第7章 「描けるような気がした」1話


「春永ー。ちょっといいか」


 移動教室からの帰り道、ちょうど職員室の前に通りがかったタイミングで美術部の顧問から声をかけられた。名前は千葉先生。五十代後半の美術担当の先生だ。


「はい……?」


「今年のコンクールのことで話があるんだけどな」


 ああ、絵画コンクールのことか。思い至った俺が立ち止まると、隣を歩いていた隼が「俺ぁ先行ってんぞ」と空気を察して歩いていってしまう。

 そのうしろ姿を横目に見送りながら、俺は千葉先生のもとへ歩み寄った。


「春永、今年はどうするつもりだ?」


「どう、というと」


「出すか出さないかだよ。春永も受験生だし、入試とコンクールの締切が被るのはきついだろ」


 絵画コンクールの締切は毎年年内最終日、つまり大晦日だ。結果発表は三月の頭頃で、同月の末頃には特設展示会場にて一般公開されることになっている。

 いつもならばもうとっくに描き始めている時期だが、今年はそもそもコンクールのことすら頭からごっそりと抜け落ちていた。

 思えばいつも早くから先生に急かされて描いていたが、今年はいっさいそんな話がなかった。なるほど、受験への配慮だったのか。


「……すみません。そもそも忘れてました」


「まあ、いろいろある年だしな。三年生だし無理強いはしない。もし出す気なら早めに言ってくれた方が助かるが。頑張れよ、受験生」


 ぽんぽんと俺の肩を軽く叩き、満足したのかそのまま職員室へ戻っていく先生。

 大して話を聞く気もない。俺が忘れていたのは、別段受験生だからではないのに。


「……高三って、難儀だな」


 どこへ行くにも受験生という言葉がついて回る。こちらの事情など顧みず、受験に専念しているのがさも当たり前だというように。

 たしかに周りはみんな予備校に通っていたり、なにかと忙しそうではある。

 だが、俺は普通に勉強しているだけで、特別なにかをしているわけではない。

 二日に一度のペースで通っていたお見舞いがぱったりとなくなってしまったせいで、ここ最近は恐ろしいほどの虚無感に苛まれているけれど。


 ──絵画コンクール、ね。


 俺はポケットからスマホを取り出しながら、ネットで検索する。

 地方絵画コンクール。全八地方、中学部門と高校部門に分かれて毎年行われているそれなりに大きなコンクールだ。

 本気で画家を志している中高生ばかりが集うため、総じてレベルが高く、将来的に活躍する画家の登竜門とも言われているらしい。


 金賞、銀賞、銅賞、優秀賞、佳作。数多くの作品のなかから入賞した作品は、地方内展示の後、全地方の入賞作品を集めて都内某美術館で一年間展示される。

 なんのまぐれか、俺はこの絵画コンクール──とりわけ競争率が高いと言われている関東地区で五年連続『金賞』を取り続けていた。

 はたしてそれがすごいことなのか、いまいちわからないのだけれど。

 世間では天才モノクロ画家とかなんとか知らぬ間にもてはやされ、無駄にその俗称だけが広まっている状態。それを聞くたびに、俺はどうにも靄ついた気分になる。

 灰色の世界しか見えないから、鉛筆でそれを描いているだけなのに、と。


「去年は……これか」


 絵画コンクールの公式ウェブサイトには、これまでの入賞作品が掲載されている。

 まあ、これまで一度もまともに見たことはなかったが。

 開催地区と開催年数を入力して入賞作品のページを開けば、いちばん上に大きく表示されたのは俺の作品だ。モノクロゆえにすぐわかる。

 こんなの描いたっけ、とつい思ってしまうような。


 ──それほど、ふとした日常を切り取った一枚。


 鉛筆一本で描かれたそれは、自分で見てもまったく心を揺さぶられない。

 そりゃあそうだ。いつも見ている光景なのだから。

 その下をスクロールして、手が止まる。


「……鈴のやつだ」


 銀賞。小鳥遊鈴。タイトルは『緋群の空』。

 柔らかい水彩タッチで描かれているそれは、ちょうど夕暮れ前、茜と群青が混ざり合う黄昏時。けれど決してそのふたつの色だけではなく、ともすれば虹よりも多い数の色彩で作られた光の表現がとても美しい絵だった。


 あまりひけらかさないけれど、鈴は、ちゃんと『画家』の才がある。

 技術的な面で言えば、俺と負けず劣らず上手い。

 表現する画材が異なるから一概には比べられないものの、少なくともこうして銀賞を受賞するくらいの技術と魅力は兼ね備えている。

 とりわけ水彩を扱う画家は多いし、そのなかでこうも突出した才能を持っているのは、控えめに言っても誇らしいことだろう。

 去年初めて鈴が描く絵を見たときに、上手い色の使い方をするなと思った。

 そしてこの子が見えている世界は、こんなにも色鮮やかなのかと、ほんの少し興味が湧いた。

 あの頃は、まさか鈴と付き合うなんて思っていなかった。一年かけてゆっくりと惹かれ続けて、今年に入ってからははっきりと好きだと自覚してしまった。


 ──四月。鈴が行方知らずになっていたあの一ヶ月で。


「あのときと一緒、か」


 隣に鈴がいないだけ。

 たったそれだけで、ぽっかりと胸に穴が空いているような感覚になる。

 隣に鈴がいないのに、こんなにも鈴のことばかり考えている。

 鈴が言っていた『俺にとっての鈴の存在がどんなものか』の答えを探さなければならないのに、どうしても俺にはその糸口を見つけられない。

 はあ、と嘆息して、俺はひとり廊下を歩き始める。次の授業が始まるチャイムが鳴っているけれど、走る気力すらわかなかった。


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