第4章 4話


「……あ、愁」


 最寄り駅まで帰り着くと、そこに電信柱に寄りかかる弟を見つけた。事前に帰ることを連絡していたとはいえ、なんと姉思いな弟だろうか。

 まだ夕方とも取れない時間帯だ。駅周辺も朝より人の数が飽和しており、当然、愁もなかなかこちらに気づく様子はない。

 声をかければいいのだろうけど、正直、愁とは顔を合わせづらかった。

 出かけにあんなことを宣言してしまったのに、まさかユイ先輩と恋人になって帰ってくるなんて自分でも驚くほかない。想定外も甚だしい。


「行くよ、鈴」


 言い訳を必死に思案していると、見かねたらしいユイ先輩に手を引かれた。

 ユイ先輩の声に気づき、弾かれるように顔を上げた愁。私の顔を見た瞬間、その顔に心底ほっとしたような表情が浮かんだ。ツクリ、と胸の芯が軋む。


「おかえり、姉ちゃん」


 ぽつぽつといじっていたスマホを仕舞いがてら、愁が駆けてくる。私の頭の先から足の先までじっくり観察するように視線を走らされて、さすがに面食らった。


「体調、大丈夫?」


「う、うん。なんともないよ。途中で体調悪くなることもなかったし」


「そ。ならよかった」


 素っ気ない返事にしては、あからさまな安堵を滲ませた声音。

 この様子では、今日一日、本当に気を揉ませてしまっていたのだろう。

 愁は昔から、心配性と過保護の度合いが強い傾向にある。ややもすれば両親より私の世話を焼きたがる節があり、自身の貴重な時間すら私に回してしまうことも多い。

 まだ中学生。遊びたい盛りだろうに、愁はいつだって姉を優先するのだ。


「弟くん」


 私のうしろからひょこりと顔を出したユイ先輩が、持っていた紙袋を愁へ手渡した。


「え、なにこれ……って重!」


「私と先輩からのお土産だよ。選んでたら、楽しくていっぱい買っちゃって」


「それにしても買いすぎだろ。なにこのサメ」


「あ、可愛いでしょ、コバンザメ。ジンベイザメもいたんだけど、こっちのが愁っぽくて。ちなみにキーホルダーバージョンも買ったよ」


「おれのどこにこれの要素を見つけたんだよ。……いやまぁ、嬉しいけどさ」


 ありがと、と仏頂面で言いつつも、愁はしげしげとコバンザメの顔を眺めてなんとも微妙な反応をする。

 私と愁の体格差を考えたらジンベイザメなのだけれど、私のなかの愁は、いつまでも可愛いコバンザメなのだ。そうであってほしい、という願望ありきで。

 言ったら怒りそうだから、絶対に言わないけど。


「……春永先輩も。その、ありがとう、ございます」


「いや、俺も楽しかったし。今日は疲れただろうから、ゆっくり休ませてあげて」


「はあ。言われなくてもそうしますけど」


 なにかを感じ取ったのか、訝しげにユイ先輩と私を交互に見る愁。その察しのよさに冷や汗をかきながら、私は慌てて「じゃあ!」と話に割って入った。


「そろそろ私たち行きますね。先輩、今日は本当にありがとうございました!」


「こちらこそ。また連絡するから」


「は、はい……!」


 じゃあね、と私の頭をひと撫でしてから、ユイ先輩は私たちの帰り道とは反対方向へと歩いていく。

 ……今日一日で、何度撫でられただろうか。

 もしかして癖なのか。あるいは、撫でるのが好きな人なのか。

 いつもはなにかと世話を焼かれている印象があるのに、ああ見えて意外と庇護欲があったりするのかもしれない。それは些か、気恥ずかしいのだけれど。

 呆然と立ち尽くしながらユイ先輩の背中を見送って、私は両手で顔を覆った。

 ああ、まずい。これはよろしくない傾向だ。

 先輩がとてつもなく甘やかしモードに突入してしまったような気がする。


「……愁」


「…………」


「ごめん。終わりにできなかった……」


「だろうね!」


 はぁあ、と聞いたこともない全力のため息と共に、愁が頭をがしがしと掻き乱す。


「……しかも付き合うことになっちゃった……」


「朝の言葉はなんだったんだよ!? 一日気にしてたおれの気苦労返せ、バカ!」


「ほんっと、うん、なんかよくわかんないけどごめん……」


 だって、まさか先輩があんな方向で攻めてくるとは思わなかったのだ。

 病気のことを知ってまで私のことを好きでいてくれて、あろうことか死ぬ未来がわかっていても共に居たいと──そんな危ういことを言われてしまったら、突き返すこともできなかった。当然だろう。私はユイ先輩が好きなのだから。

 私がずるずるとその場にしゃがみこむと、愁が一瞬たじろいだ気配がした。


「……ちょ、大丈夫? また具合悪くなったとか言わないよね?」


「うん、そうじゃなくて。なんかいろいろ、いっぱいいっぱいで……」


 はあ、とふたたび頭上で愁の嘆息が落ちた。

 そりゃそうだ。愁が安心できるようにユイ先輩から離れようと決意したはずが、むしろ状況をややこしくしてしまっている。

 しかも、わりと、取り返しのつかない方向へ。

 呆れられるか、はたまた怒られるか。なんにせよ降り注ぐだろう罵倒を覚悟していると、愁はなぜか私の前に視線を合わせるようにしゃがみ込んできた。


「……あのさ。おれはべつに、姉ちゃんから自由を奪おうとは思ってないんだよ」


「っ、え?」


「高校に通うのも、入院しないのも、たしかに反対したけど。でも、それで姉ちゃんが幸せになれるならそっちの方がいいのかなって……最近は思ってる」


 言いにくそうに言葉を濁らせる愁は、けれどもやっぱりつらそうで、まだどこか迷っているようにも見えた。

 言葉にして告げることで、自らを説得しているような響きすら孕んでいる。


「正直、正解がわからない。おれも、きっと母さんや父さんも、姉ちゃんがやりたいことはできる限りやらせてやりたいって思ってるんだ。でも、それと同じくらい心配で、少しでも長生きできるなら治療に専念してほしいとも思ってる」


「っ、うん。わかってるよ」


「けどさ。それで姉ちゃんから笑顔が消えるのは、また本末転倒なんだよ」


 自嘲に似た笑みを滲ませながら、私の視界の端で拳を握った。


「……私から、笑顔が?」


「うん。だって姉ちゃん、高校入ってからの二年がいちばんいい顔してんだもん。そんな姉ちゃん見てたらさ、なにがどう正しいのか、わからなくなるっていうか」


 ぐっと前髪をかきあげながら、愁はおもむろに立ち上がる。


「正確には、あの先輩と一緒にいるようになってから、かな。毎日楽しそうで、めちゃくちゃ幸せそうで……そんな姉ちゃん見てると、おれは弟のくせになにもできてないなって悔しくなってさ。それで先輩に当たった。ごめん」


「な、なにもできてないなんて、そんなこと……っ」


「ま、そりゃ、最大限サポートはしてるつもりだけど。そうじゃなくて、なんつーのかな。姉ちゃんを本当の意味で幸せにできんのは、結局のところ家族じゃないんだって実感したっていうか」


 ──私を、幸せにする。

 幸せ、という言葉に直結して真っ先に頭に浮かぶのは、ユイ先輩だ。

 つまり、そういうことか。

 私が心の底から幸せだと感じて、心の底から笑顔になれるのはユイ先輩がいるからだと、自他共に認めるほど赤裸々になってしまったのか。


「家族には、またべつの役割があんのかもな。姉ちゃんが安心して帰って来れる場所として、姉ちゃんの幸せを見守る役割みたいなのがさ」


「っ……愁」


「だから、いいよ。おれのことは気にしなくて。たとえどう転がったとしても、姉ちゃんが幸せになれるなら、それが正解なんだ。あの先輩も、姉ちゃんの病気のこと知ったうえで姉ちゃんと付き合うって言ったんだろ?」


 私は一瞬の間の後、こくりと顎を引いた。

 そうだ。先輩はすべてを知ったうえで、私と一緒に出かけてくれた。

 この間のように倒れてしまう可能性もあったし、ふたりきりで出かけるなんてきっと怖かったはずなのに、ちゃんと向き合ってくれた。きっとそこに嘘はない。


「なら、それなりの覚悟があるってことじゃないの。知らんけど。でもま、なんにせよそれを受け取っちまった姉ちゃんも、相応の覚悟を持つ必要があるんじゃない」


「う、ん……」


「まあもーすぐ入院だけど」


 ほら立って、と手を差し出された。

 ユイ先輩の繊細な白魚のような指先とは違う。幼かった頃の小さく柔い餅のような手でもなく、角ばっていて無骨な、大人になり始めた男の子の手。

 ──本当に、いつの間にこんなにも、大きくなってしまったのだろうか。

 私はおずおずとそれを掴んで立ち上がりながら、寂しい気持ちを押し隠す。


「先輩ね、お見舞い来るって言ってたよ」


「へえ。最悪」


「あ、そういうところは変わんないんだ」


 帰り際。言い忘れていた入院のことをユイ先輩に伝えたら、どうやらそのことすらも知っていたらしく「お見舞い行くから」と真顔で宣言されてしまった。

 正直なところ、入院中はあまり会いたくない。

 でも、いつ退院できるかわからない状態では断ることもできなかった。

 付き合った矢先に会うことすらも禁じてしまったら、さすがに報われない。

 いつもは病室のベッドでだらけきっているが、今回はなるべく身綺麗にしておく必要がありそうだ。そんなことを、明後日の方向を見つめながら、ぼうっと考える。


「まあ、入院まではのんびりするかなあ。ってことで帰ろうか、愁」


「……帰ったら、とりあえず母さんの手伝いさせられそうだけど。今日は姉ちゃんの好きなじゃがいものポタージュ作るって張り切ってたから」


「えっ、ほんと? 嬉しい!」


 食せるものが限られている今、とりわけスープ系はご褒美のようなもの。

 味はもう感じられない。嗅覚も、少しずつ鈍ってきている気がする。

 それでもお母さんのじゃがいものポタージュは、胸が温かくなるから好きだ。

 泣きそうになるほど愛情がたんまりと籠っているから、好きだ。


「ねえ、愁」


「なに?」


「いつも、ありがとうね」


 一拍遅れて、愁が振り返ることなく「べつに」とつぶやいた。

 その背中が震えているように見えたのは、きっと気のせいだと思うことにした。

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