第2章 4話
◇
午後三番目の競技で行われた、地獄の徒競走。
直前まで死んだ魚の目をしていた俺は、隼に臀を叩かれて嫌々ながら出場した。
無論、大敗。
カッコいいところを見せたいなんて、しょせんは願望だ。現実はそう甘くない。しかも最後の最後で思いきりずっこけて、小学生男子さながら典型的な膝怪我を拵えた。
ここまでくると、もう羞恥どころの話ではない。他の誰に目撃されたところで気にやしないが、ただひとり、小鳥遊さんだけは見られたくなかった。
さっきは理由なんて求めないと思っていたが、前言撤回しよう。こんなどうしようもないことで笑われるのは、さすがに堪える。
「……あの」
「は、はい? えっあっ、春永先輩……」
ショックに打ちひしがれながらとぼとぼと救護室までやってきた俺は、そこにいた体育祭の運営スタッフらしき女子生徒に声をかけた。
彼女は俺を見るなり、あからさまにぎょっとして後ずさる。
「あー、えっと」
なぜか俺は、校内でも怖がられている節があった。無駄に名前を知られていることが追い打ちになっているのか、根も葉もない噂が常に飛び交っている。
銀髪だからか。恐喝されるとでも思うのか。
まあ小鳥遊さんは気にもしていないようだし、べつに、どうでもいいのだけど。
ちらりと周囲を見回してみるが、近くに小鳥遊さんの姿は見当たらない。
「あ、け、怪我されたんですね!」
ようやく俺の足の怪我に気がついたらしい彼女が、慌てたように立ち上がる。
「いや、それよりさ。小鳥遊さん、知らない?」
「へ? た、小鳥遊さん……?」
「背が小さくて、髪が長くて、色白な子。あと……明るくて、元気」
「ああ!」
それで伝わってしまうのだから驚きだ。外見的特徴がありすぎるのか、はたまた小鳥遊さんの存在感が強いのか。少し考えて、どちらもだなと結論付ける。
「鈴先輩なら、さきほど保健室に……」
「保健室?」
「は、はい。なんだか具合が悪そうで、途中でお友だちの方が連れていかれました」
それより足の怪我を、とおそるおそる手当てを施そうとする女子を制する。
小鳥遊さんを先輩と呼んだからには、この子はきっと一年生だろう。
なるべく怖がらせないように気をつけながら、穏やかな声音で「大丈夫」と諭した。
「保健室、行くから」
「え? で、でも、先生いませんよ?」
「平気。ありがとう。暑いけど、仕事頑張って」
それ以上引き止められないように、俺はサッと踵を返した。
……具合が悪い、と彼女は言った。
昼間は元気そうだったのに、午後をまわって熱中症にでもなったのだろうか。
いつも明るく元気なイメージはあるが、小鳥遊さんはああ見えて、あまり体が強くないのだろう──と思う。憶測に過ぎないが、ときおり俺でも心配になるくらい顔色が悪いことがあるし、定期的に早退していたりもする。
つねに笑顔を絶やさないから、なんとなく誤魔化されてしまいそうだけれど。
保健室へ向かう足が、自然と早くなる。
校舎を突っ切り、最短距離で保健室前まで辿り着く。
気が急いてノックもなしに扉を開けようとした瞬間、俺の目の前で扉がガラッと勢いよく開いた。さすがに驚いて、俺は伸ばした手をそのままに硬直する。
そこに立っていたのは小鳥遊さん、ではなく。
「……榊原さん?」
「結生……なんでここに」
「なんでって、小鳥遊さんが保健室にいるって聞いて。そっちこそなんで」
あまりに予想外の人物だった。
やや遅れながらも状況を吞み込んで、俺は訝しく眉を顰める。
すると、榊原さんはハッとしたように背後を気にした。その視線を追いかけようとした矢先、唐突に胸部に衝撃が走る。榊原さんにドンッと強く押されたのだ。
数歩よろけながらも、なんとか転ばないように耐える。
ほぼ同時に保健室から出てきた榊原さんが、俺を睨みつけながらうしろ手にピシャリと保健室の扉を閉めた。シン、と一瞬にして場の空気が凍りつく。
「……なんのつもり」
自分でも驚くほど低い声が落ちる。
「っ……あなたをここに入れることはできないわ」
「なんで」
「なんでも。あの子のことを想うなら諦めて」
あの子、とは小鳥遊さんのことか。
榊原さんは、一応、俺の元カノに当たる人物だ。
だが、正直、元カノと呼べるほどなにかをしたわけでもない。付き合っていたらしい当時は、俺自身その自覚もなかったくらいだ。
けれど、ゆえにこそ、傷つけてしまったという負い目はある。
だから俺は、榊原さんを無碍にできない。
とはいえ、彼女が小鳥遊さんになにかと突っかかっていたことは、ずっと気にかけていた。そのうえでこの奇妙な反応となれば、後ろ暗いことがあるのではと疑うのも無理はないだろう。しかも、今の小鳥遊さんは具合が悪いのに。
「……なにか、したの?」
すうっと心が冷え切っていくのを感じながら、問いかける。
「はあ?」
「彼女になにか危害を加えたら、許さないよ」
もしも榊原さんが小鳥遊さんにしたことを隠そうとしているのなら、俺は無理にでも彼女を押しのけて小鳥遊さんの元へ行かなければならない。
そんな気迫に圧されたのか、榊原さんは呆気に取られたような顔をした。
けれど、すぐに切なそうに眉をキュッと寄せて顔を俯ける。
「ふうん。結生には、あたしがそんなふうに見えてるのね」
「……なに?」
「べつにいいわよ、あたしのことはどう思ってても。もう終わったことだし。……でもね、これだけは言わせてもらうけど。今のあたしはあの子の手助けこそすれ、危害を加えるなんて馬鹿なことはしないわ」
手助け、とはなんのことか。今度は俺の方が面食らって両目を眇める。
「なんでもいいけど、どいてくんない?」
「寝てるのよ。今はゆっくり寝かせてあげて」
「……べつに起こさないし」
「起きるわよ、あの子は。とにかく、その膝の怪我は救護室で手当してもらって。先生いないし、勝手に保健室の道具使ったら怒られるわ」
膝の怪我なんて、とうに忘れていた。
そんなことより今は、小鳥遊さんの様子を確認しないと気持ちが落ち着かない。
「……本当に、大丈夫なの?」
「ええ。少し体調が悪そうだったから、保健室に連れてきただけよ。ちょっと疲れが出ただけみたいだし、しばらく休めば大丈夫だと思う。一応、先生からお家の方へ連絡はしてもらうけど」
驚いた。
小鳥遊さんを連れて行ったという友だちは、まさかの榊原さんだったのか。
「あ、そう……ごめん、疑って」
「もういいわよ。あたしが前にあの子をいびってたのは事実だし、自業自得って思うことにするわ。断じて今はそんなことしないけど」
ツンとそっぽを向いた榊原さんの口調には、わずかに後悔の色が混ざっているような気がした。どこか思い詰めているようにも見える。
いったいどんな心境の変化なのだろう。やっぱり女子は、よくわからない。
「じゃあ、また後で来るよ。体育祭が終わった頃に」
「そうして。その方があの子も落ち着くでしょうしね。ほら、わかったら戻るわよ」
……こんな子だっただろうか。
さっさと俺の横をすり抜け、すたすたと歩いていく榊原さんを目で追いかけながら、ぼんやりとそんなことを思う。
──他人に興味がない。
この言葉を俺に当て嵌めるなら、そこに『生き様』が付随する。他人の生き様にまったくもって、心底、関心がない。どうでもいい。
なぜ、と訊かれても困る。それに理由なんて大仰なものはないのだ。
たんに、自分以外の人間がこの世でどんな生き方をしていようが、俺にはなんの関係もない。そう思うだけ。むしろ、なぜそんなに他人に興味や関心を得られるのかの方が気になる。他人なんて、しょせん、他人なのに。
義務的なこと以外でクラスメイトと話すこともないし、そのせいで怖がられるのだろうとは薄々気づいてはいるが、それでもなお変わろうとは思えなかった。
──けれど、小鳥遊さんと出逢ってから、ほんの少しだけ。
なんとなく、他人のことが気になるようになってきたような気もするのだ。
「ねえ、榊原さん」
「なによ?」
俺の呼び掛けに振り返る榊原さんの顔は、無表情なようで暗澹としていた。
その向こう側に潜んでいるものの影が、なんとも背筋をぞくりと這いずり怖気を生む。この色が掴めない感じは、小鳥遊さんに関係しているからか。
「俺は、小鳥遊さんのことが好き。……だと、思うんだけど」
「だと思うってなによ。てか、なんでそれをよりにもよってあたしに言うの?」
はぁぁぁあと深く嘆息して、榊原さんがげっそりしながら頭を抱える。
「……君が、前に俺のことを好きって言ってくれたから」
「っ……」
「すごく遅くなったけど、ちゃんと返事はしないといけないのかも、と思って」
俺はこれまで、他人からの好意を受け流していた。その好意を肯定することも否定することもなかった。結局は関係のないことだったから。
でも、この『好き』という言葉は、一方的か否かで大きく形が変わるものらしい。
つい最近、それを知った。
自分自身で経験して、ようやく理解した。
そうして、思い至ったのだ。どちらとも取らず泳がせておくことは、自分にとっても相手にとっても、あまりに残酷なことなのではないかと。
「ごめんね、榊原さん。俺はずっと、君にひどいことをしてたね」
ただただ気持ちだけを宙に彷徨わせたままでは、いずれ、迷子になる。
たぶん俺は、そんな終わりのない苦行を、延々と迷い彷徨わせるようなことを、榊原さんにしてしまっていたのだろう。
今さら謝ったところで、困らせるだけかもしれないけれど。
「わからなかったんだ、ずっと。人を……誰かを想っているときの、心っていうか。そういう繊細な部分が、理解できなかった」
「…………」
「正直、今も、わからないことの方が多いけど。俺には難しいなって、いつも思ってるけど。でも、なんとなくね。この好きって気持ちは……君が俺に向けていてくれた想いは、もっと丁寧に扱わなくちゃいけないものだったのかなって、そう思うよ」
俺にしては多弁に、ゆっくりと時間をかけながら言葉を紡ぐ。
「遅くなったけど、俺のこと好きになってくれて、ありがとう」
──それから、
「ごめんなさい。君に、好きを返せなくて」
その瞬間、俺のなかで、はっきりとなにかが変わったような気がした。
俺は、小鳥遊さんが好き。
そう確信した、とでも言うべきか。
「……なにそれ」
榊原さんはじっと俺を見つめて、一瞬だけ瞳を左右に揺らした。
「本当、今になって言うことじゃない。あまりにも遅すぎるでしょ……」
「うん。ごめん」
「……でも、ありがと。今さらでも……これできっと、前に進めるわ」
その瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。初めて真正面から向き合って、ハッキリと榊原さんの瞳の色を見た気がした。熟して地面に落ちた栗の色だ。
「ねえ、結生。あなたはたしかに変わった。本当に人間らしくなったと思う」
「……ん、やっぱり人間らしくなかった? 俺」
「まったくもってね。けど、そんなあなたを、あたしは変えられなかった。それが答えなのよ。どんなに好きでも、心に手が届かなければ意味がないんだから」
そう告げながら、榊原さんはツカツカと俺のもとに歩み寄ってきた。
かと思ったら、いきなりぐいっと胸ぐらを掴まれる。
「っ、え」
体が勢いよく前方に傾いた。
突然のことに反応できず、ただされるがままになる俺を間近で覗きこんでくる榊原さん。目前に迫ったのは、見たことがないくらい真剣な表情だった。
「よく聞いて、結生。──もしもあの子のことが本気で好きで、大切で、これからも変わらず関わっていくというのなら……ちゃんと覚悟を決めなさい」
「……か、覚悟って、なんの」
「人を想う覚悟よ。あなたが、ひとりの人間として、自分ではない誰かを心の底から想って生きていく覚悟。あのね、人を想うってそんなに簡単なことじゃないの。幸せなことばかりじゃない。あたしを見れば、わかるわよね?」
こくり、と俺は曖昧に顎を引く。
「出逢いはたしかに変わるきっかけになる。けれどね、自分が変わりたいと思わなければ変わることはないの。人の本質は確固たるものだから。そのうえでどう変化していくか、どう受け入れて馴染んでいくかは、自分次第よ」
榊原さんの言葉は難しくて、俺にはその真意をすべて読み取ることは困難だった。
されど、今、彼女がとても大事なことを伝えようとしてくれているのはわかる。
ひとつとして取り零してはならない、俺に必要な『なにか』がそこにあるのだろう。
「だから、ちゃんと自分と向き合って、ちゃんと変わって。結生」
──けれども、はたしてそれは、人形の俺に理解できることなのか。
「俺は……変わらないといけないの」
「さあね。でも、変わらないときっとあの子には近づけないわ」
意味深にそうつぶやいて、榊原さんはゆっくりと俺の胸ぐらを解放した。
「正式にフラれたからには、あたしは小鳥遊さんを応援する。女々しく結生のことを想い続けたりはしないから、安心してちょうだい」
「っ……」
「大事にしてあげて。彼女を幸せにできるのは、あなたしかいないんだから」
消え入りそうな声でそう言い落とし、榊原さんはふたたび歩いていく。
そのうしろ姿を見送りながら、俺は茫然とその場に立ち尽くした。
なんて強い子だろう。
そう思いながら、次に顔を合わせたときにかける言葉を見つけられない。
俺がもし榊原さんの立場になったら、同じことを小鳥遊さんに言えるのだろうか。
今でさえ右往左往して、迷ってばかりなのに。
「……どうして、そんなに悲しそうなの」
彼女の声音に含まれた憂いは、フラれたことによるものではない気がした。
引き留めて尋ねたくても、喉の奥に引っかかって声が出てこない。
だって、今のはきっと俺と小鳥遊さんへ向けられたものだ。
俺しかいないってなんだ。
俺なんかじゃ、むしろ心配になるのではないのか。
わけがわからない、と俺は俯きながらぎゅっと拳を握りしめた。
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