第3章 「いいよ、言わなくて」1話
目を覚ましたとき、真っ先に視界に飛び込んできたのは、白に染まった天井。
既視感と違和感を同時に覚えたのは、そこが病院ではなかったからだ。
知っている消毒液の香りよりも薄い。天井以外に目に映るものも、どこかから聞こえてくる物音も、なにもかも私の知っているものとはズレていた。
自身と隔絶されかけた意識だけ、まだ水のなかにどっぷりと沈んでいるかのようで。
「……私、なにしてたんだっけ……」
ぼんやりとつぶやいた直後、「姉ちゃん」と聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。
あれ、と目線だけであたりを見回して、ようやく感覚がはっきりしてくる。
「愁……?」
まくられたカーテンの間からひょこりと出ていたのは、よく知る弟の顔だった。
「目、覚めたんだ。おはよう」
「お、おはよ、う? 今って、朝なの?」
「いや、夕方だけど」
手伝われながら上体を起こして、ようやくここが保健室だと思い至る。
けれど、なぜここにいるのだろう。
ああ──眠る前の記憶が、ひどく曖昧だ。
まるで深い霧に包まれているように脳内が霞みがかって、上手く思い出せない。
「愁、私のノート……」
「はい。これね」
そう言いだすことがわかっていたのか、すぐさま一冊のノートが差し出される。
ほっとしながら受け取るけれど、次いだ愁の言葉に息が詰まった。
「でもさ。たぶん姉ちゃん、まだ今日のこと記録してないと思うよ。まず体育祭だったってこと、ちゃんと覚えてる?」
「……え?」
体育祭。頭のなかで噛みしめるように反芻して、より困惑する。
「今日は月ヶ丘高校の体育祭で、姉ちゃんは救護室があるテントで見学してた。だけど、午後になって体調崩したみたいでさ。誰だか知らないけど、それに気づいた親切な人が保健室に連れてきてくれたんだって」
「そう、なの?」
「らしいよ、先生から聞いた話だけど」
淡々と説明する愁は、ポスッとベッドの端に腰掛けて肩をすくめる。
「おれは母さんから連絡受けて、迎えに来た」
「わざわざ? ごめん、手間かけさせたね」
「今さらでしょ、そんなん。学校終わってから来たから遅くなったし。ああ、今日は母さん夜勤だからね。迎えに行けなくてごめんって謝ってたよ」
黒い学ランを身に着けている弟の愁は、現在中学二年生だ。私の三つ下。月ヶ丘高校から歩いて十分くらいのところにある、東雲中学校に通っている。
「んま、少しずつ思い出せば大丈夫でしょ」
中学生とは思えない落ち着きと、大人びた雰囲気。
共働きの両親に代わり、いつもこうして私を支えてくれるできた子だ。
けれど、それはきっと、私が病気になったから。
無理にでも大人にならなければならない環境を作ってしまったから、愁はしっかり者に成長するしかなかったのだと思う。
「……うん、ありがと。だいぶ思い出した」
──病気の影響で、私はたまに記憶が飛ぶ。
とくに眠ったあとが顕著だ。
人は眠ると、脳に蓄積された情報が整理されるという。
私の場合はそれが上手く定着しないのか、前後の記憶の曖昧さに加え、細かい内容を思い出せなくなってしまう。
なんとなく全貌は覚えていても、記憶に留めておく必要がない些細な出来事はなかなか覚えていられない。
だからこそ、私はいつも寝る前に、その日の出来事をこと細やかに日記に記すようにしていた。思い出せる限り、会話の一言一句まで。
それはもう、記憶が飛ぶようになった三年前からの日課だった。
こうしておけば仮に忘れてしまっても思い出せるし、周囲に余計な気を遣わせずに済む。持ち歩いてつねに見返すことで、私の記憶喪失を隠すこともできる。
「ごめんね、愁。また心配かけたね」
「べつに。……病院は、行かなくていいの?」
「うん。たぶん、そこまでじゃない。ちょっと張り切って応援しすぎちゃったかも」
誰がどの競技に出ていたのか、上手く思い出せない。お昼休みに屋上庭園でみんなでご飯を食べたことは覚えているけれど、そのとき私はなにを話したのだろうか。
……ユイ先輩は、どんな表情をしていたのかな。
「やっちゃったなあ。こうならないよう、細心の注意を払ってたのに」
そこまで大事になっている気配はないし、おそらくまだ意識のある状態で保健室までやってきたのだろう。いまいち覚えていないけれど、きっとそうだと信じたい。
「……?」
ふと、ノートの上部から顔を覗かせている付箋が目に留まった。自分がつけたものかも定かではないものの、引き寄せられるようにそのページを開いてみる。
日付は六月二十八日だ。上から順に一日の出来事を追っていく。とくに代わり映えのしない一日だと思った矢先、中盤辺りで、ある部分にマーカーが引かれていた。
「……徒競走」
「なに、なんか見つけた?」
愁が身を乗り出して覗き込んでくる。
「先輩、徒競走に出てたんだって。そういえば私、すごく楽しみにしてた気がする」
「ああうん。言ってたね。今日の朝も」
「なんで忘れてたのかなあ。きっと見れてないよね」
不意に、沙那先輩の姿が頭によぎった。そういえば、眠る前に沙那先輩と話したような気がする。ということは、沙那先輩がここへ連れてきてくれたのか。
ひとつ思い出すと、雲隠れしていた記憶が徐々に紐解かれていく。
よかった。今回は完全に忘れてしまったわけではなさそうだ。
それでもたぶん、徒競走は見れていないけど。
だって、もしユイ先輩の競技を見ていたら、きっと忘れないから。
「愁、保健室に来たとき、誰かと会った?」
「いや、会ってない。保健室の先生には話を聞いてきたけど、まだ体育祭の後片付け中だから誰もいないよ」
「そっか」
仕方ない、と私は息をつく。
──自分のなかでなにかがはっきりと変わっている。
それを自覚できるようになったのは、一年ほど前からだ。記憶というわかりやすいものではなく、単純に日常生活において『あれ?』と思うことが増えた。
夜はしっかり寝ているのに、授業中信じられないくらいに眠いとか。
一階ぶん階段を上っただけで、全速力で走った後のような息切れを覚えたりとか。
とりわけ、食生活は顕著に変化していた。視覚や聴覚には今のところ大きな支障は現れていないものの、味覚はほとんど失われてしまっている。
最近は胃の消化機能の衰えも激しいらしく、油ものなどの負担のかかるものは食べられなくなった。消化しきれなくて、具合が悪くなってしまうのだ。
だから基本的には、ゼリーやスープなどの吸収しやすく食べやすいものが主食で、香りだけで食事を楽しむようにしている。
そんな、ちょっとしたことの積み重ね。
それが、だんだん、本当に少しずつ重くなっていく。
蝕まれていく身体は、まるで水面に垂らした墨が水と混ざり合って広がる様に似ていた。やがてはすべて、黒一色に染まるのかもしれない。
それはきっと、ユイ先輩が描くモノクロの世界よりも、ずっとずっと深い黒。
光のない、真っ暗な闇の世界──。
「姉ちゃん?」
「え、あ、なに?」
「大丈夫? やっぱり病院行った方がいいんじゃ……」
愁の心配と不安が綯い交ぜになった表情にハッとする。
なるべく前向きに、ポジティブにいようと心がけているけれど、たまにどうしても囚われてしまいそうになるのだ。己が抱える運命の終着点を。
「だいじょーぶ! 元気元気」
深海にずぶずぶと沈みかけた思考を勢いよく引き戻して、私は笑みを取り繕う。
「……カラ元気っていうんじゃないの? それ」
「うわあ。なんか愁、ユイ先輩に似てきたね。もともと似てるとこあるけど」
「は?」
虚を衝かれたように、愁が男子にしては丸みを帯びた目をひん剥いた。
「やめてよ。おれ、その先輩ってやつ嫌いなんだから」
「会ったことないでしょ、愁」
「ないけど嫌い。姉ちゃんが先輩先輩ってうるさいから」
ふん、と不機嫌に顔を背けて愁が立ち上がったそのとき、扉が開く音がした。
先生が帰ってきたのかな、と愁と目配せしあう。しかし、こちらへ向かってくる足音に聞き覚えがあった私は、思わず「えっ」と戸惑いの声をあげた。
「……小鳥遊さん、起きてる?」
「ユイ、先輩?」
やっぱりそうだ。カーテンの向こうでユイ先輩がホッと息を吐いた気配がした。
「入ってもいい?」
「も、もちろんです」
愁があからさまに嫌そうな顔をしたけれど、まさか断るわけにもいかない。
ゆっくりとカーテンを引き開けた先輩は、私を見てわかりやすく目元を和らげた。
かと思ったら、隣にいる愁へまじまじと視線を移し、
「……中、学生?」
ユイ先輩にしては非常に珍しく、動転した表情で尋ねる。
「っ、中学生で悪かったな!」
「あっこら! 出会い頭に噛みつかないの、愁!」
「……愁?」
私と愁を交互に見比べて、先輩はさらに混乱したような顔をする。
無理もない。高校に中学生がいるだけでも目立つのに、いきなりこんな嫌悪感まるだしな態度を取られたら、誰だって面食らう。
「あの、すみません先輩。この子、私の弟なんです」
「おとうと」
「はい。三つ下の中学二年生で……。今日は私のことを迎えに来てくれたんですよ」
へえ、そう、弟……とぼそりとつぶやき、ユイ先輩は愁を頭の先から足の先まで食い入るように見た。
まるで珍妙な生き物でも見つけたような反応に、私の方が困ってしまう。
というか、ユイ先輩がこんなに他人を意識するのを初めて見たかもしれない。
それから安堵したように胸を撫でおろして「なるほど」とうなずいた。
今の視線でいったいなにに納得したのか気になったが、次の瞬間にはもうユイ先輩の興味はこちらに移っていた。
「体調、どう?」
「あ、え、大丈夫です! なんかぐっすり寝てたみたいで」
「そっか。ならよかった」
先輩がいつになくわかりやすく微笑んだのを見て、私はつい感動を覚える。
「せ、先輩が成長してる……」
そんな私を見て、愁が早くもしびれを切らしたように渋面を向けてきた。
「もういいから帰るよ、姉ちゃん」
「あ、うん。そうだね」
しかしベッドから降りようとすると、なぜかがっくりと体から力が抜けた。
あやうく顔面から倒れこみそうになったところを、過去一で素早い動きをしたユイ先輩が受け止めてくれる。ひゅっ、と息が詰まり、私は思わず先輩の腕に縋った。
「あっぶな……」
「っ、姉ちゃん!」
そのままぺたりと地面に座り込んだ私の隣に、愁が慌ててしゃがみこんだ。その顔はいつになく焦燥感が滲み、その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。
一方のユイ先輩も、私の肩を支えながら「小鳥遊さん?」と床に膝をつく。
「……どうしたの? やっぱり具合悪い?」
「い、いえ……なんか、力が、入らなくて」
あはは、と曖昧に笑ってみる。
けれど、自分が笑えていないことなんて明白だった。さすがの私も、突然のことに少なからず動揺してしまっているらしい。
ぎゅっと眉根を寄せた愁は、なにを思ったか私に向かって背中を向けてくる。
「乗って」
「え」
「背負って帰るから」
愁は中二にしてすでに私より背が高い。
とはいえ、さすがにここから家まではきついだろう。歩いて通うことが可能な距離ではあるが、それでも軽く二十分ほどは歩くことになる。
「……弟くん。それより、タクシーの方がいいよ」
そう告げるや否や、ユイ先輩は私をひょいっと抱き上げた。突然ふわりと体が宙に浮いて驚いている間に、ふたたびベッドの上におろされる。
内心、大パニックだ。
ユイ先輩に私を持ちあげられるほどの筋力があるなんて聞いていない。
「あ、あの、えっ、えっ?」
おろおろとユイ先輩を見上げて、さらに困惑する。
私を見下ろす先輩は、見たこともないくらい真剣な表情をしていた。
「具合が悪いなら、早く家に着いた方がいいし。今呼んでくるから、待ってて」
「は、え、でも」
「待ってて。弟くんは小鳥遊さんについててあげてね」
ユイ先輩は有無も言わさず踵を返した。とんでもなく機敏な動きだ。
普段ののんびりとした先輩は見る影もなく、私も愁も呆気に取られるしかない。
やがて電話を終えて戻ってきたユイ先輩は、かたわらに置いてあった私の鞄を持つと「荷物これだけ?」と訊いてくる。
いつにも増して無表情なのに、不思議と怖いとは感じない。
「あ、はい。でも、教室に画材が……」
「その調子じゃ絵も描けない、というか、描かないで休まないとだめでしょ。すぐタクシー来るはずだから、とりあえず校門まで行くよ」
心なしか早い口調で言い切り、ちらりと棒立ちしている愁を見る。
「……小鳥遊さん、弟くんが背負っていく? 俺でもいいけど」
「っ、おれが背負う!」
「わかった。じゃあ、俺は荷物持つから。弟くんのも貸して」
ユイ先輩は素早く二人分の荷物を取り上げる。
指示されるままわたわたと私を背負った愁は、しかしすぐさま我に返ったように動きを止め、憎々し気に先輩を見上げた。
「あんた、なんで……」
「ん?」
「なんでそんなに、姉ちゃんに構うんだよ」
ユイ先輩は突然の敵意にも動じず、わずかに眉をひそめただけだった。
「……理由が必要?」
「っ、なんも知らないくせに……!」
「こら、愁! いい加減にしなさい!」
私は思わず声を荒らげる。
耳元で叫んだせいか、愁はビクッと肩を揺らして黙り込んだ。やりきれないように唇を引き結ぶ様子は胸が痛むけれど、今のはあきらかに愁が悪い。
「謝って、愁。そういうのはよくないよ」
「……嫌だ。絶対、謝んない」
「愁……!」
ユイ先輩は険悪な雰囲気に包まれる私と愁を見比べて、すっと目を細めた。
「……君は、俺のことが嫌い、なのかな」
「っ、嫌いだよ! 嫌いに決まってるだろ! おまえが姉ちゃんを取ったんだから!」
「愁っ!」
ふたたび声を荒らげたそのとき。
ドクンッ、と心臓がひどく歪で嫌な音を立てて、強く胸を突いた。
形容しがたい衝撃が走り、全身が大きく揺らいだ。
中心から外側へ、激しく波渡るように感覚が鈍っていく。同時に襲ってきたのは、各所の痺れ。まずい、と思う間もなく、愁の背中から滑り落ちそうになる。
「あ、ぐ……っ」
そんな私をまたもや受け止めてくれたのは、ユイ先輩だった。
「姉ちゃん!?」
「っ、小鳥遊さん?」
息が堰き止められたように詰まり、私は胸を押さえながら喘ぐしかできない。
視界が霞む。意識が混濁して、自分がどこを向いているのかすらわからなくなる。
なにこれ。知らない。こんなの、なったことない。
「ね、姉ちゃ……っ! あ、あんた! 救急車呼んで、早く!」
「救急、車……わかった。小鳥遊さん頑張って、今呼ぶから」
私をふたたびベッドに寝かせた愁に、手を握られたのがわかった。
薄れゆく意識のなか、大粒の涙を溜めて私の名前を呼ぶ、愁の姿が見えた。
その先には、ユイ先輩がいる。
銀が、脳裏に焼きついた。
それはまるで、水のなかから遥か遠くの月を見上げているみたいで。
「──……小鳥遊さん! しっかり……鈴っ……」
幻聴だろうか。ユイ先輩に、名前を呼ばれたような気がした。
「姉ちゃん、しっかりして。死なないでよ、ねえ、姉ちゃん……!」
声が次第に遠のいていく。
ごめんね、とつぶやけたのかどうかも、わからない。
──死にたいなんて、思っていない。
一度も思ったことはない。
私は、死にたくない。
本当はもっと、もっと、もっと、生きていたい。
もうずっと、生きたいと願って、死を受け入れながら、生きてきた。
けれど、こうして周りの人の心に傷をつけていくのなら、せめてひと思いに死んでしまった方がいいのではないかと、そんな馬鹿げたことを考えたりもする。
枝を離れた花弁の散り行く先など──。
枯れた桜の末路など、きっと、はなから決まっているというのに。
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