第5章 4話


 鈴をベッドに寝かせていたら、タイミングがいいのか悪いのか、鈴の弟くんがお見舞いにやってきた。弟くんは、俺を見てあからさまにげんなりしたような顔をする。


「またいんのか、あんた」


「うん。でも、もう帰るよ。今、散歩から帰ってきたところ」


 さきほどのおかしな鈴の様子は気になったが、幸いにも体は少し疲れただけのようだった。

 ベッドに横になったおかげか、目がとろんとしている鈴を撫でながら言う。


「……あっ、そ。まあなんでもいいけど」


「じゃあまたね、鈴」


「はい。先輩、今日はありがとうございました」


「ゆっくり休んで」


 病室を後にした俺は、そのまま通い慣れた小児科の病棟を歩く。

 鈴は個室だが、全体的には大部屋が多い。

 比較的元気なように見える子もいれば、やはり具合がよくなさそうな子もいる。自分よりもずっと小さな子どもたちが闘病している姿を見るのはもちろん初めてで、そんな現実だけはどうも慣れる気がしなかった。

 けれど、不思議と、ここは笑顔が多いように思う。

 入院している子どもたちはよく笑う。笑っている。鈴と似た笑顔で。

 その笑顔を見ていると、なぜか絵を描けなくなる。俺がこれまで描いていた絵がいったいどんなものだったのか思い出せなくなる。光に当てられる、というか。


「おい」


 ふいに背後からかけられた声に、俺は驚きながら振り返った。

 弟くんがいた。手には花瓶を持っている。その顔はいつにも増して不機嫌そうな仏頂面だが、真っ直ぐにこちらを見据えてくる辺り、俺になにか用があるのだろうか。


「ちょっと、話したいんだけど」


「……俺と?」


「他に誰がいるんだよ。あんたとに決まってんだろ」


 まあそりゃあ、たしかに。

 つかつかと俺の方に歩いてきた弟くんは、そのまま俺の横を通り過ぎて歩いていく。

 彼の足が向く先には、面会者用のフリースペースがあった。

 なるほど、あそこで話すつもりらしい。話の内容は予測もつかないが。

 疑問を浮かべながら付いていくと、彼は向かいあわせのソファに座って待っていた。

 俺がすごすごと向かい側に座れば、ドン、と花瓶を間に挟んだ机の上に置かれる。

 超絶不機嫌だ。もしや俺は、これから怒られるのだろうか。


「あんた、姉ちゃんと付き合ってるんだろ」


 そして開口いちばん、弟くんは突き放すような口調で言った。あれ怒られない、と拍子抜けしながらも、視線の置き場を探しながら首肯する。


「付き合ってる、けど」


 鈴が弟には話したと言っていた。

 だから知っているのだろうが、それにしては声音があまりにも不穏だ。俺はどういう反応をするべきなのか迷いつつ、ひとまず様子を窺うことにした。

 弟くんはしばし黙り込んだかと思うと、はあ、と深いため息を吐き出した。


「……あんま口出しはしたくないんだけどさ。姉ちゃんには、幸せならいいんじゃないって言っちまったし。でも、やっぱ気になるから聞きたい」


「ん、なに」


「あんた、そういう覚悟はあんの?」


 そういう、とは。やは、り鈴の『余命』についての話だろうか。


「おれは……おれたち家族はさ。この五年、ずっと覚悟を積み重ねてきたんだ。姉ちゃんとは比べものにならないと思うけど、それでも覚悟してきたんだ。姉ちゃんが死ぬってことを、ずっと心に留めて、受け入れられるように努力してきたんだよ」


「受け入れる? 死、を?」


「そうだよ。いついなくなってもおかしくないからこそ、一緒にいられる時間の限りを尽くして姉ちゃんを一秒でも長く感じておこうって。覚悟ってそういうもんだろ」


「そう……なの、かな」


 どんな手を尽くしても逃れようのない、定められた未来だからこそ、なのか。

 彼のなかの覚悟が、はたしてどんなものを指すのかがわからない以上、俺は現在進行形でその答えを持っていない。

 だから、そういうものだろと言われれば、うなずくしか選択肢がなかった。

 だって俺よりも、彼の方が圧倒的に鈴の命に向き合ってきた期間が長いのだから。

 否定でも肯定でもなく、一意見として受け入れるしかないのだ。弟くんにとっての覚悟がそういうものなら、またそれもひとつの形でしかない。


「で? 覚悟、あんの?」


 絵と同じで、考え方まで共有するのは不可能だ。

 きっと鈴なら、こういう場面でも臆さず自分の意見を伝えるのだろうけど。


「君は、おれに覚悟を持っていてほしいってことでいいのかな」


「持っているのかいないのかを聞いてんだよ。ほしいとかじゃなくて」


「ああ……でも、うん、ごめんね。君と同じ覚悟とやらの話はちょっと……」


 ──俺にはとても真似できないな、と思う。

 そんな未来に待ち受ける『死』なんかよりも、今を見ていたい俺には、あまりに理解が及ばない。


「あんたはわかってないんだろ。もうすぐ死んじゃう姉ちゃんの彼氏になんかなって、そのあとどんだけつらいか。どんだけ、この現実が残酷なのか」


「…………」


「ここはさ、現実だから。アニメやドラマとかみたいに、奇跡が起こって命が救われるなんてことはないんだよ。有り得ないんだ」


 そうだろうな、となにも答えないまま静かに目を伏せた。

 奇跡が起きれば、と願う気持ちはもちろんある。けれども、それが起きると信じているほど俺も馬鹿ではない。現実は、いつだってそこにあるままが現実なのだ。

 枯桜病は、そんなに甘い病気ではない。


「──姉ちゃんには気の毒だけど。申し訳ないと思うけど。でも、これからも生きていかなきゃいけないのは、あんたの方なんだ。つらい思いをするのが嫌なら、生半可な気持ちで……」


「そんなんじゃない」


 さすがにそのさきは聞きかねて、俺はなかば被せるように否定した。


「……生半可な気持ちなんかじゃないよ、弟くん」


 彼が、俺と鈴を想って忠告してくれているのはわかっている。

 この状況下では姉のことを第一に考えたいだろうに、俺のことをこうして気にしてくれるあたり、とても大人だとも思う。

 大人過ぎて心配になるくらいだ。

 ……昔の俺と、どこか似ているような気がする。


「鈴にはもう話したけど──六年前、俺は母親を亡くしてるんだ」


「えっ……」


「俺が小学六年生のとき。時期的にはたぶん、鈴が病名宣告を受ける一年前あたりかな。枯桜病ではないけど、末期の癌を患ってね」


 まさかそう返されるとは思わなかったのだろう。

 弟くんはひゅっと息を呑み、わかりやすく狼狽えた。

 その様子がなんとも幼くて、ああやっぱりまだ中学生なんだな、と思う。

 子どもらしくない大人びた雰囲気を纏っていても、大人にならなくてはならない状況で成長していたとしても、やっぱりまだこの子は子どもなのだ。


「病名が発覚して入院して……そうだな。たしか、だいたい半年ちょっとで亡くなったんだけど。俺はね、母の葬式まで母が癌だったことを知らなかったんだ」


「……え?」


「教えられなかったんだよ。癌ってことも、余命のことも」


 鈴とそっくりの瞳がひどく震えるのを見つめながら、当時のことを思い出す。


「母には少し体調が悪いから入院するけど、ちゃんと帰ってくるからって言われてさ。家族だってなにも言わなかったし、俺はその言葉を鵜呑みにしたんだよね。帰ってくると信じて疑わなかった。……けど」


 結局、母さんは帰ってこなかった。

 まだ子どもだから。余命宣告を受けたと知ったらショックを受けるから。

 そんな余計な配慮から、俺はまともにお別れもできないまま、母さんは最期を迎えてしまったのだ。

 父も、兄たちも知っていたのに、俺だけが隠されていた。

 葬式でもう二度と目を覚まさない母親を前にして、俺がどれほどこの世界への信用をなくしたか、あの人たちは今でも考えたことすらないのだろうけれど。


「……ねえ、弟くん。人はね、誰しも必ず死ぬんだ」


 だからこそ、俺はあのとき思ったのだ。


「鈴の未来は、たしかに逃れられないものなのかもしれない。けど俺だって、弟くんだって、いつ死ぬかなんてわからないんだよ。だったら手遅れになる前に、手が届かなくなる前に、向き合っておかないといけないって、俺はそう思う」


 もう二度とあんな思いはしたくない。

 死んでしまったら、もうなにもかも遅いのだ。

 いくら後悔を募らせたって取り戻せない。もう二度と戻ってはこない。

 ありがとうも、ごめんなさいも、たったの一言すらも伝えられなくなる。

 それがいちばん、残酷だ。


「死を受け入れるって、君はさっき言ったね。けど、そんなの無理。現に俺は六年経つ今も、母さんの死を受け入れられていないから」


「……だっ、て、じゃあ、他にどうしたら……っ」


「さあね。それはわからないけど、わからないなりに考えた結果が、今だ」


 初めから結末がわかっているのなら、なおのこと避けなければならないこと。

 いくら傷つこうが、いくらつらかろうが、譲れない。

 その後に控える死を越えたさきに待つ痛みや後悔は、きっと手遅れによって生まれたものではないと、俺はたとえ綺麗事でもそう思いたいのだ。


「──母さんは、それほど強く俺の心に棲みついてたんだろうね。日常の些細なことに母さんの面影を感じてさ、忘れたくても忘れられない。今もどこかで、笑って生きてるような気がしてしまう」


 ただ、俺が見つけられていないだけなのではないかと、そう思ってしまう。

 きっと、誰しもが経験することだ。長い時の流れで風化された思い出に悲しまなくなることを──それを受け入れたというのならば、またべつだけれど。

 時間の経過とともに、たしかに痛みは減っていく。忘れていく。

 それでもはっきりと心に残った傷は決して癒えることはないと、俺は知っている。


「……俺はね、もう二度と同じ過ちは犯したくないんだよ」


「っ……」


「鈴が好きだから。彼女が大切だからこそ、最期までそばにいたい。時間を無駄にしたくない。今を……鈴と一緒にいれる今を、精一杯、大事にしたい」


 俺は静かに腰を浮かして、弟くんの目尻に浮かぶ雫を指先で弾いた。

 病院全体を支配する消毒の香りは、あの頃まだ幼かった俺が感じていたものと変わらない冷たさを孕んでいる。救われる命と救われない命を天秤にかけることなどできなくて、常に行われている命のやり取りは、きっと人が目を背けがちなものだ。

 結局、生と死が対にあることを、人は最期まで受け入れることはない。


「鈴に似て優しい弟くんは、こんな俺にも気遣いを向けてくれるけど。……たまには、君のそのままをぶつけてみてもいいんじゃないかな」


「お、れの、そのまま……?」


「うん。今だからこそ伝えられること。今だからこそできること。なんでもそうだけど、やりたいこと、しなければならないことをちゃんと見極めないとだめだよ。そうじゃなきゃ、俺みたいに後悔することになるからね」


 鈴と重なる黒髪をさらりと撫でて、俺は「帰るね」とその場を後にした。

 しまったな、と思う。こんな話をするつもりではなかったのに。

 だが、きっと今の弟くんにはひとりで考える時間が必要だ。

 俺の言葉を受け入れてほしいとは微塵も思っていないけれど、せめて彼がこれから抱えることになる傷が、少しでも救いのあるものになればいい。

 俺のように、後悔しか残らない傷だけはどうか避けてほしい。


「……まあ俺も、偉そうには言えないけど」


 ひとり口のなかでつぶやいて、ふっと誰に向けるわけでもない自嘲を浮かべた。

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