翠の瞳で私をじっと見つめていた。


「本気?」

「嘘か本当か問うているならば、本当です」

「……いろいろ可能性は考えられるよね、こんな世界だしさ」


 ほとんど独り言のように、私を見つめながらもどこか『別の物語』を見ているように喋る。それから一つ、深く息をついて。


「一緒に暮らそうか」


 私は答えなかった。正解が何か分からなかったから。

 彼は言葉を重ねた。


「嫌じゃない?」


 なんとなく視線を下向けてみる。

 鳥居から本殿まで続く石畳が目に入って、しばらくそれを見つめた後。


「そう、ですね。嫌ではないのでしょう」

「じゃあ決まりだ」

「……はい」


 鳥居の外から大人たちの大声が聞こえてくる。

 彼は──イブキくんは思い出したように慌てて、境内の奥へと駆け出した。


 先ほどまでと違って、手は引かれていない。

 けれど、私は自然とその後を追っていた。


「あ、クシナ」


 走りながら、付け加えるように言う。


「俺も『くん』は要らない」

「……人を呼び捨てにするのは慣れません」

「好きに呼んでいいって意味だよ」


 先ほど私が言った台詞を、今度は彼が真似た。

 なんとなく、私もその時の彼を真似て答える。


「ではイブキくん」

「はいよ」

「……? さっきの貴方の真似をしただけですが」

「………………君って相当に変な子だね」


 呆れながらもまっすぐ走り続ける彼を見ていると、ふいに、胸の奥がすうっと軽くなった気がした。

 それから──、




「遮ってしもぅて、ほんま堪忍ね」




 その声が響いた瞬間、前を走る彼の足が止まった。

 まるで、凍りついたように。


「……っ、……ぁ」


 彼は背を向けたまま、胸元を抑えていた。

 私は声の主へと振り返る。


 そこに立っていたのは若い女だ。

 深緑を基調とした着物に、膝裏までの長い黒髪。

 特徴的なのは、左右で異なる赤と青の瞳。


「どなたでしょうか」


 線香か何かの煙が棚引く向こう側。

 女は小首を傾げると、


「知る必要あらへんよ」


 こちらの質問を切って捨て、蛇のように目を細めて言った。


「あんたはん──ごめんやし、クシナはん・・・・・。うちと一緒に来なはれ」

「どうしてでしょう」


 彼女は私の隣を指差すことで、その問いに答えた。

 見れば、隣ではイブキくんが息も絶え絶えに、蒼白の表情で女を見ていた。


「お知り合いですか?」

「……っ、いやっ」


 彼が必死に首を振る。


「し、知らないっ。あんな、恐ろしい・・・・人は……っ」

「恐ろしい……?」


 胸を抑える彼の手は凍えるようにがたがたと震えていた。

 私がもう一度目を向けても、着物姿の手弱女が恐れを抱く対象には見えない。


 むしろ、そのシルエットは嫋やかという言葉が似つかわしい。

 比べるまでもなく私を連行していた男たちの方が屈強であったと言えるだろう。


「そないな目で見ぃひんといてぇや、イブキはん・・・・・。それよか……」


 浅い呼吸を繰り返すばかりのイブキくんに愉快そうな視線を送っていた女が、飽きたように視線を私に戻した。


「いやぁ、びっくりしたわぁ。ほんま何も感じひんのやなぁ、クシナはんは」

「さっきから、なにを──」


 その時、私の隣で少年が崩れ落ちた。


「……っ、イブキくん?」


 慌てて支えるも、彼はがくりと項垂れたまま。

 呼びかけへの返事もない。

 抱き起こせば、脂汗をかきながら苦しそうに表情を歪めていた。


「なにをしたんですか」


 この場に疑うべきは一人しかいない。 

 彼女は、にゅうっと口角を上げた。


「知らんわぁ」

「…………」

「そやけどぉ、クシナはんが大人しゅう従ぉてくれはったら思い出すかもしれへんなぁ」


 腕に抱えた彼の様子を確認する。

 いまだに苦しそうに歯を食いしばっていた。

 けれどそう、食いしばっていたのだ。


 ──『一緒に暮らそうか』。


 前にもそんなことを言ってくれたヒトがいたな、と思い出す。

 瞼の裏に浮かぶ彼女を振り切って、着物姿の女を見返した。


「お断りいたします」


 すると彼女は意外そうに目を瞬かせた。

 それから、すっと目を細めて、


「ふぅん、可愛いとこもあるんやね」


 物腰柔らかな彼女の気配が重くなった気がした。

 何が出るかと身構え、いざという時は使う・・と決める。


 二人と一人の間に落ちる沈黙。

 木々だけがざわめく境内に、


「ま、ええんやけど」


 気の抜けたような声が響いた。

 警戒を切らさないこちらの前で、彼女は袖から瓢箪を取り出す。


「クシナはんがなぁんも感じひんのやったら、どのみちウチの仕事は終わりやさかい、好きに飲ませてもらうわぁ」

「お酒……」

「ほな、おやかまっさんどしたお邪魔しました


 こちらの呟きを無視して……いや、おそらく聞こえてすらいないのだろう。

 女は小さなやしろの階段に腰掛けると、ひといきに瓢箪を煽った。


「くはぁ〜、たまらんわぁ」


 すっかり蕩けた表情で酒を吟味する彼女をしばし呆然として見ていたが、気を取り直してイブキくんに肩を貸し、境内のさらに奥へと進み始めた。




 それから数分ほど歩いたところで、ついに彼の弱い足取りから完全に力が失われた。


「イ、イブキくん? 大丈夫ですか、えっと……」


 支えきれずに彼を地面に寝かせてしまう。

 辺りを見回すと、すぐそばに柵やしめ縄に囲まれた小さな池が見えた。


 内心で謝ってから、彼を水辺へと引きずっていく。

 ほとりの石畳に彼を寝かせ、顔色を伺った。


「あの人はなにを……考えられるのは、毒?」


 一番に思いついたそれに、知らず息が荒くなる。

 だとしたら私のすべきは、



「ただ寝てるだけだ」



 再び投げかけられる女性の声。

 けれど先ほどとは違い、私より少しだけ年上の少女の声音だった。


 そして、先ほどの女がかなり遠くから話かけてきていたのに対して、今度の声の主はすぐ傍にいた。


「…………っ」


 つまらなそうにこちらを見下ろしていた少女は、身を引く私を見て嘲るように笑った。


「おいおい、そんなにビビんなよ、人形・・の姫さん」

「……今度はどなたですか」

蟒蛇うわばみ女の連れだよ。こちとら二人羽織ツーマンセルが義務付けられててね」

「彼が寝ているだけというのは」


 彼女は、まじまじと私の顔を見つめた。


「そのままの意味だ。じきに目が覚めんだろ。それこそ、その池にでもつきおとしてやりゃあどうだ?」

「なるほど」


 真剣に考え込む私に、彼女は舌打ち一つ。


「こっちに丸投げしやがった姉貴に変わってお前を捕まえるつもりだったんだが、その前に一つ訊く」

「どうしましたか」

「……なんでお前、そんな必死な顔してんだ?」

「はい?」


 思わず聞き返す。

 必死とはどういうことだろうか。


「その池に写ってる自分の顔、見てみろよ」


 言われて水面を覗き込む。

 そこに写っていたのは、


「────」


 肩で息をし、瞳孔がいつもより開いた、私だった。

 イブキくんを引っ張ってくる中で、すっかり髪も乱れている。


「人形にあるまじき醜態だろ」

「そう、かもしれません」


 木の葉が一枚舞い落ちて、私のすぐ傍の水面に浮いた。

 数秒と経たぬうちに、それは沈んでいく。


「で? その表情の理由は?」


 私はたっぷりと考えてから口を開く。


「分かりません」

「……そうか。じゃあ、もういいな」


 彼女が私の襟首を強引に掴み上げる。

 私を連れていく気だと察した瞬間、即座に使える・・・よう備えた。


 しかして襟首を掴まれた私の紫瞳と、掴む彼女の紅瞳が交錯し、数十秒ののち。


「──くそッ」


 彼女は強引に振り払うようにして私を離す。

 それから金髪を翻した。


「好きにしろよ。餞別くらいならやる」

「……どうも」


 ひらひらと数枚の紙幣が落ちた。


「人の心は複雑ですね」


 遠ざかっていく朱色の着物を見送りながら独りごちる。


「いつか、彼女の心も分かるようになるのでしょうか」




 ──彼女の言ったように、イブキくんはすぐに目を覚ました。


 いつの間にか、あちこちで鳴っていたはずのサイレンは消え、駅まで向かう道中も肩透かしをくらう程にすんなりと踏破できた。


 理由は私たちには関係ない。

 そのまま飛び込むようにして、私たち二人は東京行きの新幹線へと乗った。



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