第7章 2話
◇
「よーっす」
放課後、いつものように屋上庭園でひとり絵を描いていると、珍しい来客があった。
絵の具を筆先でいじっていた手を止めて振り返ると、右手に購買のビニール袋を下げた隼がのらりくらりと歩いてくるところだった。
「……?」
「んだよ、その奇妙なものを見る目は。ひとり寂しく部活中の部長さんに差し入れ持ってきてやったんだろ。幼なじみの親切心に感謝しろよ」
「自分の部活はどうしたの」
バスケ部の隼は、運動嫌いな俺とは違って、全身が筋肉のみでできているんじゃないかと思うほど引き締まった体をしている。実際、体脂肪は一桁らしい。
グラウンドの方からは、現在会進行形で各部が練習する声が聞こえてくる。休みではないはずなのになぜ、と思っていると、心底呆れたような顔をされた。
「おまえ、今何月だと思ってんの? 十月半ばだぞ。受験生はとっくに引退してるっつーの」
「引退……」
ああそんな概念があるのか、と俺は思いもしなかった返答に目を瞬かせた。
まったくもって考えたことがなかった。
「おまえだっていつまでも部長してないで、本当は受験に専念しないといけないんだよ。部員ひとり見かけねえ時点で、そんな話し合いも行われてないのは明白だけどな」
「うちは活動場所決めてないから。各自自由に、好きな場所、好きな時間に好きなものを描く。だから滅多に集まらないけど、きっと部員たちもどこかで描いてるよ」
「自由かって。いいのかそんなんで。絵画コンクールの二トップがいるってのに地味だなぁ。もっと自分ら利用して人集めしろよ。宝の持ち腐れ部め」
二トップ、とは、俺と鈴のことか。
そういえば前回、同じ高校から金賞と銀賞が出たと一部メディアで話題になっていたかもしれない。大して気にしたことはなかったが。
「まあ、俺も鈴もそういうタイプじゃないし」
「おまえはともかく、小鳥遊さんはもっと目立ってもよさそうだけど。てか、あの子の絵って綺麗だよな。素人目だけどさ、優しい色合いのなかにめちゃくちゃ感情が込められてて、ぐっと胸を掴まれるっていうか。俺、結構好きなんだよ」
「そう、だね。たしかに『緋群の空』はそんな感じだ。鈴らしくていい作品だった」
「ひ……なんだって? 空?」
「鈴のコンクールの絵」
ああ、と隼が首肯する。
持っていたビニール袋のなかから俺好みの緑茶を取り出し、おもむろに投げて寄越しながら、「去年のあれな」と唸る。
ちゃっかりと隣に座ってくるあたりが隼らしい。
「めちゃくちゃすごかったよな、あの空。圧巻だったわ」
秋のやや冷え込む風をもろともせず、隼は相変わらず半袖だった。この男はどこか狂っていて、なぜか気温が十度を下回らないと長袖を着ようとしないのだ。
「結生はまったく他の絵に興味持たねえけど、やっぱ入賞する作品って素人目で見てもスゲーのばっかなんだよね。優劣つけ難いしさ。でも、おまえと小鳥遊さんは、やっぱ毎年抜きん出て上手いよ。全地方見てもそう思う」
隼はなぜか毎年、わざわざ展示会場までコンクールの絵を観覧に行くのだ。地方会場と都内会場のどちらも欠かさず。そして俺は半ば無理やり、それに付き合わされる。
まあ大抵は隼が見て回っている間、おれはぼんやりと待っているだけで、まともに展示を見て回ったことはないのだけど。
「……ん、毎年? ってなに?」
「毎年おまえたちの絵が上手いってこと」
「鈴も?」
「あ? なにおまえ、まさかとは思うけど知らないの? 小鳥遊さんも毎年絵画コンクール出してんじゃん。べつに去年に限ったことじゃなくて、ここ数年ずっとさ」
──鈴が……毎年、絵画コンクールに。
「おまえが金賞、小鳥遊さんが銀賞。もう定番だろ」
図らずも思考が停止した。
つまり、鈴が銀賞を取ったのは去年だけではないと。そういうことか?
「それこそ、五年連続銀賞取ってるんじゃね? ……いや待てよ、違うな。たしか一昨年は部門違いだったか。おまえが中学部門から高校部門に移った年に、一回だけ小鳥遊さん金賞取ったことあるんだよ。あれ、めちゃくちゃよかった」
「……ちょっと、待って」
俺は呆然としながらスマホを取り出して絵画コンクールで検索する。飛んだばかりのサイトにアクセスして、これまでの入賞作品のページを呼び出した。
一昨年。中学部門の入賞作品を表示すれば、トップページに表示されたのは。
「……小鳥遊、鈴……」
緑豊かな森林のなかで、ひとりの少女が幻想的に踊っている絵だった。
多くの色を用いる使い方こそ鈴のものだとよくわかるが、描かれているもの、描かれ方はあまり鈴の印象と直結しない。
俺はひとつ前のページに戻り、今度はその前の年のページを開く。トップに表示されたのは自分の絵だ。下にスクロールして、ふたたび言葉を失った。
「……嘘、でしょ」
銀賞。中学二年生、小鳥遊鈴。
今度は一転して、大嵐で荒れ狂う海を俯瞰的に描いたものだった。
激しい波飛沫を上げる海の中央には、沈没しかけている海賊船。暗黒の雲に覆われた空には稲光が主張し、見事な明暗のコントラストが表現されている。全体的に温度が低く、暗度が高い色合いにもかかわらず、細部にはやはり数多く色を用いていた。
表現技術としては、この頃からすでに目を瞠るものがある。
けれど、やはり今の鈴と直結しない。その前の年の絵も同様だった。まったくテーマの異なる絵が、鈴らしい色味で描かれていた。
こんなにも多種多様なものを描ける子だったのか、という驚きと、毎年鈴が銀賞を取っていたという事実の衝撃が交錯して気持ちが追いつかない。
「おまえ、本当に知らなかったのかよ……」
「………………知らなかった……」
「マジでアホじゃん。小鳥遊さんもこんなやつがずっと自分よりもいい評価を取ってたなんて知って、さぞかし落胆しただろうな。可哀想だわ」
同情の籠った隼の言葉に、鈴と初めて会ったときのことを思い出した。
誰、と不躾に聞いた俺に、鈴はなんて答えていただろう。たしか『ですよね』とか、そんな意味深な返しをしてこなかったか。──してきた気がする。
「……そんなことって……」
俺は頭痛がしてきた額を押さえて、ぐったりと項垂れた。
そもそも、なぜ思い至らなかったのだろう。
鈴ほどの才能に恵まれた子が、これまでの絵画コンクールに作品を出してこなかったわけがない。おそらく彼女も学生画家界では、期待の星だったはずだ。
もう一年半の付き合いになるにもかかわらず、今さらこんな事実を知るなんて。
「おまえの絵はさ、いつも安定してんじゃん?」
「っ、え?」
俺の隣で足を投げ出しながら、隼は自分用に買ってきたらしい缶コーヒーを開ける。
「よくも悪くも、あぁ結生だなって思わせられるような絵なんだよ。上手いし世界観もはっきりしてるし。でも、人間の痛いところをついてくるっつーか、気づかないうちに囚われる。だから、おまえがコンクールに作品を出してる間は、絶対金賞だろうなって思ってた」
今度はボーロ型のチョコレートを差し出してきた隼に、俺はなんとも複雑な心境で受け取る。口に転がせば、甘い香りが少しだけ荒ぶっていた心を落ち着けた。
「逆に小鳥遊さんの絵は、毎年まったく違うから新鮮味がある。色の使い方とか天才的だし、たんに一枚の絵として成立してるんだよな。だけど、そこにハッとさせられるなにかがあるんだよ。感情が溢れてて、つい目を惹く。そこに絵を描く小鳥遊さんが立ってるような気になる、そんな絵。だけどおまえを越えられないのは、たぶん……欲かな」
「……選評委員みたいなこと言うんだね、隼。そんな観察眼優れてたんだ」
「伊達に長年おまえの幼なじみやってねえよ。毎年見に行ってんだぞ。素人目もそれなりに鍛えられるってもんだ。慧眼だからな、もはや」
ふん、と隼は偉そうに鼻を鳴らして肩をすくめる。
「欲が悪いとは言わねえし、実際それも大事だと思うけど。それに囚われてる作品ってやっぱわかるんだよな。とくに小鳥遊さんは毎年勝ちにくる絵をしてたし。……その点、去年は顕著だった気がするよ。めちゃくちゃ本気を感じたね」
「ああ……たしかに、強烈だったね。激情があふれてた」
「だろ。結生が目立ちすぎて霞んでるけど、一部の学生画家評論家なんかには『極彩色の弓士』って言われてたりすんだぞ。おまえとはまるで真逆だな」
チョコレートをぽいぽいと二粒口に放り込み、ちらりと俺の傍らに置かれたパレットへ視線を向けてくる隼。おそらく最初から気づいていただろうに、本当にこの男は無駄に空気を察するというか、タイミングを見極めるのが癖になっているらしい。
「で? どうしたよ。明日は槍でも降んのか?」
「……俺はそんな世界に影響してないよ」
「喩えだろ。そんくらい俺には信じられねえ光景に見えるんだよ。結生が絵の具いじってるとこなんて小学生以来見てないぞ」
まあ、たしかにそうだ。今いじっている絵の具も、俺のものではない。美術部から拝借してきたものだ。あまりに馴染まない筆の感触に俺自身も正直驚いている。
「小鳥遊さんがなんか関係あんの?」
「………………」
「俺はなんも知らねえけどさ。おまえ、夏前くらいからずっとおかしいじゃん。なんでも今、小鳥遊さん入院してるらしいし……どうせなんかあったんだろ? 話聞くくらいならしてやれるけど」
え、と顔を上げて隼を見れば、どこか拗ねたような表情をしていた。
「寂しいよ、俺は。なんも相談してくれねーし、なんも頼ってくれねーし。いったい小中高一緒の幼なじみってなんなんだろうなあって虚しさいっぱい」
「……隼は、俺に相談してほしいの?」
「無理にとは言わんけど。でも、ひとりでなんでも抱え込んでないで話してくれてもいいんじゃないか、とは思う。いい答えなんか返せねえかもしんねーけど」
大きく伸びをしながら、隼はだいぶ日が傾いた空を見上げた。
「話せば楽になることって、あんだろ。どんなことでもさ」
長い付き合いのある隼から、こんなことを言われたのは初めてだった。
隼はいつものらりくらりと俺のそばにいる物好きだ。そのくせ、決して懐には入り込んでこない。こちらが鬱陶しいと思わない距離を絶妙に判断する。
そんな隼が、わざわざこうして促すようなことを言ってきたということは、それほど今の俺は見ていられないと──そう思ったのだろうか。
「……俺、今、鈴と付き合ってるんだけど」
「は?」
「……? 言ってなかったっけ」
「言ってねえよ! いつの間にそんな進展してたんだよ! まじか!? おまえが!?」
うるさい、と俺は眉間に皺を寄せた。大して距離が離れていない状態で叫ばれると鼓膜がやられる。隼といると、ときおりこういう被害に遭うから油断ならない。
「鈴さ、もうすぐ死ぬんだ」
「っ……は?」
「枯桜病で」
騒いでいた隼が一瞬にしてぴたりと硬直した。勝手に話してしまって鈴には申し訳ないと思いつつ、しかし今さら隠そうとは思えずに、俺は静かに続けた。
「だから俺は、なるべく鈴のそばにいようと思ってたんだけど……この前、接近禁止を言い渡されて」
「接近禁止……ってなにしたんだよおまえ……」
「わからない。俺にとっての鈴の存在が、どんなものなのかを考えてほしいって言われた。それがずっと、はっきり掴めなくて悩んでる」
鈴がいない。その状態で生きていけるのかと言われたら、正直わからないのだ。
そんなの無理だと心では思うのに、いざ離れてみると、俺の体は変わらず呼吸をして、変わらず鼓動を刻み続けている。案外、ちゃんと、生きている。
当然といえば当然なのだろう。けれど、それが無性に不可思議にも思えた。
「昼間、鈴のコンクールの作品を見てさ。鈴が見ている世界を俺も見れたらわかるかなと思って、絵の具を引っ張り出してきたんだけど……」
無駄に複数の絵の具を広げたパレットを持ち上げて膝の上に置く。久方ぶりに鮮明な状態で見る絵の具は、まだどれも混じり気のない色をしている。
「やっぱ描けない、とか?」
「……いや、逆」
「逆?」
平筆で赤を掬い、そのまま空に透かすようにかざしながら俺は目を細めた。
「描けるような気がした。色のある世界を」
「ほ、お?」
「これまでは、いくら想起しても色のある世界を思い描けなかった。でも、今は不思議なくらい色がわかる。……俺が見えている世界の色のつけ方が、わかるんだ」
どこに何色を置けばいいのか。どこをどう表現すればいいのかが感覚でわかる。あれほど、鉛筆一本で灰色の世界を表現し続けてきたにもかかわらずだ。
「いつの間に俺の世界は色づいたんだろうって考えてみたけど、そんなのわかりきっててさ。──鈴がいる世界だから、そう見えるんだよ」
それこそ、目が開けられなくなるほど眩しいくらいに。
あの子が生きている世界は、いつだって色鮮やかな光に満ち溢れている。
「……そして俺は、いま猛烈に、この色鮮やかな世界を描きたいと思ってる」
まさか自分がその眩しさに影響されて、色味のある絵を描ける日が来るとは思っていなかったけれど。インスピレーションとは、いつだって唐突に舞い降りるものだ。
「結生、おまえ……」
「自分でもびっくりしてるよ。だって、この俺が絵の具を片手にキャンバスに向き合ってるところなんて、誰が想像できる? 世界に震動が起きそうじゃない?」
これでは、モノクロ画家の名折れだ。
「せっかく俺自身も灰色に染まったのに、これじゃあまた浮きそうだよ。……まあ実際はなにかこう、しっくりこない部分もあるんだけど」
パレットを置いて立ち上がり、俺は橙に染まる桜の巨木を見上げる。もう三年近くこの桜の木と共に過ごしてきたのだと思うと、なんだかとても感慨深い。
「……鈴を見ると、いつも桜と空を思い出すんだ」
「桜と……空?」
「うん。空により近い桜の花びらの下で、すごく楽しそうに絵を描いてる鈴。それはきっと、俺のなかにもう焼きついてるって証拠なんだよ。鮮明に、鮮烈に──自分ではどうしようもないくらいに、鈴が棲み付いているからなんだと思う」
会わなくてもはっきりと思い描ける彼女が、どれほどかけがえのない存在なのか。
鈴の問いの答えにはまだ近づけていないのかもしれないけれど、なんとなく、それだけはわかった。皮肉なことに、わかってしまった。
「だから、やっぱり俺は、鈴がいない世界なんて考えられない。想像もできない。そんな未来を見据えて生きていくなんて、無理だって思う」
「結生……」
「情けないけど。今でさえ怖くて怖くて堪らないんだ、俺」
一言一言、噛みしめるように紡ぎながら振り返ると、隼はまるで自分のことのように苦しそうな顔をしていた。
眉間に刻まれた深い皺をさらに深めながら、隼は浅く嘆息する。
「……また馬鹿なこと言ってんのな、おまえ。いなくなるのが怖いのは当たり前だろ。俺だって、結生がいなくなるかもって思ったらそれだけで怖えっての」
「俺が……?」
「身近で誰かを失うってさ、たぶん誰もが経験することだろうけど、それを深く考えたりはしないだろ。友だちも家族もいて当たり前。自分にも相手にもフツーに明日は来ると思ってて、毎朝変わらずおはよって言えるもんだと勘違いしてんだよ」
隼も俺に倣って立ち上がり、こちらへゆっくりと歩いてくる。隣に並んで桜の木を見上げながら、その奥に見える夕日に目を遣り、眩しそうに睫毛を震わせた。
「でも、そうじゃないんだよな。おまえはお母さんのことがあるからとっくに気づいてんのかもしれないけど、どんな瞬間だって別れの可能性はあってさ」
「……うん」
「別れを恐れて関わらないのは簡単なんだ。だけど、そうやって仮に俺がおまえと関わってこなかったら、って考えると……正直そっちのが怖いね、俺は」
隼はぽつりと独り言のように落として、視線だけ俺の方を向いた。
「俺には病気のことなんて想像もできないし、わかったふりもするつもりはねえ。結局それは知ったかぶりにしかならないしな。だけど、そのうえで言わせてもらうなら、もうおまえのなかでは答え出てんじゃね? ってことくらいだな」
「答えが、もう出てる……? 俺の?」
「おう。だって描きたいって思える世界に、小鳥遊さんがしてくれたんだろ」
心臓のいちばん深いところを、ぐさりと容赦なく貫かれたような気がした。
形容しがたい衝撃と戸惑いが同時に胸を走る。視界がぐらぐら揺れた。
「そんな世界を、結生は今生きてるんだ。どう見えてんのかは知らねえけど、生きて、描きたいって思ってる。生きてる意味なんて、そんなんで充分じゃないの?」
「……俺、は……」
ああそうか。やっぱり俺は、描きたいのだ。色づいたこの世界を、鈴が色づけてくれたこの世界を、どうしようもなく描き残しておきたいのだ。
そして──……彼女が生きた証明を、したい。
「っ、ありがとう。隼」
「お、おう?」
思い立つが否や、俺はばっと踵を返した。
いまだ空白だった日常使いのキャンバスを見て、これじゃない、と思う。
俺が描きたいのは、描き残したいのは、このサイズでは到底収まらない。
ああ、どうして今さら。どうして俺は、いつもいつも、たったひとつの事実に気づくだけで長い時間がかかってしまうのだろう。本当にだめなやつだ。
でも……そうだ。そうだった。他でもない鈴が言ってくれたんじゃないか。
俺には絵しかないんじゃない。
絵があるんだって。それはすごく特別なことなんだって。
できることがある。今この瞬間を生きる意味がある。それが未来へ繋がっていくかどうかはわからないけれど、きっとこれは──俺の、答えだ。
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