第5章 2話
◇
病室に入ると、鈴はパッと弾かれるように顔を上げた。俺の顔を見た瞬間、まるで蕾が花開くように表情を綻ばせて「先輩!」と嬉しそうに笑った。
そんな姿に胸の端っこをくすぐられながら、俺は鈴のベッドへ歩み寄った。
「また着替えたの?」
「だ、だって先輩が来るって言うから……」
「いいって言ってるのに」
鈴がラフな私服を着ているのを見て、俺はしゅんと眉尻を下げる。
どうもパジャマ姿を見られるのが嫌らしい。入院しているのだから当たり前なのでは、と思うのに、俺が来るときは大抵ちゃんとした格好をしている。
「好きな人の前ではきれいでいたいっていう乙女心なんですよ」
「俺はどんな鈴でも好きだよ」
「っ、それは嬉しいですけど……そういうことじゃなくて」
うううぅ、と鈴が顔を赤らめながら呻く。
付き合ってからもうすぐ三週間。二日に一度は顔を見せているうちに、あっという間に夏が過ぎ去っていった。来週からは学校も再開してしまう。
まだ外は度し難い蒸し暑さが延々と蔓延っているが、それもあと一ヶ月もすれば気温も下がり始めるだろう。どうしたって、そうして季節は廻るのだ。
「今日の体調はどう?」
「大丈夫ですよ、見ての通り元気です」
ふふ、と鈴が得意げな顔をする。
一見して変わりはないように見えるが、実際は入院してからだいぶ変わった。
というより、鈴が隠してきたことを知ったから、そう思うのかもしれない。
思い返してみれば、これまでも食生活や普段の言動など、ほんの些細な日常のなかに不可解な部分は多々あった。その違和感に気づくことすらできなかった俺は、いったい好きな人のなにを見てきたのか、ひどく不甲斐なくなる。
「そっか。ならよかった」
どうやら自力で歩く体力も衰えてきているらしく、最近の鈴は基本的にベッドの上から動かず、移動は車椅子で行うようになっていた。
これが、枯桜病の恐ろしさだ。
一度進行が早まってしまえば、それはもう留まることを知らない。年を越せないということは、ここから急激に身体が衰退してゆくのだろう。ついこの間、一緒に水族館へ行ったばかりなのに、あれがもうずいぶんと昔のことのように感じられる。
「先輩が来る日はとくに元気な日が多いんですよね。気持ちの問題かなぁ」
「病は気からって言うしね。なんだったら毎日来るけど」
「そ、それはだめです。むしろ週一とかでいいんですよ。先輩、受験生だし」
もごもごと口籠りながら、こちらの様子を窺うようにして鈴が肩をすくめる。
「……大学、行くんですよね?」
たしかに俺は受験生、ではある。
最近どこに行ってもその言葉が付いて回って、心底うんざりしていたところだが、鈴に聞かれると不思議と嫌な気持ちにはならない。
「いや、まだ決めてない。一応、俺の経歴に興味があるらしい都内の某美大からうちに来てくれないかってスカウトはされてるけど」
「えっ!? すごい!」
「すごくないよ。世のなかには俺以上に才能のある画家なんて山ほどいるんだから」
それに、と俺は行き場をなくした目を逸らしながら心中でつぶやく。
──鈴がいない学校なんて、行っても仕方ないでしょ。
「先輩て、謙虚ですよねぇ」
「謙虚?」
「五年連続でコンクール金賞取ってる人なんて他にいませんよ」
まったく、と鈴が拗ねたように唇を尖らせる。
五年、というのは、中学のときから換算されているのか。
前々から思っていたけれど、本当に鈴は俺のことをよく知っている。若干そこに混ざりこむ嫉妬や羨望が気になるが。
「まあ、そうは言っても地方コンだし……」
「でも激戦区の関東です」
「まあ、そうだけど。そもそも、俺はあまり、ああいう他者が評価するタイプの結果は気にしないから。正直、絵に関しては優劣付けるもんじゃないと思ってるしね」
鈴が一瞬、ぴきりと固まって双眸を瞬かせる。
「……というと?」
「絵に正解なんてないでしょ。その人の描いたものがすべてだし、描いた本人がこれだって思えば、それはもう作品として成立してる。コンクールの評価は、おおかた技術的な面や独創性、あとは大衆に受けるかどうかで審査されてるわけだから」
「ええとつまり、誰かに見せるために描くものと、自分のために描くものでは違うってことですか? コンクール用の絵は、しょせんコンクール向けってこと?」
「簡単に言えばね」
ふうん、と鈴は考えこむように腕を組んで曖昧に相槌を打った。
「たしかにそれも一理あるんですけど……。でも私、そのうえで響くものってあると思うんですよね。自分がそれを描けているかはべつとして」
「響くもの?」
鈴がほんの少し遠慮がちにうなずいた。
こういうとき、俺の意見に流されることなく、芯のある自分の考えを相手にぶつけられるのは鈴のいいところだな、と思う。
「なんていうか、先輩の絵みたいに。見た人の心を掴む絵。技術や表現力ももちろん大事ですけど、その絵に込められた魂の叫びというか──そういうものが込められた絵は、たとえ下手でも人々の心に届くじゃないですか。感覚的なことなので、言語化するのはなかなか難しいんですけどね」
「……ムンクの叫び、みたいな? 正確に描かれてない訴えってことかな」
「ふふ、うん、そうですね。あれもまぁ、その一種なのかもしれません。魂の叫びというかは曖昧ですけど。でも、第六感に突き刺さるなにかがある気がしません?」
まあ──そう、なのかな。
いまいちはっきりと飲み込めなくて、俺は顎に指を添えて考える。
こんなふうに、絵に関することを突き詰めて話すのは嫌いじゃない。
鈴と出逢うまでは他人とそんな話をすることもなかったけれど、いざこうしてみれば意外と視野が広がるのだ。どこまでも、果てしなく。
俺が思いもしなかったようなことを鈴は考えていたりするから、面白い。
「刺さったものってね、厄介なことに一生抜けないんですよ。裂傷と同じです。いつまでもいつまでも胸に刺さってる。だから、忘れない。もうここまでくると奇跡みたいなものですね、そういう絵と出逢うのは」
「ふうん。全部はわからないけど……まあ、感覚的なものだしね。描くも、見るも」
俺はそもそも、他人の絵をあまり見たことがないのだけれど。
だからといって自分の絵が特別代えがたいほど好きというわけではなく、ただ人の絵を見てなにかを評価しようという概念がないだけだ。
それは俺の役割じゃないし、見たいと思ったことすらなかった。
「先輩もいつか、そういう絵に出逢えるといいですね」
「……うん。鈴はもう出逢ってるの?」
「えぇ、今さらですか? 私にとっての運命の出逢いは、ぜーんぶ先輩ですってば」
運命の出逢い、とは。
言葉の意味を図りかねていると、鈴はおかしそうにころころと笑った。
「ユイ先輩。今日はお天気もいいですし、お散歩に連れて行ってくれませんか?」
「散歩? いいけど……怒られない?」
「むしろちょっと外に出るよう言われてるんです。ずっと引きこもってたら、それこそ退化していきますから。適度なお日様は身体にいいんですよ」
なるほど、と素直に納得する。
人間は太陽光を浴びないと生きられない存在だと、どこかで聞いたことがある。
引きこもりだと思われがちな俺も、実際は毎日のように屋上庭園で外気に当たっているし、あながち嘘ではないのかもしれない。一向に日焼けしないのは体質だ。
「車椅子はそれ使っていいの?」
部屋の隅に畳んで置いてあった車椅子を指さすと、鈴がわくわくした表情でうなずいた。どうやら今日は本当に体調がいいらしい。
よかった、とひとり胸を撫でおろす。
車椅子を開いて座部分を整えてから、ストッパーをかける。内側に折れたままの足置き場を戻しながら、ベッドの端にぴったりと付けるように寄せた。
これができるようになったのは、鈴が車椅子に乗るようになってからだ。車椅子がこんなふうにコンパクトに畳まることも、意外と重量があることも知らなかった。
腕で体を支えて自ら車椅子に移ろうとする鈴に、俺は嘆息しながら声をかける。
「鈴」
「へ? ……わっ」
どうして甘えないのかな、と少し寂しく思う気持ちを隠しつつ鈴を抱き上げて、車椅子に移動させる。もともと体が小さい上、なにぶん細いから軽い。
隼と比べると圧倒的にもやし扱いされがちな俺でも抱き上げられるから、ありがたいと言えばありがたいのだけれど。
ただ、少し、不安になる。
触れるたびに軽くなっていく体が、そのうち俺が持ち上げることもないくらいに軽くなって、風に吹かれるまま消えてしまうのではないかと。
「せ、先輩、甘やかしすぎですよ」
「甘やかすって言った」
「言いましたけど! うぅ……恥ずかしい」
鈴は本当に小さなことですぐに顔を赤くする。その感覚がいまいち理解できなくて不思議に思いながらも、その初心な反応が可愛くてつい笑みがこぼれる。
「じゃあ、行くよ」
鈴を乗せた車椅子をうしろから押して病室を出る。すると、ちょうど隣の病室から鈴の主治医の先生が出てきたところだった。たしか、伊藤先生といったか。
こちらに気づいて、彼女が軽く手を挙げる。
「あら、鈴ちゃん。彼氏くんも、こんにちは」
「こんにちは。……すみません、少し散歩に出てきます」
「はいはい、了解。今日は朝から調子よさそうだし大丈夫だと思うけど、なにかあったらすぐにナースコール押してね。もしくは近くの先生に声をかけて」
「大丈夫だよ、先生。今日は本当に元気なんです」
普段は気づかないが、鈴が入院しているこの大学病院には、通路の至るところにナースコールが設置されている。それだけ多くの患者が入院しているのだ。
もちろんそのなかには、鈴のような難病を抱えた人も少なくない。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
先生に柔和な笑みに見送られて、俺は再度車椅子を押していく。
しかし、途中通りかかったプレイルームから複数の「鈴ちゃーん!」という子どもの声が聞こえてきて、俺はふたたび立ち止まることとなった。
「あ、やっほーみんな」
「やっほー鈴ちゃん! どこ行くのー?」
「お散歩お散歩。このお兄ちゃんに連れていってもらうんだー」
まだ小学校低学年くらいの子たちが、パタパタと駆け寄ってくる。
鈴が入院しているのは小児科だ。曰く、子どもの頃からここに罹っているから、高校生になった今でも入院病棟は変わらず小児科のままらしい。
長年罹っていることもあり、鈴は顔見知りの子どもたちも多いようだった。
「いいなあ、あたしも行きたーい」
「ふふん、看護師さんに頼みましょう」
「ずるーい! かっこいい彼氏ずるいー!」
「ふふん、いいでしょ~? 先輩はあげませんよーだ」
さすが子どもの相手が上手いな、と素直に感心する。
さらりと放たれた『あげない』という言葉が、まるで私のものだと言われている気がして無性に嬉しくなった。俺も大概、この子に惚れ込んでいるらしい。
「じゃあ行ってくるね。みんなも楽しんで」
「はぁい。デート楽しんでね、鈴ちゃん」
「でっ……もう! 大人をからかわないの!」
デート、という言葉に、瞬く間に鈴の顔が真っ赤に染まった。
たしかに見様によってはデートだ。ふたりきりで散歩、というのも悪くはない。
あどけない子どもの口車に難なく乗せられて気分が高揚する。きっと今の場面を隼が目撃していたら単純馬鹿だと詰られるのだろうが、それがどうした。
「ねえ、鈴」
車椅子を押しながら名前を呼べば、鈴は覆った指の隙間からこちらを見上げてくる。
「なかなか的を射たことを言ってくる子たちだね」
「ませてるんですよ、最近の子は」
出会い頭に告白してくる謎の度胸はあるくせに、なかなかどうしてそういうところは恥ずかしいのか。やっぱり、鈴はときどき不思議だ。
好きという気持ちは少しも隠さず伝えてくるのに、いざ自分が言われたら照れる。
少しでもカップルらしいことをすると、すぐにキャパオーバーを起こす。これまでもさんざんふたりきりの場面はあったのに、こんな一面を俺は知らなかった。
「まあ、俺は嬉しいよ。鈴とのデート」
「せ、先輩まで……」
「鈴と一緒にいられるなら、どこだって楽しいからね」
そう言うと、鈴は一瞬だけ戸惑ったように押し黙った。しかしすぐに首だけこちらを振り返って、拗ねたようにぷくっと頬を膨らませる。
「ユイ先輩。最近、私のセリフ取りすぎじゃないですか?」
「なにそれ」
「ずーっと、私が伝える側だったのにー」
声音こそ軽いものの、雨空に似た色をしっとりと滲ませた瞳はひどく切なげに見えた。それに気づかないふりをして、俺は前を向きながら小さく笑ってみせる。
「今度は、俺の番だからね」
悩ませたくはない、と思う。
だが、俺と鈴が今こうして共に過ごしている時間は、溢れんばかりの幸せと裏返しに『死』という名の絶望が待ち構えている。
だからこそ鈴は、きっと葛藤しているのだ。
優しいから。
鈴はとても優しい子だから、残される側の俺をずっと心配している。
──……ならばいっそ。
そう思ってしまうのは、そんなに悪いことなのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます