第5章 「生きてくださいね」1話


 枯桜病は、不治の病だという。

 何年ほど前だったか、一時期やたらと世間を騒がせていた病だ。

 突如現れた未知の病。枯桜病なんていうやたらと美談じみた俗称をつけられたのも、各種メディアで話題にのぼりやすくするためだ。

 そもそも罹患者が少ないこともあり、原因も治療法もいまだ確立されていない。

 枯桜病の患者に共通しているのは、時と共に全身の機能が衰退していくこと。そして、眠ったまま死に至ることだろう。


 死に近づくにつれ睡眠時間が増える。最期には痛覚もほぼ機能しなくなっているため、痛みも苦しみも感じることなく、ただ穏やかに眠るのだという。


 ──……それを、理想の死に方だという奴がいる。


 枯桜病について調べている最中、たまたまそういったことを書いている記事を見つけてしまった。無性に苛立ちを覚えながらさらに調べていくと、案外少なくない数の人々がそう定説していることを知った。SNSでもときおり、あまりにも軽々しく、自分もそんなふうに死にたいとつぶやいている人がいる。


 なぜ、そんなことを言えるのか。

 俺にはどうしても理解できなかった。

 人の死は、存外すぐそばにあるものだ。

 それは命あるものに必然と付き纏う宿命でもある。

 身近な人間に限定せずとも、世界では一秒にふたり人が死んでいると言うし、生きている限り自分だって決して例外ではない。

 怪我も病もなく寿命を全うし、いわば老衰で死ぬことができる人間なんてほとんどいないのだ。今この瞬間だって、もしかしたら体のなかのどこかは病に浸蝕されているのかもしれない。二分後には命を危ぶむ事故に遭っているかもしれない。

 なぜ人は、そういうゼロではない可能性に自分は含まれないと思ってしまうのか。

 なかば八つ当たり気味に走らせていた鉛筆をぴたりと止めて、俺はおもむろに立ち上がった。格子窓を開けると、途端に夏のむわりとした生温い空気が流れ込んでくる。


 ……夏は、嫌いだ。


「あっつ……」


 こううだるような暑さでは、まともに気分転換もできやしない。

 すぐに閉めて、ついでにカーテンも引いた。

 そのままの足でアトリエ──もとい自宅の離れを出て、母屋へ足を向ける。

 隅々まで職人に手入れされた日本庭園風の中庭を横目に縁側の板間を踏み、無人の和室をいくつか通り抜けて、奥の炊事場へ。

 すると、先客が「あら?」とほんわかとした声を落としながら振り返った。


「珍しいですね。結生さんがここへ来るの」


「幸枝さん」


 一瞬、彼女の後姿が、今は亡き母に重なって見えた。どきりと跳ねた心臓を悟られないように、俺は平然を装いながら「こんにちは」と小さな声で返す。


「ちょっと、喉が渇いて」


「夏場ですからね。こまめに水分補給しないと脱水症状になってしまいますよ」


「うん。兄さんたちは?」


「正隆さんはいつも通りお仕事です。千代春さんは……そうですね、私室にいらっしゃるんじゃないでしょうか。この時間ですと、お稽古中だと思います」


 そう、と俺は軽く会釈しながら冷蔵庫を開ける。

 右上にミネラルウォーターが数本入っていた。一本そこから抜いてみると、やはり俺の好きなメーカーのものではない。この家の人間が俺の好みを把握しているわけがないから当然なのだけど。


「ごめんなさいね、結生さんの好きなお水切らしちゃってて。緑茶のストックはありますけど、出しましょうか?」


 ……ああ、この人を除いて。


「いや、平気」


 正確には幸枝さんはうちの人間ではないけれど、まあ似たような存在ではある。

 いわゆる、お手伝いさんだ。

 俺が生まれたときには、もう既にこの家で働いていた。住み込みなことも相まって、俺にとっては家族も同然だった。母が死んでからは、彼女のおかげでうちが崩壊せず成り立っているのだと、俺はひそかに思っている。


 こう見えて春永家は、由緒ある華道の家柄で。

 現当主は俺の父、春永由一。二十八代目。そして二十九代目、次期当主となるのは次男の千代春だ。俺の十も上である長男は、すでに起業家として成功していること、華道に関しては次男の方に才があったことから、数年前正式に跡継ぎが決まった。

 ちなみにこの跡継ぎ問題に、末っ子である俺はそもそも参戦すらしていない。


 俺は幼い頃から華道を好まなかった。作法こそ教えこまれていても、まともに稽古すらしたことがない。花を生けるよりも、絵を描きたかったから。

 それでも、お家元の息子という枷は厄介で。

 才色兼備な兄ふたりと比べられて、でき損ないの烙印を押される。春永の息子なのに、と白い目を向けられる。絵なんて地味なもの、と関係のない絵まで貶される。

 おかげで俺はずっと劣等感を抱いて生きてくる羽目になったのだが、今となってはそれすらもどうでもいい。この家は、どうせ遠くないうちに出ていくのだから。


 まあ昔から、この家での俺の存在などないようなものだった。

 俺にまったくもって関心がない父とは、普段顔を合わせることもない。はたして最後にまともに話したのはいつだったか、それすらも思い出せないほどだ。

 可愛がってくれた母がいなくなってからは、俺も自ら距離を置いて離れに閉じこもっているから、無理もないのだけれど。でも、そういう無関心さというか、必要外のことへ意識を向けられないあたりは、皮肉にも父の遺伝なのだろう。


「結生さん? どうかされました?」


 動きを止めたまま思考に耽っていた俺を訝しく思ったのか、幸枝さんが気遣わしげな視線を送ってくる。

 俺が幼かった頃に比べると、丸みを帯びて皺の増えた顔。それだけの時が過ぎているのだ。いつの間にか──母が死んでから、数年の時が経っている。

 こちらが望まなくとも自然のなかで時は刻まれ、貴重な時間を喰らっていく。


「あまり無理はなさらないでくださいね。顔色もあまりよくないようですし……」


「ああ、いや、大丈夫だよ。べつに、なんでもないから」


 つい突き放すような刺々しい言い方になってしまった。

 俺はどうも、幸枝さんを母に重ねてしまいがちで嫌になる。これが反抗期なら、まったくもってお門違いだ。彼女はなにも関係ないのに。


 幸枝さんは優しい。こんな俺にも分け隔てなく接し、俺を俺として見てくれる数少ない人間のひとりだ。それでも、母ではない。

 いっそのこと父や兄たちと同じようにぞんざいに扱ってくれた方が、幾分気が楽かもしれないとすら思う。


 じゃあ戻るね、と小さく言い置いて炊事場を出ると、変わらず朗らかな声で「頑張ってくださいね」と背中に声がかけられた。

 振り返ることもせず、俺は持ってきたペットボトルの側面をぎゅっと握りしめる。

 どうして俺は、こうなんだろうか。この家にいると、やることなすことすべて、俺を取り巻くすべてがままならない。本当に、なにもかも、腑に落ちない。

 もやもやとした気持ちを抱えたまま、廊下の角を曲がった。しかし直後、突然目の前に壁が現れて俺は顔面から衝突した。考えごとのせいで反応が遅れたらしい。


「うわ、びっくりした。結生か」


「っ……ハル、兄」


 次男の千代春。長男とは年子で、俺とは九つ離れている兄だ。

 存在からどこか優艶な雰囲気を纏うハル兄は、こんなにも暑いというのにしっかりと和装を着こなしていた。うちの人間は普段から和装なのだ。俺以外。


「なんだか久しぶりな気がするな。元気だったか、結生」


 同じ家に住んでいて、そんな問いかけが出てくること自体おかしい。

 うちの異常さは、こういうところだ。

 お家元なだけあって、日頃から多くの人間が出入りする。家族以外の人間が、平気で敷地内を歩いている。だからこそ、この家は気が休まるところがない。

 俺が普段からアトリエに籠りきりなのも、こういった特殊な家庭環境が背景にある。


「というか、結生がこっちに出てくるなんて珍しいな」


 肩下まで伸ばした癖のない黒髪が、縁側を通り抜けた夏の風がさらりと攫って流れる。それを横目に一瞥しながら、俺はひとつ息を吐いた。


「……ちょっと喉が渇いたから」


「ああ、なるほどね。ちゃんと水分は摂らないとだめだよ。脱水症状になるから」


「……うるさいな。そっちこそ、稽古中じゃなかったの」


「うん、今さっき終わったところ」


 唯一家族と顔を合わせる機会があった夕食も、ここ数年は離れまで幸枝さんが運んできてくれるものをひとりで食べている。

 こちらの母屋へ自ら出てくるのは、それこそ入浴時くらいだ。

 よって、こうして廊下でばったり家族と鉢合わせることもほぼない。


「結生もたまには稽古に顔を出してくれてもいいんだよ。息抜きにさ」


「息抜きなんてなるわけないでしょ。ストレス溜まるだけ」


「うーん。絵を描くのもいいけど、もう少し他のことに気を割いてくれないと心配なんだって。集中すると大抵のことは疎かになるんだから、結生は」


 その集中力を華道に生かせればねえ、なんて本当に余計なことを言うハル兄に、さらに苛立ちが募っていく。どうしてこの兄は、俺に構ってくるのだろう。

 昔からだ。俺に関心のない父や、そもそもあまり関わりのない長男とは違って、この次男だけはやたらと俺のことを気にしてくる。無関心でいられた方が楽なのに。


「あんたに関係ないでしょ」


 いらいらしている俺に気づいたのか、ハル兄は心底意外そうに目を瞬かせる。


「おや、本当に珍しいね。結生がそんなに心を荒らしているのは」


「っ……うるさい」


「絵が上手くいかないの?」


「俺が絵のことしか考えてないとか思わないでよ」


「え? 違うの? だって他におまえを揺るがすものなんて早々……」


 そこまで言ってから、ハル兄はハッとしたように俺を見た。わざとらしく着物の袖口で口元を覆い、一昔前の少女漫画のような反応をする。


「まさか……彼女でもできたり」


「…………」


「なーんて。他人に興味がない結生に限ってそんなわけな──」


「できたよ。だからなに。ハル兄になんの関係があるの」


 え、とハル兄がわかりやすく硬直した。父によく似た切れ長の目を限界まで見開いて、まじまじと食い入るように俺を見つめてくる。


「嘘。結生が、彼女? あの結生が?」


「俺のことなんだと思ってんの」


 なぜか俺は、周囲から『人形』だとか心のない人間だと捉えられることが多い。

 家族でさえこうだ。だから、そうなのだろうと思っている。たしかに感情の起伏は少ない方だと自負しているし、実際に並大抵のことでは心を揺らすことはない。

 ……なかった。これまでは。


「もういいから、退いて。離れに戻る」


「ちょっと待って、詳しく聞かせてくれないの?」


「聞かせる必要性を感じないからね」


 立ち塞がるハル兄を押しのけて、俺はさっさと廊下を歩いていこうとした。

 けれど、ふと思い立ち立ち止まる。

 迷いながら振り返ると、ハル兄はきょとんとした顔でこちらを見ていた。なんだかんだ言っても実はそんなに興味ないのか、と拍子抜けする。

 結局、この男も春永の血を引くものなのだ。


「ねえ、ハル兄」


「なんだい」


「……枯桜病って、知ってる?」


 ふ、と。ハル兄の顔から表情が掻き消えた。まるで、帳が落ちたかのように。


「知っているけど。それがどうかした?」


「……べつに。枯桜病のことを調べてて、ちょっと気になっただけ」


 我ながら無意味な問いだった、と俺はふたたび踵を返そうとする。

 それを訊ねたところで、ハル兄が治療方法を知っているわけでもない。

 俺はいったいなにを期待したのか。

 しかし、ふたたび足を踏み出そうとした刹那、パシッと腕を掴まれた。驚きながら振り仰ぐと、そこには背筋にぞっと寒気が走るほど冷え切った瞳があった。


「な、なに?」


「……どうして結生が枯桜病のことを調べる? まさかとは思うけど、おまえの付き合ってる人って──」


 なんでこうも察しがいいのだろうか。

 心底げんなりしながら、俺は掴まれた腕をほぼ力任せに強く振り払う。


「だとしたら、なに?」


「っ……結生! わかってるのか、あの病気は……!」


「死ぬ病だよ。知ってる。……俺の彼女も、もうそう長くないって言ってた」


 ハル兄が目を剥いてはっと息を呑んだ。


「でも、だからなんなの。もうすぐ死ぬからって、なんでそばにいちゃいけないの。好きなのに、一緒にいたいのに、なんでそうやって死ぬことしか考えないわけ」


 わからないのだ。

 鈴も、俺から離れようとした。

 あれだけ好きだと伝えておいて、これだけ俺を好きにさせておいて、俺が病気のことを知っただけで距離を置こうとした。あのとき、なかば強引にでも引き留めていなければ、きっと鈴はもう今ごろ俺の前から消えていたんだろう。


 でも、俺は、知っている。

 そうして置いた距離は、後々、拭いきれない後悔として心を蝕んでいくことを。

 だから、絶対に譲らない。譲るわけにはいかない。

 誰になにを言われても。それがたとえ、鈴からの願いだとしても。


 ──俺は、二度と同じ過ちを犯すわけにはいかないのだ。


「……もう、母さんのときみたいに騙されない。後悔もしない。もうあの頃みたいな、なにもわからない子どもじゃないから。頼むからほっといてよ」


「結生……でも、そんな」


「俺の世界を変えてくれたのは、鈴なんだ。鈴がそばにいなくちゃ、俺は……」


 ぐっと込み上げた言葉を飲み下して、俺は鋭くハル兄を睨みつけた。


「干渉してこないで。俺はいつだって、自分が正しいと思ったことをやってる」


 ひどく悲痛な顔をして押し黙るハル兄に、くるりと背を向ける。

 こうなることがわかっていたから、兄には会いたくなかった。俺と同じように母親を失った経験のある兄は、とくにハル兄は、間違いなく今の俺を心配するから。

 けれど、間違ったことをしているとは思わない。

 俺はたとえ本当に灰になって朽ちてしまっても、鈴のそばにいる。

 それが後悔しない道だと、心の底から信じているのだ。


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