第3章 3話
◇
そうして翌日、私は退院した。
しかし、さすがに三日間は自宅療養で様子を見るように指示され、私はしぶしぶ家でテスト勉強に勤しむ羽目になった。
七月の下旬。
今年の夏は梅雨が短かったこともあり、湿気が少ない。風が爽やかに感じられるくらいカラリとした暑さで、体力減退中の私には幾分か過ごしやすい気候だった。
体調は、とりわけよくも悪くもない。
以前と変わったことといえば、体重は減っているはずなのに、体が重く感じられるようになったこと。それから、眠りがより深くなったくらいだ。
深く、深く、誰も到達したことがないような海底に沈んでいくように眠る。
きっとこうして水底に着いたとき、私は死ぬんだろうなと毎朝起きる度に考える。
眠っている間は夢もいっさい見ることなく熟睡しているから、不快感はない。
むしろ不思議なくらい心地がよくて、いっそこのまま眠ったままでもいっか、と思ってしまったりもする。
けれど、いざ目覚めたとき、生きていることを実感するとホッとしてしまうのだ。
そんな不安定さを、私は誰にも見せないようにしてきた。
家族にも、もちろん友だちや、ユイ先輩にも。
「やっほー、鈴。意外と元気そうじゃん?」
「よかったぁ。救急車で運ばれたって聞いたときは心臓止まるかと思ったよ」
自宅療養三日目。
夕間暮れになって家にやってきたのは、円香とかえちんだった。学校帰りで制服姿のふたりは、もう勝手知ったる様子で私の部屋に入ってくる。
「へへ、ごめんごめん。私も自分でびっくりしたよ」
部屋の中心に置いているテーブルを囲んで、三人で座った。
試験前のため、美術部は元より、円香の所属する料理部やかなちんのバレー部も休止期間に入っている。普段はなかなか学校以外で会う時間を作れないから、この機に三人で集まって試験勉強をしようという話になったのだ。
「ここ二日の授業ノートも持ってきたからね。わたしが文系科目、楓ちゃんが理系科目って分担して取っておいたんだ」
「選択授業だけは三人ともバラバラだから、ちょっとわかんないけどね」
「うわ、ふたりともホントありがと。わざわざごめんね」
ふたりとも高校からの友だちだ。高一のときにたまたま同じクラスになって、席が近かったことから一緒にいるようになった。
円香は見た目通りの、大人しくてほんわかとした女の子。
お菓子作りの腕前は一級品で、実家は洋菓子屋を営んでいるらしい。
かえちんはとにかくスポーツ万能で、バレー部のエースだったりする。
そんな彼女たちに私の病気のことを打ち明けたのは、去年の秋頃だった。
「なんか思い出すよねぇ。ふたりの前で倒れて救急車で運ばれたときのこと」
「笑いごとじゃないよ! あのときは、ほんっとにびっくりしたんだから!」
「んねー。まあでも、あれがあったから、あたしたちは鈴の病気を知ることができたわけだし。今となってはよかったなって思うよ。その場に居合わせてて」
かえちんの飾らない素直な言葉に、私は思わずくすりと笑った。
見た目も中身もボーイッシュな性格のかえちんは、一見冷たい印象を覚えられがちだけれど、意外と優しさの塊だったりする。
そんなツンデレなところが私と円香のつぼに入り、ここまで仲良くなった。
なんというか、バランスがいいのだ。私たちは。
「……私も、ふたりに話せてよかったって思ってるよ」
発病してから高校に入学するまで、私は病気のことをひた隠しにし続けてきた。
もちろん学校の先生は知っていたし、相応の配慮はしてもらっていたけれど、中学の頃はそれを知られるのがひどく怖かった記憶がある。
多感な時期だから、というのもあるだろう。
なんとなく、自分が異質な存在として扱われるのが我慢ならなかった。
知られてしまったら、友だちがいなくなるんじゃないか。腫れ物のように扱われるんじゃないか。そんな恐怖が、いつも心のどこかを巣食っていた。
でも、実際にこうして打ち明けてしまえば、なんとも気楽なものだった。
もちろん相手がふたりだから、というのもある。このふたりなら話しても大丈夫だと思うことができたから、私は病気のことを包み隠さず打ち明けた。
きっと傷になってしまうだろうと、そういう躊躇は、いまだにあるけれど。
一方で、今は変に隠してしまう方がふたりを傷つけるとわかっている。
だから、ちゃんと話さなければならない。今の状態も、これからのことも。
ふたりはきっと、気にしているだろうから。
「──あのね、円香、かえちん」
私は広げていたノートの上にシャーペンを置いて、ゆっくりと切り出した。
試験勉強の準備をしていたふたりも、その神妙な空気を察したのか、手を止めて聞く体勢を取ってくれる。
ほんの少し顔が強張っているものの、聞かないという選択肢はないようだった。
「私、八月からまた入院するんだけど」
「検査のだよね? 前に言ってた……」
「うん、そう。でもたぶん、もう戻ってこられないと思うんだ」
ふたりがひゅっと息を詰めた。
心なしか青褪めながら、円香が胸の前で手を組んで俯く。
「退院できないってこと?」
「うん。先生に言われたんだ。……このまま病状が進行すれば、年は越せないかもしれないって。きっとそうだろうなって私も思ってたし、覚悟はしてたんだけどね」
「っ……!」
円香が瞬く間に眦に涙を溜めて、両手で口を覆った。
かえちんも聞いていられないといわんばかりに顔を背ける。
そんなふたりに曖昧な笑みを向けながら、私はそっと睫毛を伏せた。
「それに、さすがにもう私のわがままは終わりにしなきゃなとも思ったの」
「……わがまま?」
「ぎりぎりまで入院はせずに、学校に通わせてほしいっていうわがまま」
本当なら、高校も行かないはずだった。枯桜病を抱えた体で、他のみんなと同じように学校生活を送るのは、絶対的にリスクが高すぎるから。
それでも、先生や家族の反対を押し切ってまで、私が進学を決意したのは。
「──私ね。どうしても、ユイ先輩に会いたかったの」
──二年前。
中学三年生のときの絵画コンクールで、私は一度だけ金賞を獲ったことがある。
けれどもそれは、いつも私の上に太陽のごとく咲いていたユイ先輩が、中学を卒業して高校部門へ移ったからという明確な理由があってのことだった。
高校部門でも変わらず金賞を受賞したユイ先輩の作品を見て、私は心の底から敵わないと思ってしまった。もしも例年通り同じ部門に応募されていたら、自分は間違いなく銀賞だと確信できるほど、私とユイ先輩の間には形容しがたい差があった。
……目標だった金賞を得ても満足できなかったのは、私が金賞を目指していたわけではなく、ユイ先輩を越えることを念頭に置いていたからで。
とても、わがままだなあ、とは思う。
贅沢な望みだと。
それでも私は、先輩が見ているあの世界を見てみたかった。
だから、どれだけ滑稽でも、がむしゃらに追いかけていた。ずっとずっと、ユイ先輩の背中だけをひたすらに追い続けて生きてきた。
恋焦がれるほど憧れた彼と同じ立場で、同じ世界を共有してみたかった。
その先に、なにがあるのかなんて予想もできないけれど。
──そして私はその年、展示会場でひときわ目立つ人を見つけたのだ。
明らかに異質だった。
会場にいるくせにまったく展示絵に興味を示さず、壁に背を預けて、ただただ眠そうに舟をこいでいる男の人。
そこだけ空間が切り取られているような、独特な空気感。精巧な人形を彷彿とさせる彼の容姿を見た私は、すぐに彼が『春永結生』だと気づいて。
その月明りのような銀髪に、一瞬で目を奪われた。
前にテレビ局のインタビューで見たときは普通の黒髪だったはずなのに、という疑問よりも、そんな奇抜な髪色が彼らしいと感じたことに拍子抜けした。
銀。ともすれば、灰。黒と白の中間色。
鉛筆画家。否、モノクロ画家そのものだと感じた。
ああ、この人自身もついに染まってしまったんだと。あの色のない世界に生きているんだと。なんだかとても、寂しく思った。
「憧れの先輩がびっくりするほど近くにいたっていう幸運もあるけどね。私的には運命なんじゃないかって思うほど衝撃で、行かないっていう選択肢がなかったんだ」
たぶんあのとき、ユイ先輩へ抱く気持ちが塗り変わったのだ。
いつかこの人を越えたいという憧れや尊敬から、この人に近づきたいという好きの気持ちへ。一目惚れ、と言ってもいいかもしれない。
それだけ、ユイ先輩は強烈に私を惹き寄せた。
いつも絵だけを見てきた自分を後悔するくらい、強く、強く。
ただただ死を待つばかりだった私に、希望を芽生えさせてくれたのは──高校に行きたいと思わせてくれたのは、他でもないユイ先輩だった。
「本当にね、進学したのは正解だった。いいことばっかだったもん。本来の目的である先輩に会えたのももちろんだけど、ふたりとも仲良くなれたし」
家族を巻き込み、わざわざ月ヶ丘高校の近くに引っ越してまで叶えたわがままは、それだけの価値があるものだった。
「……鈴ちゃん……」
「っ、なんでそんなお別れみたいなこと言うのさ!」
かえちんは堪らないというように身を乗り出してくる。
むぎゅ、と顔を両手で包まれた。口がタコのように尖るのを感じながら、私は上目遣いでかえちんを見上げる。
深い皺が刻み込まれた眉、震える唇、濡れた瞳。
「あたしはずっと、この先もずっと鈴の友だちで、親友なんだから! 学校に来れなくなるくらいで終わるような関係じゃないんだからね!」
「か、かえちん……」
「そうだよ、鈴ちゃん。入院しててもわたしたち鈴ちゃんに会いに行くし、今日みたいに一緒に勉強会とかもしよう? 大丈夫、なにも変わらないよ」
「円香も……なんれそんらこと言っへふれるの」
口が潰されているせいで、上手く発音ができない。
そんな私にふたりは思わず、といったようにぷっと吹き出しながら、それでも隠しきれず涙を溜めて、両側から私をぎゅっと抱きしめてくる。
「鈴ちゃんが大好きだからに決まってるよ」
「どんな病気だろうが鈴は鈴じゃん。突き放そうとしないでよ、お願いだからさ」
「っ……ふたりとも……」
無性に、泣きたくなった。というか泣いていた。
ふたりの涙につられて、頬に数粒、まるで朝露みたいに雫が伝う。
心配をかけるから、なるべく泣かないようにしてきたのに。
どうも最近は、泣いてばっかりだ。
「ありがとう……私も、大好きだよ」
──私には、傷つかずに死を迎える方法なんてわからない。
残していく側も、残されていく側も、きっとすごくつらい思いをする。
深い深い、一生拭いきれない傷を刻むことになる。
人の死、とはそういうものだ。
だけど、どんなに傷ついても、今この瞬間がなかったことになるのは嫌だった。
私のわがままを貫き通してまで通った学校で、こうして大好きだと言えるふたりと出会えたことは、きっと私にとっての宝物のひとつだから。
それを、後悔なんて、したくなかった。
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