第9章 4話


 いざ展示会場に着くと、なぜか隼が入口でみんなを引き止めた。


「俺はさ、気の遣える男だから言わせてもらうけど。別行動しようぜ」


「別行動?」


「俺たちはまず、入り口近くに展示されてる佳作や優秀賞の作品たちから見ていく。ゆっくりな。だけど、結生。おまえはひとりで先に金賞を見に行けよ」


 え、と喉の奥からかすれた声がこぼれる。


「仮に金賞が小鳥遊さんの作品だったとしたら、それはおまえへの贈り物だ。このなかの誰よりも先におまえが見る権利があるだろ」


 語気強めに言い募る隼の言葉に、女子たちが顔を見合わせてうなずきあう。


「……そうね。そうしましょうか」


「いいんじゃないですか? あたし、他の作品も色々見たいし」


「うんうん。わたしも!」


 でも、という声は、隼に背中を押されたことで遮られた。

 面食らいながら振り返ると、隼は面倒見のいい兄のような顔をして「ほら」と顎で行けよと促してくる。ぶっきらぼうながら、そこには諭すような強い思いがあった。


「気になってんだろ、結生」


「っ……うん。ありがとう」


 俺はひとこと言い残し、タッと走り出した。

 例年、展示会の構造はほぼ変わらない。入口近くから始まり、順序通り奥に進むにつれて賞の格がだんだんと上がっていく。つまり、最も優秀たる金賞は最奥だ。

 俺は途中の作品にはいっさい目もくれず、真っ直ぐに毎年自分の絵が飾られているエリアへと向かう。朝一だからか、まだ観覧客はまばらだ。館内では走るなと注意されそうだが、運よく警備員と遭遇することなく、目的の場所まで辿りつく。


 そして、俺の足は止まった。

 A4サイズよりも二回りほど大きいF6キャンバス。金賞と冠を被ってそこに飾られていたそれは、受賞者の名前を見るまでもなく、鈴の絵だとわかった。


「……す、ず」


 俺は一歩、一歩、とその絵へと歩みを進める。

 震えていた。足も、手も、喉も。けれどそんな自分に気づかないくらい、俺はただただ目の前の絵に魅了されていた。


 ──それは、広大な空に泳ぐクラゲの絵だった。


 心臓が不思議なほどゆっくりと音を立てている。体中の血液の流れが止まってしまったのではないかと思うほど、俺はすべてを忘れてその絵に魅入った。

 朝と昼と夕と夜。一日の空の様子がすべて詰め込まれたような空に、ふわりふわりと流れるように、雄大に身体を委ねて揺蕩うクラゲ。

 俺のことをクラゲみたいだと言った鈴の笑顔が、ふいに脳裏に浮かんだ。


 海ではなく空。空に泳ぐクラゲ。

 色の使い方だとか、技術だとか、そんなことはいっさい気にならない。ただとにかく、その一枚絵が訴え働きかけてくる情念が、俺にとってはあまりにも衝撃だった。

 ゆっくり、ゆっくりと視線を下へなぞらせて、ようやく『小鳥遊鈴』という名前を見つけた。そしてさらにその下。この絵のタイトル。


 タイトル:私の好きな人

 サブタイトル:海の月の道しるべ


「……海の、月──くらげ、って……俺、かな」


 その瞬間、俺の瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 耐え切れなかった。

 泣きたい、という気持ちを抱く前に泣いたのは、生まれて初めてだった。

 次から次へと流れていく涙は、頬を伝って地面へ吸い込まれていく。

 留まることを知らない。涙腺が崩壊してしまったのかのようだった。俺の意思に反して延々と流れ続けるそれは、胸を引き裂かんばかりに絞めつける。

 鈴は、俺をずるいと言った。けれど、本当にずるいのはどっちだろう。


 だって、俺は知らない。

 こんなにも想いのこもった絵を──まるで、恋文のような絵を。なるほど、たった一行しか書かれていなかったあの手紙の続きは、まさしくここにあったのだ。


 ──これは鈴の世界に映る俺の姿。

 そして、この絵はおそらく鈴自身でもある。


「とうとう姉ちゃんに抜かれたな。天才モノクロ画家さん」


 唐突に耳朶を突いた低い声。弾かれるように横を向くと、そこに少年がいた。

 銀賞。そのプレートの下に、俺の描いた絵が大々的に飾ってある。

 鈴の小さなキャンバスとは違って、百号の油彩紙に描かれた大きな絵だ。

 その前でポケットに両の手を突っ込んだまま、ただじっと俺の絵を見つめていたのは、他でもない鈴の弟くんだった。鈴の葬式以来、約一ヶ月半ぶりだろうか。


「……なんで」


 ここにいるの、とは続かなかった。

 姉が金賞を受賞したとなれば、見に来るのは当然だと思い直したから。

 だが、そんな弟くんが見ているのは、なぜか鈴の絵ではなく俺の絵だ。

 その矛盾が霧がかった頭のなかでは上手く処理されなくて、俺は二の句が継げないまま、呆然と彼と自分の絵を行き来する。


「でも、もう、モノクロ画家じゃないか。これからはなんて呼ばれるんだろうな」


「…………わ、からないけど」


 ──今年の俺の絵は、モノクロじゃない。

 油彩紙に描いたのも、油彩画だからだ。

 とはいえ、すべてに色彩があるというわけではなく、俺の元の灰色の世界と、鈴が与えてくれた色づいた世界が融合した絵になっている。

 弟くんは片時も俺の絵から目を離さない。

 俺が鈴の絵に魅入ってしまったのと同じように、食い入るように見つめていた。


「なんであんた、これ描いたの」


「っ、え?」


「これ、姉ちゃんだろ」


 弟くんの静かな追及に導かれて、俺は改めて自分の絵を見る。

 透き通るような薄青の空の下、キャンバスいっぱいを咲き乱れる桜の巨木。そのふもとで、長い髪を風に攫われながら花びらに手を伸ばしている少女。

 色づいているのは、空と桜と少女だけだ。それ以外はすべて灰に染まっている。

 モノクロと色彩の対比は、一見してみればひどく歪だ。芸術と言えば聞こえはいいが、長年描いていなかっただけに、技術もなにもかも圧倒的に不足している。


 けれど、これこそが俺の描きたかったものだった。

 皮肉なことに、色づいた世界に足りなかったのは俺の灰だったのだ。

 銀賞を取れたのも不思議なくらいの完成度なのに、俺はこれを描き上げたとき、たぶん人生でいちばん満足した。

 心の底から、ようやく描きたいものが描けたと思った。


「……なんで、なのかな。描きたかったから、描かないと後悔すると思ったからとしか言いようがない。描きたくて描きたくて、衝動が抑えきれずに描いた絵なんだ」


 これは、俺に見えていた鈴の姿だ。


 ──タイトルは『モノクロに君が咲く』。


「馬鹿だよなぁ、なんか。あんたも姉ちゃんもお互いのことを描いてるのにさ。それで優劣を決めちゃう絵画コンクールに出すんだから」


「……それは」


「わかってるよ。絵を描く人間同士だからだろ」


 ようやく弟くんはこちらを向いた。その目はすでに赤く充血しているように見えた。

 俺も人のことは言えないな、と思いながら、いまだ止まらない涙を拭う。

 俺の方に歩いてきた弟くんは、今度は鈴の絵を見上げながら切なげに微笑んだ。


「ようやく、姉ちゃんの夢が叶ったんだ」


「……夢?」


「あんたを追い越して、金賞を獲るって夢」


 俺は、え、と目を瞠る。


「それが鈴の夢だったの?」


「うん。姉ちゃんが病名宣告をされた年──あんたが初めて、絵画コンクールに作品を出した年。ほんとにたまたま展示会に来てさ。そこで姉ちゃんは、あんたの絵と出逢ったんだ」


 中一。つまり、俺の世界が色を失って灰を被った直後だ。


「運命の出逢いだって言ってたよ。絶対にこの絵を超えてみせる。絶対に私が金賞を獲るって、病気のことなんか忘れたみたいに言ってた」


「運命、の」


 ふいに脳裏に過った鈴の言葉。


『私にとっての運命の出逢いは、ぜーんぶ先輩ですって』


 俺は唇を震わせた。あれはそういう意味だったのか。そんなに前から鈴は俺のことを認識してくれていたのだと、いっそ頭痛すら覚えながら実感する。


「それが姉ちゃんの生きる意味だったんだ。寝ても醒めても絵を描いて、毎年『また負けちゃった』って悔しがって笑って。いつもいつも、すごく楽しそうにあんたを追いかけてたよ」


「……っ」


「あんたと出逢ってからは、とくに毎日幸せそうだった。……去年のコンクール、姉ちゃんは最後だと思ってたんだ。結果を見て『結局最後の最後まで追い抜けなかったなぁ』って泣いてたよ。たぶん、コンクールで泣いたのは初めてだったね」


 その声は俺と変わらないくらいに頼りなくて、ひどく震え交じりだ。


「けど、やっぱり、すごく幸せそうにも見えてさぁ……っ」


 弟くんはゆっくりと俺を振り仰ぐと、頬に涙を流しながらへらりと笑った。


「──ありがとう、春永先輩。あんたのおかげで、姉ちゃんはずっと幸せだったよ」


「っ……!」


 ああ、もう、だめだ。


「俺、だって……幸せだった……っ!」


 とめどない涙を噛み締めるように拳を握りしめて、鈴の絵を見上げた。

 やっと、今やっと、鈴の言っていた言葉の意味がわかった。

 技術や独創性などを超越して人生を変えてしまうような力を持った絵。

 鈴の絵は、まさしくそれだった。

 こんなにも感情に満ち溢れた優しい絵があるなんて、俺は知らなかった。


「……なんで……なんで、鈴だったのかな」


 どうしようもないとわかっている。

 現実逃避だと、また鈴は仕方なさそうに笑うだろう。

 それでも、どうしても、思ってしまうのだ。

 どうして鈴が死ななければならなかったのかと。

 鈴じゃなくたって、よかったじゃないかと。


「……もっと、一緒にいたかったよ……鈴……っ」


 耐えきれない思いがこぼれて、こぼれ落ちて、俺は思わずその場に崩れ落ちた。

 弟くんが焦ったように俺の背を支えてくるけれど、そんな彼もまた、俺と変わらないくらい泣いていた。


「そんなん、おれもそうだよ! 姉ちゃんと、もっと一緒にいたかった……っ! 今さら後悔したって遅いんだからなっ!」


「……後悔、なんて、してない……っ」


 たしかに深い傷は俺の心に刻まれた。

 でも、それでもなお、鈴と過ごした時間を後悔したことは一度もないのだ。

 きっとこれからも、鈴と付き合わなければよかったなんて思うことはない。


 俺にとって鈴と過ごした時間は、かけがえのないものだった。

 鈴と出会っていなければ、俺はずっと灰色の世界でしか生きられなかっただろう。

 人形と揶揄されながら、他人への興味も自分への興味もなく、淡々と単調に色のない世界を揺蕩っているだけだった。


 けれど、今はこんなにも胸が痛い。

 痛くて痛くて痛くて、仕方がない。

 その痛みに、示される。


 どうしようもなく、俺が今、鈴がいないこの世界に生きているのだと。


 生きていかなければならないのだと。


「……弟くん。俺は、鈴と出逢えてよかったよ」


 止まらない涙をそのままに、俺は顔をもたげて弟くんを見つめた。


「心から、そう思う。ずっと一緒に生きたかったし、もっとやりたいこともたくさんあったけど。でも、俺のなかには変わらず鈴がいるんだ。だから、鈴が棲みついた心と一緒に、俺は生きていくよ。生きて、生き抜いて、いつか再会したときに、今よりもっと色づいた世界を乗せた絵を、見せてあげたい」


「春永、先輩……」


「……そうやって誰かを想うってことも、絵を描く理由も、全部、鈴が与えてくれたものだから。まだ、きっと全然、空っぽなのは変わんないけどさ」


 俺の描いた絵のように、俺はまだ完全に灰色の世界から抜け出せたわけではない。

 数え切れないくらいの後悔を抱えて、足掻きながら生きている。

 けれど、そこを照らしてくれる鈴が俺のなかから消えない限りは、きっと歩き続けることができるのだ。道を示してくれる彼女がいるから、迷いはしない。


「だから、君も生きて」


「っ……よけいな、お世話だよ」


「うん。でも、これは鈴からの言葉だから。弟の君へもお裾分けするべきものだと思うんだよね。みんなで生きて、鈴との約束、守らなくちゃ」


 俺は下手くそに笑いながら弟くんの頭を撫でて、ふたたび鈴の絵を見上げた。



 ──ねえ、鈴。



 もしもいつかまた出逢えたなら、俺はきっともう一度、君を好きになるよ。


 春が来るたび、桜が咲くたび、君を偲びながら。

 枯れない桜を抱きながら生き抜いた先で、どうか君が迎えてくれることを祈りながら、願いながら、俺はこの世界で懸命に生きていくと誓おう。


 だから、俺がまた君を見つけるまで、もう少しだけ待っていて。


 愛してる。


 ……俺の世界でいちばん、大切な人。



【完】

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モノクロに君が咲く 琴織ゆき @cotoori_yuki

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