第4章 2話
◇
広海水族館は、地元民に愛される小さな地域型水族館だ。
外から観光に訪れるほどの魅力はなくとも、展示されている海生物はそれなりに充実しているし、園内には子どもが遊べるようなアトラクションエリアもある。
地元割もあるため、気軽に立ち寄れる遊び場として親しまれていた。
しかし数年前、隣町に大規模のエンターテインメント施設ができた影響で、一気に観覧客が激減してしまったらしい。この世知辛い情勢では、もう遠くない未来に閉館してしまうのではないかと風の噂で聞いていた。
実際、夏休み期間にもかかわらず、広海水族館の人はまばらだった。
外のアトラクションエリアの方からは、いくらか楽しそうな子どもの声が聞こえてくるものの、主役である館内はほぼ無人と言っても過言ではない。
近頃は子どもの数も減っているし、閉館の噂もあながち嘘ではないのかもしれない。
まあ個人的には、先輩とふたりきりになることができて嬉しいのだけれど。
「……疲れてない?」
「大丈夫です。ふふ、先輩もたいがい心配性ですね」
あっけらかんと返しながらも、ついこの間倒れたばかりであることを考えると無理もないな、と思う。
もし逆の立場だったら、たぶん私はまともに鑑賞もできなかっただろう。
「先輩。この水族館の生き物から描くものを決めるんですか?」
「そう。小鳥遊さん、基本的に水彩画でしょ。とくに水の表現が上手いから」
思いがけない言葉に、私は目を丸くした。
ユイ先輩が鉛筆画専門であるように、私の専門は水彩画だ。部活中も好んで水彩を用いるし、よほどのことがなければ油絵には手を出さない。
「私が水彩画好きって先輩が知っていたことに驚きです」
「そりゃあ……毎日のように隣で描いてればね。言っておくけど、美術部の部費管理してるの俺だよ。つまり、画材注文してるのも俺なの」
「あ、そっか。言われてみれば」
水彩画に用いる水彩紙の在庫が切れたことは、一度もない。
美術室に保管されている紙も素材も種類が豊富で、充実している印象にある。
「なるほど……。紙とか補充してくれてるの、先生だと思ってました」
美術部の部員は、美術室にある画材を好きなだけ拝借が許可されている。
その恩恵は意外と馬鹿にならない。毎日のように絵を描いていると、いくら画材があっても足りないし、私費でやりくりするには限界があるのだ。
「うち、ほとんど活動部員いないでしょ。だから、部費には多少余裕あってさ。俺と君が使う画材を中心に注文してるけど、俺は実質、鉛筆一本で事足りるし。小鳥遊さんも、もしなにか気になる画材があるなら、注文してあげるよ」
「ほわー。先輩、私の知らないところでちゃんと部長やってたんですね」
「えらいでしょ、俺」
ユイ先輩は基本的に、絵を描く行為以外に関心がない。
さらに、一度描き上げてしまえば、自分の絵でさえも興味を失う。それどころか、自分がなにを描いたのかすら覚えていないことも多いくらいだ。
そんな先輩が、私の得意分野が水彩で、しかも好んで水を描いていることを知っていてくれたなんて。なんだか、とても胸の奥がこそばゆい。
「あの、でも……先輩はあんまり描きませんよね? 水とか」
そわそわとする気持ちを誤魔化すように、話の方向性を変えてみる。
「ん、そうだね。俺はどちらかというと、日常的な風景とか、自然……とりわけ緑を描くことが多いから。水を絵に取り込むこともあるけど、相対的には少ないかな」
「ああ、たしかに。先輩の絵って、モノクロなのに緑が緑に見えるから不思議なんですよね。色の濃淡だけで木々を表現するのって、すごく難しいのに」
「まあでも、俺は人や動物は描かないし。メインに据えるものが生物でないぶん、むしろ表現域は広いと思ってるけどね」
「そういえば、先輩が生き物の絵を描いてるの見たことないかも。なにか理由があるんですか? こだわりとか?」
興味本位で尋ねると、ユイ先輩は顎に指を添えて虚空を見つめた。
それからわずかに「んん」と唸り、ゆらゆらと視線を泳がせる。
「……そう言われると、明確に考えたことないかも。なんとなく避けがち。たぶん、鉛筆で生命力を表現するのはあまり向いてないんだよ」
「ああ、なるほど。感覚的なものだけどわかる気がします。瑞々しさというか、こう内から湧き上がってくる命の煌めきみたいなものですね」
「うん。あくまで形取っただけのスケッチみたいなのはべつなんだけど、俺が描くと、過不足になるというか……どこかで描いちゃいけないかなって思ってる」
先輩は思案気に「たぶんね」と独り言のようにつぶやく。
「描いちゃいけない……?」
どういう意味だろう。
さすがに汲み取れなくて繰り返した私に、ユイ先輩は少し困ったような顔をした。
視線を三点ほど空中で動かしながら、「ええと」と頬を掻く。
「そもそも、俺が色を使わずに絵を描くのは、俺自身がそう見えてるからでさ」
「見えてる……色がない、てことですか?」
「こういう色って認識はしてるよ。それを写実的に描き起こすのは容易いし、たぶんできるんだけど、それは俺の描きたい絵じゃないし。まあ、昔は──幼い頃は、俺も色を持った絵を描いてたんだけどね」
え、と。私は思わず瞠目して立ち止まった。
ユイ先輩が色のある絵を描いていたことがあるなんて、聞いたことがない。少なくとも五年前、先輩が中一だった頃には、すでにモノクロ絵を描いていたはずだ。
つまりそれ以前、ということだろうか。
「──……俺ね。中学に上がる前に、母を亡くしたんだ」
「……っ」
ユイ先輩は立ち止まった私の手を引いて、歩くよう促しながら続ける。
ちょうど深海魚エリアに到達したところだった。
海の奥深く、人の手が及ばない場所で生きている海洋生物たちに配慮してか、いっそう照明が暗い。それがなおのこと、ユイ先輩の発言を縁取って動揺を誘う。
「それから、色味のある絵を描けなくなった。なにひとつ」
「……お母さまの、ショックですか?」
「どうなんだろう。正直よくわからないけど……うん。でも、そうなのかもね」
ユイ先輩は、ふっと自嘲気味に息を吐いて、水槽に目を遣る。
「うちは家系的に好きなことをできる雰囲気ではなくて。父も、長男も、いまだにいい顔はしてないんだ。そんななか、母は俺が絵を描くことを唯一応援してくれていた人だったから。肯定してくれる人がいなくなったのは、大きいかな」
たしか春永家は、由緒正しい華道のお家元だと聞いたことがある。
ユイ先輩が華道をやっているところは一度も見たことがないし、花を生けているイメージもないけれど、そうか。裏側では、そんな家の問題を抱えていたのか。
「まあ、だからね。今の俺って、ただのでき損ないなんだよ」
「っ、そんなこと」
「あるよ。モノクロ画家、なんて言われてるけど、実際はそうじゃない。俺の世界は黒でも白でもなく、いつも灰色で。それしか描けないだけだから」
淡々と言葉を紡ぐ先輩は、不思議なほど落ち着き払っているように見えた。
悲しい話なのに、こちらにまったくそう感じさせない。それはきっと、先輩自身がその悲しさを自覚していないからだ、と私はひそやかに息を呑む。
「でもね、俺はこの灰色の世界、わりと嫌いじゃないんだ」
自分の前髪をちょんと指先で摘んで、ユイ先輩は肩をすくめた。
「この髪も、本当はずっとこの色にしたかった。俺の見えている世界に、俺自身が浮かないように。まあ、中学のときは頭髪制限があって染められなかったんだけど」
そのとき、ちらりと視界に飛び込んできたチョウチンアンコウ。ぎょろりとした目と視線がかち合って、思わずビクッとしてしまう。
私と手を繋ぎながらも一歩ほど前を歩く先輩には、幸いにも気づかれていないようだった。美しい緩急を描く横顔からは、むしろなんの感情も読み取れない。
「実際、そうして廻る世界が俺には嵌まるんだと思う。俺が画家として評価されるようになったのって、皮肉にもモノクロの世界を描き始めてからだし」
「っ……」
「それまでは、少し上手い程度で誰からも意識されなかったのに。本当、この世って結構むごいよね。ときどき、馬鹿らしく思えるよ」
脳裏に、一枚の絵が過ぎる。
それは何度も何度も繰り返し目に焼き付けた、私にとって特別な絵。
けれど、その絵を描いた本人は、きっと私が今どんな思いでユイ先輩の言葉を聞いているのか考えもしないのだろうな、と思う。
「だから、正直、今の俺の立場って複雑で。死んだ母からの贈り物だと思うべきか、一種の呪いだと思うべきか、当時はわりと悩んでたはずなんだけどね。答えが見つからないうちに、なんかどうでもよくなっちゃった」
「……両極端、ですね。贈り物と呪いなんて」
ユイ先輩にとっては、他人から評価されることも、さして重要ではないのだろう。
それは私がこの一年半の間、時間が許す限り、先輩の隣で絵を描き続けて感じたことだった。先輩は、第三者の目なんて意にも介していないのだ。
コンクールで金賞を受賞することにこだわってきた私とは、根本的に違う。
「……でも、やっぱり、ユイ先輩はすごいです。本当に、いつだって絵に対して真摯で。だからこそ、先輩の絵はあんなにも綺麗で確立されているんでしょうね」
おそらくユイ先輩は、金賞自体になんの価値も見出していない。先生から促されて出していただけで、そこで結果を残そうとは、はなから望んでいなかった。
それゆえに、私は、いつまでもユイ先輩に追いつけない。
そしてきっと一生、同じ世界を見ることは叶わない。
どれだけ恋焦がれようとも、欲にまみれた私は、彼の隣には並べない。
「君も絵を描く人だから、わかると思うけど。俺たちは結局、どんな境地に立たされても、そのとき見えているものしか描けないでしょ」
「……視覚的なことじゃなくて、内的なことですよね?」
「そう。心で見えているものの話」
視覚で捉えたものを写実的に描き起こす画家も、もちろん少なくない。同じ色、同じ形を辿り、それを写真のように残す。無論それも幾多ある描き方のひとつだ。
けれど、たとえ同じ対象を描いていても、まったく表現が異なる場合がある。水彩画や鉛筆画、という区分の問題ではなく、そもそも描かれているものが違う場合だ。
それは決して、捏造や妄想という言葉で片付けられるものではない。
本当にそう見えているのだ。心の目で写し取ったものを描いているだけの話。そこに差異が生まれるのは当然で、むしろだからこそ『画家』という。
「だから俺は、鉛筆画を描いてる。見えてるものを、ただ描いてるだけなんだ」
「っ……もしかして本当は、色彩画を描きたいんですか?」
「どうだろう。わからない。でも、見えているものは描きたいと思うよ」
後半は少し意味深につぶやいてから、ユイ先輩はこちらを振り返った。
いつの間にか深海魚エリアが終わり、次のエリアへ移っていた。わずかに明るさを取り戻した館内は、しっとりとした閑散さを孕んで、静かに私たちを包みこむ。
「まあこの水族館と一緒で、鑑賞側には正直こっちの心情なんて関係ないからさ。人の目に触れるコンクールとかに限っては、たんに学生の鉛筆画が珍しいっていうのもあるんだよ。技術的な面の評価はあるかもしれないけどね」
「そんなこと……っ、そんなことないです!」
思わず私は声を張り上げていた。
拒絶するようにユイ先輩の手を離して、胸の前でぎゅうっと強く握る。爪が手のひらを裂きそうなくらい食い込むけれど、痛みは感じない。
痛いのは、心だ。
痛覚が完全になくなりかけていることを忘れてしまいそうなくらい、痛い。
「色があろうがなかろうが、関係ありません。ユイ先輩の絵はそれ以上の……なんというか、上手く言えないけどっ、先輩にしか表せない世界があるんですよ」
写真でもなく、自らの手で描き残すことにこだわるのは、その世界を自分しか描き出すことができないから。世界中、他の誰にも真似ができないものだからだ。
「……俺にしか、表せない?」
「そうです。先輩の世界は──あの、泡沫みたいな。この世のなによりも澄んでいて、まるで浄化されるような美しさを孕んでいるのに、なぜか消えてしまいそうで目が離せない。そんな世界なんです」
初めてユイ先輩の絵を見たときに受けたあの衝撃は、忘れられない。
この世のすべてを涙で飲み込んでしまいそうなくらい、それは悲しさで溢れていた。
にもかかわらず、あんなにも淡く儚く美しく生きている色のない絵を、私は見たことがなかった。惹き込まれて、囚われて、叶いようのない夢を与えられた。
「贈り物でも呪いでも、色があってもなくても、ユイ先輩が見えているものなら、それがすべてなんです。先輩の絵ならなんでも好きな私の前で、そんなこと言わないでください。先輩の絵は、珍しいとか技術とかで片付けられるほど、安くない」
ユイ先輩を初めて見たときも、同じ衝撃を受けたのだ。
ああ、あの絵は、この人そのものなんだと。
「っ……」
ユイ先輩がわかりやすく狼狽えた。夜色の瞳で私をじっと見つめたまま、しかし言葉が見つからないのか、口を開けては閉めを繰り返す。
やがて喉の奥から絞り出すように零れ落ちたのは、また予想を反した言葉だった。
「本当、小鳥遊さんて……なんか真っ直ぐ、だよね」
「え?」
「それがすごく、眩しい。だから、いつも君の周りだけは──」
先輩は途中で口を噤んだ。
ゆらゆらと視線を彷徨わせたかと思えば、おずおずと私の手を取っておもむろに歩き出す。明らかに様子がおかしい。
「せ、先輩?」
「……あ、あまり遅くなってもいけないから。次、行こう」
──今、なんて言おうとしたんだろう。
私の周りは、私は、ユイ先輩にどう見えているんだろう。
忙しなく音を鳴らす心臓がやっぱり痛い。
この痛みがなにから来る痛みなのか、私にはどうしても図りかねてしまう。
けれど今は、不思議と追及したいとは思えなかった。
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