第3章 2話
◇
ピコン、ピコン。
規則正しく鳴り続ける音に引き寄せられて目が覚めた。深い海の底から浮き上がった意識は、しばらく水面をゆらゆらと揺蕩ってから、ようやく光を浴びる。
「……小鳥遊さん?」
なによりも先に視界に映りこんだのは、銀。
ゆっくりと睫毛を伏せて、ふたたび開けてみる。そうして幻覚でないことを確認した私は、ひどく不思議な気持ちで、まだ痺れの後味を引きずる唇を動かす。
「……せん、ぱい?」
「うん。目、覚めたんだ。よかった」
「ここは……」
「病院だよ。君、学校で倒れて救急車で運ばれたの。そこまで時間は経ってないけど」
病院。倒れた。救急車。
ひとつひとつの単語をたっぷりと咀嚼し、やがて私は顔を青褪めさせた。なによりもここに、病院にユイ先輩がいるという事実が、私を動揺させる。
「あ、の……先輩……」
「さっきご両親が来られてね。今、先生と話してるよ。弟くんは……その、結構取り乱してて。でも、たぶん廊下にいるから、呼んでこようか」
「っ、待って、ください」
どうしてなにも聞かないのか。もう知ってしまったのか。尋ねたいことはたくさんあるのに、上手く声が出てこない。言葉もなにもかも、不安に押し流されそうだ。
すると先輩は、そんな私を落ち着かせるように頭をそっと撫でてくる。
「いいよ、言わなくて」
「っ、え……?」
「君が言いたくないなら、聞かない。君が俺に話したいって思ったときでいい」
「なん、で……」
「ああ、勘違いしないで。どうでもいいからじゃない。君が大切だから、泣いてほしくないから、そう言ってるだけ」
ユイ先輩が慈しむような優しさを孕んで、私の目尻を指先で拭う。
そこでやっと、自分が泣いているのだと気づいた。
「でも、これだけは言っておく。俺はね、小鳥遊さん。今こうして、君のそばにいれてよかったって、心の底から思ってるよ」
ユイ先輩の瞳の色は、相変わらず静かな夜の空のようで。けれど、そのなかには言い表しようのない切なさが滲んでおり、私は返す言葉を失ってしまう。
ユイ先輩の方が、泣きそうだ。
胸の奥深くを引っかかれたような痛みを覚えながら、くしゃりと顔を歪める。
こんな顔をさせたくないから、今まで黙っていたのに。
ああもう、本当に、私はいったい、なにをやっているんだろう。
「じゃあ、弟くん呼んでくるから」
「っ……は、い」
最後に小さく微笑んだユイ先輩は、そのまま静かに病室を出ていった。
ひとり残された私は、腕から伸びる点滴の管を見る。見慣れた光景のはずなのに、今すぐ引き抜きたい衝動に襲われた。嫌だ。こんなものがあるから、私は──。
「……っ」
こんなはずじゃなかった、なんて後悔したところで無意味だとわかっている。わかってはいるけれど、まだ、先輩の前ではただただ弱い私の姿を見せたくはなかった。
──私に残された時間は、もう、そう長くはない。
自分でそれが嫌というほど感じられるからこそ、どうしようもなく胸が痛かった。
泣きたくもないのに、涙が溢れ出してくる。
ああ、嫌だ。私は、死にたくない。
死にたくないのに。
「……っ、姉ちゃん!」
病室に飛び込んできた愁は、泣いている私を見て悲鳴じみた声を上げた。派手に足を縺れさせて、あやうく転びかけながら、ベッドに縋りついてくる。
「どうしたの、まだ、どっか痛いんじゃ……っ」
「ちが、ちがうの。ごめんね、愁」
弟は、私よりもよっぽど泣き腫らした目をしていた。
不意に小さい頃のことを思いだした。
いつ、どんなときも、私の後を追いかけてきていた愁。自分が一緒に行けないとわかると、こんなふうに目と鼻が真っ赤になるまで泣いていた。
いつまでも小さいままだと思っていた弟が、あっという間に私を追い越して、知らぬ間に大人になってゆく。それをずっと、寂しく感じていた。
でも、やっぱり、愁は愁だ。
どれだけ身体が大人になっても、たったひとりの弟であることに変わりはない。
「痛くない。平気だよ、愁」
そもそも私は、もうほぼ『痛覚』がなくなっている。どれだけ苦しくとも、そこに痛みは感じない。それをあえて伝えることはしないけれど。
「で、でも……っ」
「心配かけてごめんね。大丈夫、お姉ちゃんはちゃんと生きてるよ」
自分の涙を拭ってから、安心させるように愁に微笑みかける。その瞬間、愁は濡れそぼった瞳から、ふたたび大粒の涙を溢れさせた。
そんな愁を撫でたくても、肝心な体が起き上がらない。
まるで重力が倍になったみたいだ。
泣いている弟の涙も掬ってやれないなんて──なんて、情けないんだろう。
やりきれない思いを奥歯でぐっと噛みしめたそのとき、ノックと同時に病室の扉が開いた。
「鈴ちゃん」
入ってきたのは、発病以来ずっとお世話になっている、主治医の伊藤先生だった。
まだ三十代という若さで枯桜病の研究の第一線に携わっている研究者であり、聞いた話、この界隈ではとても名の知れている人らしい。
伊藤先生は泣いている愁に驚いたような顔をしながらも、素早く目で心電図を確認しながら「びっくりしたねえ」と存外のんびりとした声をかけてくる。
「せん、せい……」
「うん。どこか気になる不調とかある?」
私は首を横に振る。
体が重いことくらい、先生もわかっているだろうと思ったから。
「そう、よかった」
先生は安堵したようにうなずき、神妙な面持ちでベッドの傍らにしゃがみこんだ。
「……あのね、ちょっと鈴ちゃんの心臓、動きが悪くなってるみたいなの」
隣で立ったまま泣き続ける愁の腰に手を添えているあたり、とても優しい。
伊藤先生は、なによりも患者のことを第一に考えて、なるべくこちらの要望に沿う治療をしてくれる人だ。こうしてベッドから起き上がれない私に視線を合わせるのも、医者としての威圧を与えないためだと前に言っていた。
私が学校に通えているのも、間違いなく先生のおかげだった。
そんな先生だから、冗談を言ったりする人ではないと私もわかっている。
「このあいだ検査したときは、目立つ異常は見られなかったんだけどね。ただ少し、進行が早まってるのかな。心臓の血液の循環が悪くて、いわゆる不整脈を起こしちゃったのよ」
「……不整脈……」
「もう落ち着いてるけど、今日はこのまま入院してもらうね。今後のことはまたゆっくり考えていこうか。ちょうど来月検査期間だったし、ほんの少し予定を早めて──」
「ま、待って、先生」
話の雲行きが怪しくなってきて、私は申し訳ないと思いながらも口を挟む。
「予定は早めないでください。夏休みに入ってからで大丈夫です。来週には定期テストがあるし、それに」
まだ、ユイ先輩にもきちんと話せていないのだ。
なんとなく、わかる。
きっと次に入院したら、私はもう退院できなくなるだろう。この五年間、入退院を繰り返してきた感覚的にも、先生の態度を見ても、ほぼ確実に。
「……でもねえ、鈴ちゃん。あなたの体は……」
「お願い、先生。どちらにしても治らないなら、私は最期まで悔いなく生きたいの」
主治医としての気持ちも、理解はできる。
いつどうなるかわからない患者を、なるべく外に出したくない気持ちは。
たとえ治らなくとも、病院にいれば延命治療ができる。なにかあったときはすぐに処置できるし、今日のように突然の体の変化にも対応が可能だ。
少しでも長く生きたいと願うのなら、今すぐにでも入院して、命を引き延ばすための治療に専念するのが最適解なのだろう。
けれど、それでも、嫌だった。
ここに──病院にいると、ひどく孤独を感じるのだ。
生きているのに生きていない。
毎日が、日々が、まるで年季を帯びた紙のように黄色く色褪せていく。
そういう場所だと、私はもう嫌というほど知っている。
「先生。もう少しだけでいいんです。八月からにしてください」
「……わかったわ。じゃあ予定通り八月からにする。でも、もしそれまでにまた今回みたいなことがあったら、そのときは折れないからね」
「っ、はい。ありがとう、先生!」
仕方なさそうに、けれどしっかりと了承してくれた先生は、かたわらでしゃくりあげている愁の頭を撫でた。この構図も、初めて見る光景ではない。
「愁くんもびっくりしたよね。でも、本当にひとりのときじゃなくてよかったよ。あのすごく綺麗な彼も……」
ふと思い出したように、ちらりと私を見て、先生がいたずらに口角を上げる。
「彼、例の子でしょう。鈴ちゃんの好きな子」
「っ……う、バレた」
「小学生のときから熱く聞かされてきた鈴ちゃん憧れの彼と、まさか会えるなんて思ってなかったわ。予想以上にイケメンでびっくりしちゃった」
さきほどの神妙さはどこへやら、隅に置けないわね、と私をくいくい小突く先生。
五年もの付き合いにもなれば、主治医とはいえ友だちのような親しさだ。
私が属しているのが小児科だというのもあるだろうけど、こういう話題は伊藤先生に限らず看護師さんたちも大好きだった。
聞かされてきた、ではなく、聞き出されてきたの方が正しい。
「せ、先輩のことはいいですから……!」
「ふふっ初心ねえ、鈴ちゃん。じゃあ先生、さっきのことも含めてもう少しご両親とお話してくるから。なにかあったらナースコール押してね」
「は、はあい」
伊藤先生が出ていった後、入れ違いにユイ先輩が戻ってくる。
「あ、先輩……」
「話、終わったみたいだから。……でもまだ、入ってこない方がよかったね」
どうやら気を遣って外にいてくれたらしい。
ユイ先輩は相変わらず泣き続けている愁を見て、しゅんと眉尻を垂らした。どう接するべきか悩んでいるようだけれど、そんな様子を見せる先輩もまた珍しい。
「ごめ……ごめん、姉ちゃん……っ」
「え?」
突然謝り始めた弟に狼狽えて、私はおろおろと愁へ手を伸ばす。
それに応えるようにしゃがみこんだ愁は、そのままベッドに顔を埋める。その肩は、いっそ気の毒なくらいに震えていた。小さい頃と変わらない、とまたも思う。
私と同じ色の髪を梳くと、愁はなおのこと強い嗚咽を漏らした。
「お、おれが、おれが姉ちゃんのこと、興奮させたりしたからっ」
「ち、違うよ、愁。なに言ってるの。愁のせいなわけないでしょ」
なんとなくだけれど、覚えている。
私が意識を失う前、頭に血が上った愁が、ユイ先輩へ堪えきれない鬱憤をぶつけていたこと。
たしかに愁は、前々からユイ先輩のことを嫌っていた節があった。
しかしそれはあくまで私との会話上で毒づくくらいだったし、そもそも愁と先輩が知り合いなわけでもなかったから、大して気にはしていなくて。
けれど、愁は──取られた、と言っていた。
ユイ先輩が、私を取ったのだと。
その言葉の真意は定かではない。ただ、なんとなく、私の意識がいつも先輩へ向かっていたことに対する不満から来るものなのではないかと、そう思った。
「……ねえ、愁。愁は小さい頃から優しくていい子だから、私のこといつも心配してくれるけど。もっと、わがまま言っていいんだからね」
「っ、え……?」
「たしかに、私にとってユイ先輩は大切な人だよ。生きる指針で、道標で、理由だから。でも、だからって、他のことをどうでもいいなんて思ってないの。とくに家族に関しては、ないがしろにするつもりはないよ」
なんと言葉を紡いだら、この気持ちが嘘偽りなく伝わるのだろう。
言いようのないやるせなさに苛まれながら、私は小さく息を吐いた。
「……きっと私にできることなんて、限られてるんだろうけどね」
私がいなくなった後も、愁やお父さん、お母さんはこの世界で生きていく。
そんな家族に、今の私が残せるものなんて、そう多くはない。
それでも、ばらばらにならないように──ちゃんと家族のまま、みんながこれからも生きていけるように、私はその根っこの部分をしっかり作っておきたいと思う。
どうしたらいいかなんてわからなくても、そう願ってしまう。
「愁は、私になにをしてほしい?」
「っ……おれ、は」
「なんでも聞くし、なんでもするよ。我慢しないでちゃんと言っていいんだよ、愁」
ちがう、ちがう、と愁は幼い子どもがイヤイヤするように首を振る。
「なにかしてほしいわけじゃない。おれは、姉ちゃんがいなくなるのが嫌なんだ」
「……うん」
「おれの姉ちゃんは、姉ちゃんだけなのにっ……勝手に、いなくなるとか、ふざけんなよぉ……っ」
ベッドに顔を押しつけながら、押し殺すように啜り泣く愁の頭を撫でる。
「ごめんね」
痛覚はなくなっても心の痛みだけはなくならないのだな、と。
謝ることしかできなくて、私は軋む胸を押さえながら、ユイ先輩を見た。
うしろで戸惑ったように立ち尽くし、瞳を揺らす先輩。いくら先輩だって、こんな状況に遭遇したことはないだろう。本来はここにいるはずのない人なのだから。
人の生死に対面する。そんなときに上手い言葉をかけられる人なんていない。それが身近な人間であればなおさら、現実感はますます遠のいてしまうものだ。
だからこそ、いつか訪れる別れのときまで、周囲とどう接するのが正解なのか、私はずっとわからずにいる。
「──先輩。定期テストが終わって夏休みに入ったらすぐ、絵を描きに行きませんか」
「……っ、え?」
「どこでもいいんです。ふたりで、課外活動をしませんか」
しっとりとした夜空の瞳を向けながら、ユイ先輩が唇を引き結んだ。
見つめ合う静寂が、なんだか初めて先輩と出会った日に似ているような気がした。
私に『誰?』と言ったときの先輩は、今と同じような顔をしていた。
困惑。衝撃。戸惑い。
そんないくつもの感情が綯い交ぜになった、私が描く水彩画のような色。
ああ描きたい、と。あのとき私は、強く、強く思った。だからなのか、不思議とあの日のことは忘れない。いつだって鮮明に脳裏に浮かんでくる。
「課外活動、ね」
ほんの数秒が何分、何十分の感覚で。やがてゆっくりとうなずいたユイ先輩は、絵を描いているときと同じ瞳の色をしていた。
「……いいよ。でも、場所は俺が決めていい?」
「はい、ありがとうございます。ふふ、楽しみだなあ」
──本当は、ずっと言わずにいたかった。
苦しみも悲しみもつらさも、現実の非道さも、なにもかも、いつもの笑顔の裏に隠したままでいたかった。
追いかけ続けてきた私の夢が、儚くも桜のように散っていったように。
それでも、きっと優しい先輩は、暗れ惑う私に言うのだろう。
たとえ自分の感情を押し殺しても、大丈夫だ、と。
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