第4章 3話
◇
しばらくは気まずい雰囲気が流れていたものの、そこはやはりユイ先輩。
鑑賞コースもゴールに近づき、そろそろ最終エリアという頃には、もういつも通りに戻っていた。
このあたりはおもに小さな海洋生物が集められているらしい。
クマノミやエビ、タコなどの私でも知っているような生き物から、触ることも可能なネコザメまで、多種多様の生物が展示されていた。
そのうちのひとつ、天井を突き抜けるように設置された円柱型の水槽の前で立ち止まっていた私は、隣のユイ先輩を見上げながら告げる。
「先輩はクラゲみたいですよね」
クラゲ、海月。海の月。ユイ先輩そのものだ。
「……俺が?」
「はい。いつもゆらゆらふわふわしてて、どうも掴みきれないところとか」
そうかな、と先輩が不思議そうに小首を傾げた。吸い込まれるようにクラゲが揺蕩う水槽を見つめる立ち姿は、なんともまた絵になる光景で。
ついくすりと笑みを誘われながら、私はひっそりとこれを描こうと決めた。
しばらくクラゲを見ていたかと思ったら、先輩はふいに顔を上げた。
なにかを探すようにあたりをきょろきょろと見回して、ユイ先輩は「こっち」と私の手を引いて歩き始める。
「これ」
「……チンアナゴ? ですか?」
また海洋生物のなかでもマイナーな生き物の前で立ち止まったユイ先輩は、ふたたびじっとチンアナゴを見つめる。絵描きの観察眼がフル稼働しているような目だ。
そんなにこの子たちが気になるのか、と不思議に思っていると、ユイ先輩はふと満足そうに深くうなずいた。そして、ひとこと。
「君に似てる」
「え。こ、この子たちがですか」
「うん。ほら、ひょっこり出てくるところとか。そっくり」
ええ、と私はなんとも複雑極まりない心境でチンアナゴを見つめた。
くねくねと珍妙な動きをしながら、ときおり砂の底にもぐっては、気まぐれに顔を覗かせている。よくよく見たら可愛い……かもしれない。
わからないけど、そう思うことにしておいた。
「……ユイ先輩、水族館よく来るんですか?」
先ほどから思っていたことだった。館内はさして複雑な構造をしているわけではないものの、それにしたって先輩は迷うことなく歩いていく。
勝手知ったる様子、というか、とても慣れているように見える。
「うん、まあ。たまに来るよ。行き詰まったときとか、気分転換したいときとか」
「せ、先輩でも行き詰まることが……!?」
「俺のことなんだと思ってるの。むしろ、行き詰まってばかりだよ。絵に関しても、他のことに関してもね。いつも溺れそうになってる」
なんだか、意外だった。ユイ先輩は、どこまで沈んでも平気で息をしていそうなくらい絵を描くことに囚われている人だと思っていたから。
どこに行ってもあのクラゲのように自由気まま、ゆらりゆらりと泳いでいそうだ。
溺れるなんて印象とは程遠い。けれど、なぜか気持ちはわかるような気がした。
「これだって確信して描いている絵でも、途中で見えていたものの輪郭がぼやけたりね。そうすると、ああでもないこうでもない、って底のない沼に嵌っていく。そのまま溺れそうになって、絵自体を破り捨てることもしょっちゅうあるし」
「先輩が荒々しいところとか想像つかないんですけど……。へえ、見てみたいなあ」
「なんで」
「どんな先輩でも興味があるんですよ、私」
ふふ、といたずらに笑って見せれば、先輩は面食らったように押し黙った。
そしてクラゲやチンアナゴを見ていたときと同じ瞳で、私をじっと見つめてくる。
さすがに自分が対象となれば『絵になる』なんて呑気に思っていられない。好きな人に見つめられて平然といられるほど、私はまだ大人ではないのだ。
「せ、先輩? 私の顔、なんかついてます?」
「いや……」
言葉を濁らせながら憂いをまぶせた瞼を伏せて、ユイ先輩は息を吐いた。
「本当にね、いつも溺れそうになる。君と一緒にいると、調子が狂ってさ」
「えっ」
もしやこれは全力で呆れられているのだろうか、と血の気が引きかける。
しかし後に続いた言葉は、私の予想していたものとはまったく違っていた。
「興味があるのは、俺の方だ。小鳥遊さんのことならなんでも知りたい。君が見ている世界を見たい。そんなふうに思えば思うほど、溺れていくんだよ」
ユイ先輩は私と繋いだ手をきゅっと少し強く握った。
その手はかすかに震えを伴っていて、私は戸惑いを隠せないまま視線を落とす。私よりもずっと大きな手なのに、真冬の海に浸けた後のようにひどく冷え切っていた。
「せんぱ……」
「──俺は、小鳥遊さんのことが好きだから」
私とユイ先輩を取りこんだ、すべての時が止まったような気がした。
呼吸すら忘れて、ユイ先輩に射すくめられる。
さきほどの胸の痛みがふたたびぶり返し、心臓なのか、喉なのかはわからないけれど、灰を詰め込まれたような苦しさを覚えた。
どこか切なげな色を灯しながら揺れる瞳は、決して人形のものではない。
「……この好きは、君が俺に言う好きと、同じ?」
まるで迷子の子どものようだった。自分でそれがなんなのかもはっきりしなくて、今も答えを探している。不安のなかで執着地点を見つけようと足掻いている。
「俺の好きは、君と一緒にいたいっていう好きだよ」
好き。もう何度、先輩に伝えたかわからない言葉なのに。
そのはずなのに自分が言われる側になってみればどうだろう。
身体が、心が、焼けるように熱い。溶けてしまいそうなくらい、熱い。
けれどその一方で、私の頭のなかは氷水を浴びたみたいに冷えきっていく。
「……どうして、そんなに泣きそうなの」
ユイ先輩の表情が痛みを堪えるように歪んで、私の頬に手が添えられる。
「俺の気持ちは、迷惑?」
そうじゃない。そうじゃない、と言いたい。
私も好きだって、同じ意味の好きだって、そう伝えたい。
けれど、だめだ。
なにも伝えていないのに、私にユイ先輩の気持ちを受け取る資格はない。
「……ユイ先輩」
私は頬に触れる先輩の手に自分の手を重ねた。締まりきった喉から無理やり声を押し出せば、それはまるで自分のものではないように掠れていた。
「大事な話があるんです」
◇
広海水族館を後にした私とユイ先輩は、敷地内の穏やかな散歩コースを歩く。
海沿いの並木道。耳朶をくすぐるのは、子どものはしゃいだ声。木々の葉が擦れるさざめき。それから、さざ波が堤防に打ちつけられる音。
そのすべてが混ざり合って、ひどく優しい音色を紡ぎ奏でていた。
もう手は繋いでいない。私が切り出すのを待っているのか、数歩うしろから距離を取ってついてくるユイ先輩は、さきほどからずっと黙り込んでしまっている。
「海が綺麗ですね、先輩」
「……うん、そうだね」
「真夏の海って、どうしてこうきらきらしてるんでしょうね。冬も澄んでいて綺麗だけど、やっぱり真夏は違った輝きがあるというか」
「…………」
靴底がじゃりっと地面を掠めて、背後でユイ先輩が立ち止まる気配がした。
さすがにもう伸ばせないか、と息を吐いて、ゆっくりと振り返る。
ユイ先輩はときおり吹きぬける夏の爽やかな風に銀色の髪を揺らしながら、私を見ていた。あまりにも思い詰めた表情で。
「そんな顔、しないでください。話ができません」
「え……ごめん。俺、変な顔してた?」
哀愁漂う眼差しにこちらまで切なさを募らせながら、私はゆるく首を振る。
「……あのね、先輩。私、もうすぐ死ぬんです」
「…………っ」
「枯桜病って、知ってますか?」
息を詰めたユイ先輩は、その長い睫毛を伏せながら、わずかに顎を引く。
「……病院で、少しだけ聞いて。調べた」
「あぁ、やっぱり聞いちゃったんですね」
「救急車で運ばれるときに弟くんが救命士に言ってたのと……病院ついてから処置されるまで飛び交ってたから。ごめん、聞くつもりはなかったんだけど」
「いえいえ。それは致し方ありません。むしろごめんなさいっていうか」
けれど、ならばユイ先輩は。
──私が枯桜病であることを知った上で、さっきの告白をしてくれたのだろうか。
「だけど、君の口から聞くまではって思ってた。これまでずっと隠してきた理由もわからなかったし。そもそも、俺なんかが聞いていい話なのかもわからなくて」
ふう、と重々しく一呼吸置いたユイ先輩は、ゆっくりと私の方へ近づいてくる。
「たくさん考えたよ。俺の気持ちを伝えるべきなのか、伝えず隠しておくべきなのか」
でも、とユイ先輩は私の目の前で立ち止まり、思いのほか強い瞳を向けてきた。
「伝えなかったらきっと後悔する、と思った」
「後悔、ですか?」
「そう。……俺は、これから先のことよりも今を大事にしたい」
私とユイ先輩を包みこむように風が髪を攫っていく。
唐突に、もう夏なのかと思った。あと半年もすれば、今年は終わってしまうのかと。
「半年ですよ」
「え?」
「私に残された時間。半年、あるかないかです」
伊藤先生に、年は越せないかもしれないと言われた。
そうノートに書いてあった。付箋とマーカー付きで。
なんとなく記憶はあるものの、どうにも夢の出来事のような曖昧さで判然としないから、きっと過去の私が忘れないように付けたものなのだろう。
現実はここにあるよ、と毎日忘れず振り返れるように。
「それでも今と同じことを言えますか、ユイ先輩」
私はあえて突き放すように問いかけた。
今日、私は、すべてを打ち明けるつもりで会いに来た。
打ち明けてお別れをして、もう二度と先輩とは会わない覚悟でいた。
だから、好きな人とのふたりきりの時間を、心の底から楽しんで過ごしたかった。
私にとっては、もう二度と、一生訪れないであろう夢の時間を。
だというのに、まさかユイ先輩も私と同じ気持ちを抱いていてくれるなんて。
まして、そのことに先輩自身が気がついて、告白してくれるなんて。
──ああ、嬉しくない。
「別れは必然。はなから運命が定められたお付き合いになるんですよ? そんなのあまりに残酷な話じゃないですか。お互いに、つらいだけです」
私が抱える運命は、現実は、変わらずそこにある。
なのにユイ先輩は、なぜか私の言葉に迷いのひとつも見せなかった。
「それでも。君の命が残り半年だとしても、俺は俺の答えを覆さない」
「……先輩。その意味、ちゃんとわかって言ってますか」
「もちろん。あのね、小鳥遊さん。たとえ俺と君が恋愛関係にならなくても、この答えは変わらないから。俺は今までと変わらず君のそばにいるよ」
あんなに『好き』の気持ちに対して消極的だったユイ先輩。
にもかかわらず、そばにいることだけは異常にこだわっているようだった。執着に似た、並々ならぬ頑固さを感じる。
その確固たる意思を前に、私は二の句を継げなくなってしまった。
どうして、とそれ以上追及できなかったのは、さきほど先輩のお母さんの話を聞いてしまったからだ。だって先輩は、もう『死』がどんなものか知っている。
知っているうえで──否、知ってしまっているからこそ、なのか。
「さっきの君の言葉を借りるけど、たとえどんな病気を患っていようが小鳥遊さんは小鳥遊さんでしょ。変わりようがなく。そして、君は今、生きてる。生きて、俺の前にいる。なのに、どうして離れなきゃいけないの」
「っ、でも、私は……」
そう遠くない未来で、この世界からいなくなってしまうのに。
「──……臆病だね、君は」
仕方なさそうな、それでいて困ったような声音だった。
けれどユイ先輩は、まるで駄々をこねる子どもを宥めるように私を優しく撫でて、ふわりと花笑む。皮肉にも、これまで見せた表情でいちばん穏やかな笑顔で。
「どうしてそんなに怖がるの?」
「い、いなくなるからに決まってるじゃないですか……っ」
「そうだね。でも、今じゃない」
「せ、先輩のそばにいれるのは、本当にあと少しだけなんですよ。そんな未来が決まってるのに……傷つけるってわかってるのに、そばになんかいられません!!」
好きならば、なおのこと。
一緒にいればいるほど、その時間が長引けば長引くほど、残されるユイ先輩の傷はより深いものになってしまう。
もちろん私だってつらいけれど、これから先、何年何十年の時をこの世界で生きていかなければならないのは先輩の方なのだ。
だから、先輩とはお別れしようと決めた。先輩がくれた思い出に浸りながら、ゆっくりと死を待つつもりでいた。それだけで充分、私は幸せに死ぬことができるから。
……できる、はずだったから。
「なるほど。俺を傷つけないために、言わなかったんだ」
「っ……それもあるけど、私が病気だって知ったら、優しい先輩は絶対に気にしてくれるでしょう? そういうのはいっさいなしでユイ先輩と話していたかったんです」
私は、先輩に……ユイ先輩に会うために、月ヶ丘高校に入学した。
もう自分が長くないとわかったうえで──否、だからこそ、死ぬ前に好きになってしまった人へ少しでも近づきたくて、わがままを言った。
ただ、会いたかった。会って、彼の世界に触れたかった。
でも、それだけ。
付き合いたいとか、卒業したいとか、そんな大それた望みは抱いていない。
ただユイ先輩の隣で、先輩と一緒に絵を描けるのなら、それでよかったのだ。
「小鳥遊さん。いや、──……ねえ、鈴」
ドクン、と心臓が強く胸を打つ。
初めて呼ばれた名前。
ユイ先輩が私の名前を覚えていたことに驚いて、先輩のその口が私の名前を紡いだことに驚いて、ずるい、と喉の奥から震え切った声が漏れる。
「それでも俺は、鈴が好きだよ」
「ユイ、せんぱ……」
「知ってしまった以上は、今まで通りとはいかないけど。俺はきっと自然と鈴を甘やかしちゃうし。そばにいるからには、より大事にしたいと思うから」
でもね、と。
いつもよりワントーン低い声を落としたユイ先輩は、私をそっと抱き寄せた。
「……怖がらないでいい。傷つけるとか、そんなことを君が考える必要ないから。好きな子と一緒にいられるなら、未来のことなんて今はどうでもいいんだよ」
「な、んで……そんな……」
残酷だと言ったのに、聞いていなかったのか。
別れる未来が決まっている。傷つく運命が定められている。
そんな双方ともに逃げ場のない状態で、それでもなお一緒にいる道を選ぶ?
そんな綺麗事、私は望んでいない。
残していく側も残される側も、きっと、いちばんつらく痛い思いをする道だ。
だけど、もしかしたら。もしかしたら『幸せ』はあるのかもしれない。はかりしれない痛みを引き換えにして、かけがえのない思い出は作れるのかもしれない。
贈り物か、呪いか。
さきほどのユイ先輩の言葉が、不意に頭をよぎる。
「そこまでして私と一緒にいたいなんて、先輩やっぱり変ですよ……っ」
「知ってる。でも、いいんだよ。俺の世界を変えてくれた鈴に、俺は自分のでき得る限りのことをしてあげたいだけだから。それが、俺の望みで願いだから」
ユイ先輩はゆっくりと体を引いて私を見下ろし、切なげな目元を和らげる。
そして、こてん、と首を傾げた。
「鈴。──鈴は、俺が好き?」
「……好き、です。……これまでもずっと、これからもずっと、好きです」
「そっか。なら、今から鈴は俺の彼女ね」
突拍子もなく宣言された言葉に、私は「えっ!?」と大いに狼狽える。
かと思ったら、次の瞬間、先輩は私の額に掠めるような口付けを落としてきた。
「ひ、えっ……へぁっ……!?」
「うん。俺が切った前髪、いいデザインだよね。キスしやすくて」
「そっ、ういう目的だったんですか!?」
いや? と、ユイ先輩はくすりといたずらに笑った。
さらさらと凪ぐ白銀の下。いつになく強い意思の籠った先輩の瞳が私をなぞる。
「大丈夫。一緒にいよう、鈴」
「っ……先輩」
ユイ先輩の言葉はやけに力強く、ともすればらしくないほど頼りがいがあるものなのに、どこか危うげに感じられた。
目を離したら消えてしまいそうな儚さを孕んでいるのは相変わらずだけれど、そのさきには言いようのない仄暗さを纏っているようにも見える。
怖い、と思うのはどうしてか。
──……ああそうか、と私はようやく気づく。
私がユイ先輩に病気のことを打ち明けられなかったのは、他でもなく、そこに一抹の恐怖を覚えていたからだと。
いずれやってくるそのとき、先輩が私と一緒に消えてしまいそうで。
命の灯を消したクラゲのように溶けて消えてしまいそうで。
私はそんな先輩を道連れにしてしまいそうで、とても恐ろしかったのだ。
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