第5章 3話
◇
屋上に行きたいという鈴を連れて、エレベーターで最上階へ上がった。この大学病院の屋上には、小さいながらも天井が吹き抜けになっている植物園がある。
入院患者に向けたせめてもの憩いの場として作られただろうそこは、残念ながら人気がまったくない。さほど手入れも行き届いていないのか、植えられている植物も伸び放題で、植物園というより一種のジャングルじみていた。
一方で、どことなく学校の屋上庭園に似た雰囲気を感じて辺りを見回していれば、ひとり車椅子を動かして、鈴はすいすいと植物園を進んでいく。
「私ね、先輩。ここ好きなんです。空にすごく近い気がして」
アザミの花が咲き綻ぶ前まで辿り着くと、鈴は器用に車椅子を反転させてこちらを向いた。
「学校の屋上庭園もそうですけど、ほんの少しだけ高い場所にいるだけなのに、すごく天に近づいた気がするんですよね。なんだか不思議だと思いません?」
色とりどりの植物に囲まれた鈴が、まるでそこから抜け出すように空に向かって手を伸ばす。高く高く、どこまでも遠いなにかを掴むように。
「っ……」
天上から吹き込んできた柔らかな風が、さらさらと鈴の長い髪の毛を攫った。
それが、あまりに目を惹いた。俺は知らず知らずのうちに息を呑む。
──綺麗なのは、どっちだ。
以前、なんの突拍子もなく鈴から言われた言葉が頭を過ぎった。あのときはなにを急に、と驚いたものだが、もしかしたら鈴もこんな感じだったのかもしれない。
突然、前触れもなく降り注いでくる邂逅のように。
「不思議、ね。本当に俺もそう思うよ」
あの屋上庭園で自由に絵を描いている鈴の姿も好きだった。
けれど、本当にこの子は空が似合う。
いや、正確には空の色が似合う。霞みがかった朝の青空も、昼間の膨れ切った入道雲の白も、夕暮れ時の橙も、夜闇の色も。不思議と鈴は、そのすべてが似合う。
描きたい、と思わせられる。
そういう衝動を、鈴は強烈に、鮮烈に、容赦なくぶつけてくる。
「ああでも、なんでかな。同じような場所でも、やっぱり私は学校の屋上庭園の方が好きかもしれないです」
「そうなの?」
「はい。たぶん、ユイ先輩がいるって思えるからですかね」
そこに俺が出てくるのか。またも予想外の言葉に不意を突かれながら、俺は鈴につられるように空を見上げた。真昼の陽光が眩しくて、俺は手のひらで視界を遮る。
「屋上に行く道も、着いてからも、先輩と絵を描いているときも。だから私ね、学校にいる間、すごく幸せなんです。一日の間でいちばん好きな時間。毎日毎日、その時間が来るのを心待ちにして過ごすんですよ」
「っ……そんなに? 俺イコール屋上庭園なの?」
「あはは、そうかも。先輩と会いたかったら屋上庭園に行けばいい、みたいなのありましたもん。でも……そうか。これって結局、屋上じゃなくてユイ先輩が好きってことですね。灯台下暗しって感じ」
くすくすと鈴がはにかむように笑う。
本当に幸せそうに話すから、俺までつられて多幸感に包まれた。俺なんかと一緒にいてなにがそんなに楽しいのかと思うけれど、鈴の言葉に嘘がないのは明白だった。
「屋上庭園じゃなくたって、君が呼んだら俺はどこでも駆けつけるのに」
「え、そんなこと言っちゃうんですか。先輩ちょっとイケメンすぎますよ」
「──? 普通、でしょ。好きな子相手なら」
鈴といると、いつも心が穏やかだ。
一緒にいればいるだけ、俺の世界が鮮やかに染められていく。
鈴の周りだけは、どんなときも眩しいくらいに色付いて見えるのだ。
だから、俺はなかなかそんな鈴を直視できない。
モノクロに慣れた目が、彼女の輝きに負けて溶け落ちてしまいそうになる。
でも、それでも、見ないわけにはいかないのだ。残された時間を考えると、一分一秒、刹那たりとも無駄にしたくはない。
もっと早く、自分の気持ちに気づいていれば。
もっと早く、鈴の気持ちに向き合っていれば。
そんな『たられば』を思ったところで仕方ないとわかっているはずなのに、どうしても考えずにはいられない。どれだけ平然と振舞っていても、俺の弱い部分は着実に綻んでいく。まるで、ぼろぼろと乾いた灰屑が、奈落の底に落ちていくみたいに。
「ユイ先輩」
唐突に、鈴のよく通る綺麗な声が滑るように空気を流れて、俺の耳を突き抜けた。
「生きてくださいね」
シン、と。葉擦れの音すら鮮明に聞こえるほどの静寂が落ちる。
え、と、声が返せたのかすらわからなかった。
鈴は微笑んでいた。ただただ、いつも通りに。けれど、その表情は今にも泣きそうで、ようやく我に返った俺は弾かれるように地面を蹴って駆け寄った。
「っ、鈴? いきなり、どうしたの」
「先輩は優しい人です。本当に、心の底から。だからこそ、きっといろいろなことを考えて……私の理解が追いつかないところまで考え尽くして、ひとりで背負い込んでしまうんでしょうけど。──でもね。だけどね、先輩」
不意に鈴が立ち上がり、大きく背伸びをして俺のことを抱き寄せた。
身体が前方に傾くのを感じながら、頬に鈴の髪の感触を覚える。呼吸だけでなく心拍すらも止まりそうになって、俺は石化の魔法をかけられたかのごとく硬まった。
「私は、ユイ先輩が生きているこの世界が大好きなんです」
「……す、ず」
「先輩が描く世界、先輩が映す世界が大好きです。一緒に過ごす時間の幸せは私にとってかけがえのないものですけど、たとえ一緒に過ごしていなくても、先輩はいつだって私の生きる道標だったんですよ」
ああなんで、と俺はきつく眉をひそめながら睫毛を伏せた。
俺のことを好きで、大事に思ってくれているのは伝わってくる。
だというのに、希望は。希望だけは、与えてくれない。付き合っているのに、一緒にいるのに、鈴ははっきりとこのさきにある別れを確信しているのだ。
手を取ってもなお、届かない。この手が砂のように消えてしまうなんて耐えられないと、心が壊れそうなほどそう思うのに、鈴はその現実を避けさせてはくれない。
「ユイ先輩は人形なんかじゃありません。たとえ先輩の世界が灰色でも、ちゃんとこの世界に生きている人間です。私を好きだと言ってくれる、誰よりも温かい人です。私はそんな先輩に生きてほしい。なによりも、それが望みなんです」
鈴がゆっくりと離れる。そのまま崩れ落ちるようにガクッと力が抜けた鈴を、なけなしの反射神経で慌てて支えた。ぐるぐるしていた思考が一気に吹き飛ぶ。
「っ、鈴……!?」
「あはは、すみません。こんなちょっとしか立ってられないなんて情けないですね」
脱力した鈴をゆっくりと車椅子に座らせて、俺はその場にしゃがみこむ。
さきほどよりも明らかに顔色の悪い鈴の頬をおそるおそる撫でながら、俺は「そんなことない」と語気を強めて言い募った。
「鈴は頑張ってるよ。情けないとかありえないから」
少し困ったように微笑んで、鈴はぐりぐりと俺の片口に額を押しつけてくる。
「ユイ先輩も、頑張ってますよ」
「っ……俺、は」
「そんな先輩に、私はこれ以上頑張れって言うことはできないですけど……先輩が頑張ってることは、きっとみんなわかってます。先輩が思っているよりもずっと、先輩のことを想っている人はたくさんいますからね」
そう告げるや否や、顔を上げて俺の手を取った鈴が、ちゅ、と指先に軽く口付けた。
びくりと肩を震わせた俺に、鈴は赤面しながらはにかむ。
「……まあ私がいちばん、大好きなんですけど」
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