第4章 「臆病だね、君は」1話


 なんとか無事に定期テストを終え、雪崩れ込むように夏休みへ突入した七月末。

 気温三十六度。相変わらず身をこんがりと焼き尽くすような暑さではあるものの、風があるぶん、いくらかはマシだと思えるような晴天の日。


 ──ユイ先輩との約束の日だ。

 薄青の空には、スポンジを叩いたような霞んだ雲がまばらに広がっている。

 絵として表現しやすくはありそうだけど、もう少し情緒的な写実さがほしいな、と生粋の絵描き脳が訴える。

 外を歩いていると、どうしても絵のことばかり考えてしまうのは悪い癖だ。

 先輩と待ち合わせをした学校の最寄り駅へ向かう最中、うーんと頭を悩ませていた私を横目で見ながら、隣を歩く愁が「姉ちゃんさあ」とぼそぼそ口を開く。


「本当に大丈夫なの」


「もー、大丈夫だって。朝からそれ八回目だよ、愁」


 同じく夏休み期間中の愁は、私がユイ先輩と出かけると知ると、わざわざ早起きして駅まで送りに来てくれた。

 それは素直にありがたいとして、この仏頂面はどうしたものか。

 おおかた、私と先輩がこうして時間を共にするのが気に食わないのだろうけれど。


「今日で最後だからね」


「え?」


「私が先輩を追いかけるの。今日で全部おしまいだから、今日だけは許して」


 はっきりとそう告げると、思いのほか愁は動揺したように目を泳がせた。


「……おれ、は」


「あっ、せんぱーい!」


 そのとき、待ち合わせ場所にすでにユイ先輩が立っているのに気づいた。

 私は思わず大きく手を振って、先輩を呼ぶ。

 あたりをきょろきょろと見回してこちらに気づいた先輩は、一瞬だけ目をゆっくりと瞬かせてから歩いてくる。愁も一緒だったことに驚いたのかもしれない。


「……おはよ、小鳥遊さん。弟くんも」


「おはようございます、ユイ先輩」


 無地の白Tシャツに黒のサマージャケット。下は黒のスキニーパンツというシンプルな服装をしているユイ先輩。学校でも基本的に黒のベストを着用しているし、やはり私服も一貫してモノクロコーデらしい。

 ふたつしか色味がないのに、ユイ先輩が着るとただのオシャレ上級者だ。

 顔か、スタイルか。いや、どちらもか。

 好きな人の私服を見れたことにドキドキしながら、私は口を開く。


「愁、心配して送ってくれたんです。ほら、ご挨拶」


「…………おはよう、ございます」


 むううう、と心の声が聞こえてきそうなほど、愁の顔に暗雲が広がっていく。けれど、一応返してくれたことにほっとして、私は宥めるように愁の頭を撫でた。


「見送りありがとうね」


「っ、軽率に撫でるなよ。おれだって、もう子どもじゃないんだから」


「はいはい。じゃあ行ってくる。なにかお土産買ってくるから、楽しみにしててね」


「べつに、いらないし。……帰りも迎えに来るから、ちゃんと連絡してよ」


 素直なのか素直じゃないのかわからないな、と私は苦笑する。

 姉バカとしては、こういうところも可愛いとしか思えないから困ったものだ。


「あと、あんた」


「……ん? 俺?」


「そうだよ。あんた……えっと、春永、先輩。一緒に出掛けるんだから、責任持って姉ちゃんのこと見ててよ。一瞬でも目ぇ離したら、なにするかわかんないからな」


 ん!? と私は仰天しながら愁を凝視する。

 今、サラッととんでもない子ども扱いをされた気がした。

 よりにもよって、三つ下の弟に。

 いつにも増して真面目な顔で深くうなずいている先輩も先輩だけれど、私だって一応もう高校二年生だ。手を繋いでいないと危ない小さな子どもではない。


「あと、あんまり連れ回すなよ。姉ちゃん体力ないし、すぐバテるからな」


「わかった」


「ちょ、っとストップ! 過保護すぎだよ、愁!」


 私を心配してのことだろうが、さすがにこれは居心地が悪い。

 今回誘ったのは私の方だし、必要以上に気を遣わせたくはないのに。


「だいたい今日は、絵を描きに行くわけで、べつに動き回るわけじゃ……」


「ああ、ごめん。今日は絵は描かないよ」


「えっ」


 さらりと否定してきた先輩。

 どういうことだ。話が違う。と、混乱しながら視線を遣れば、ユイ先輩はなんてことないように朗らかな──わずかにそうとわかるほどの微笑を浮かべて告げた。


「今日は、絵を描くための素材を見に行く」


「そざい?」


「ええと……対象、の方がいいかな。今日見たものを夏休み中に描くんだ。美術部の活動の一環としてね」


 つまり、夏休み中の課題ということだろうか。


「ち、ちなみに、どこへ?」


「水族館」


「水族館!?」


 またしても、思いもよらない返答だった。

 ポカンとする私に、隣の愁がどういうことだと言わんばかりの視線を向けてくる。

 知らない。私の方が聞きたい。本当に、どういうことなんだろう。

 立ち尽くす私の手を、まるで当然のように取ったユイ先輩は、細身の腕時計で時刻を確認する。それもやはり銀製のもので、改めて先輩のこだわりが窺い知れた。


「二駅だからそこまで遠くないし、駅と水族館も直通してる。館内をのんびり見て回るくらいなら、問題ないよね……?」


「……まあ……」


「よかった。ちゃんと手は繋いでおくから、安心して」


 いやいやいやいや、と内心大パニックになっている私を差し置いて、愁は苦々しい顔をしながらも首肯した。そこで納得するのはおかしいのではないだろうか。


「せ、せんぱ……手、手は、大丈夫ですから!」


「なんで」


「なんで!?」


「嫌?」


 さすがに狼狽えて、金魚のように口をパクパクさせてしまう。

 そんなわけがない。嫌なわけがない。

 好きな人と手を繋げるなんて美味しい状況、いっそ土下座してでも続けたい。それほど夢にまで見たし、本心のところでは拝んででも甘えてしまいたいと思う。


「嫌じゃないなら、このまま繋がせて。俺はわりと……その、結構ぼーっとするときがあるでしょ。こうして手を繋いでいた方が、君を見失わなくて安心する」


 ああ……と、なんとも納得してしまう理由だった。

 たしかにユイ先輩は、とりわけ絵が関することになると、意識が四方八方に散在しがちになる。むしろ自覚があったという方が驚きだ。


「まあ、なんかいろいろ不服ではあるけど、そっちのが安心ならそうすれば」


「しゅ、愁」


「ほら早く行きなよ。おれは本屋寄って帰るからさ」


 じゃあね、とひらひら手を振って、自分の役目は終えたとばかりに元来た道を戻っていく愁。

 あんなに不機嫌そうだったくせに引き際は弁えているあたり、まったくもって中学生らしくない。行かないでと泣き喚いてくれた方が安心するくらいだ。


「優しい弟くんだね」


「え、あ、はい。本当、私の弟とは思えないほどいい子なんですよ」


「君の弟だから、いい子なんでしょ」


 え、と聞き返す間もなく、ユイ先輩が私と手を繋いだまま駅に向かって歩き出す。

 引かれて踏み出した足のまま、私はおずおずとその横顔を見上げた。


 シミひとつない陶器のように綺麗な肌。けれど、左の目元に小さく置かれた黒子がどこか色っぽさを醸し出している。影を落とすほどの長い睫毛も、薄い唇も、癖のない銀色の髪も、筆舌に尽くしがたいほど魅力に溢れていた。


 この人を描いたらどんなに楽しいだろう、と血が騒ぐ。

 いったいどう趣向を凝らしたら、私の世界に映る先輩を表現できるのか。

 正直、この見たままの姿を、一枚の写真のように描き起こすことは容易い。

 でも、それではだめなのだと本能が言っている。

 足りないのだ。なにかが、決定的に。私はずっと、そのなにかがわからない。


「具合が悪くなったりしたら、すぐに言って。我慢とかしないでいいから」


「は、はい」


 本当のところ、ユイ先輩はどこまで知っているのだろうと考える。

 あれほど派手に倒れて、病院まで付き添ってくれたのだ。先生から直接話を聞いていないにしても、なにかしらは耳にしてしまっている可能性の方が高い。

 それでもなおこうして一緒に出かけてくれているのなら、少なくとも今の時点で私と距離を置こうとは思っていないと考えてもいいだろうか。

 なら、と、私はひとり顔を綻ばせた。


 ──どうせなら、最後を満喫しよう、と。


 ユイ先輩と、好きな人とふたりきりで出掛けられるなんて、滅多にないチャンスなのだから。


「先輩、今日楽しみましょうね」


「ん」


 なぜか少し照れたようにうなずいたユイ先輩に、くすりと笑う。

 先輩の隣に並びながら、ふと、まるで夢のなかみたいだなと思いながら。

 だって、こうして手を繋いで歩いていると、まるで本当のカップルみたいだ。

 けれど、今日が終わってしまえば、きっと夢は覚めるのだろう。

 ならば覚める前に、この非現実的な一日を心ゆくまで謳歌しなくては。


「足元、気をつけて」


「はい。先輩もですよ。ぼーっとしてたら、転んじゃいますからね」


「さすがに君の前では転ばないよ。俺、かっこよくいたいから」


 えー、なんて。先輩はいつでもカッコいいですよ、なんて。

 いつも通り他愛もない話をしながら、私たちは水族館行きの電車へ乗り込んだ。


 ──まだ、確信には触れないままで。


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