第2章 3話


「よーっす、結生」


「………………。あぁ、隼か……」


「いや反応おっそ。大丈夫かよ? もうへたばってんのか?」


 体育祭当日。ようやく午前の部が終わり、生徒たちは各自昼休憩に入った。

 それはいいが、暑い。とにかく暑い。

 一刻も早く校舎のなかに避難したい気持ちはあれど、こうも気温が高いと動くことすら億劫だ。体が今にも溶け落ちてしまうのでは、と本気で心配するほど。

 そんなこんなで、俺は待機場所の椅子から一向に立ち上がれずにいた。


「おまえ、俺が迎えに来るってわかってて動かなかったんだろ」


「べつに。まあ、来るとは思ってたけど」


 呆れ顔で俺の隣にどかりと腰掛けた隼は、「ほら」とミネラルウォーターを放ってくる。反射的に受け取れば、それは俺がいつも買うメーカーのものだった。


「水分取ってねえんだろ、どうせ」


「……水筒忘れた」


「アホか? やっぱアホなんだな!? いいから早く飲め死ぬぞ!」


 渡してきたばかりのペットボトルを引ったくったかと思えば、隼は素早く蓋を開けて乱暴に口へ突っ込んでくる。

 突然流れ込んできた水をなんとか飲み下しながら、俺はじりっと奴を睨みつけた。


「もっと優しくできないわけ」


「うるせーよ」


 小中高と同じ学校で過ごしてきただけあって、言動にまったく遠慮がない。

 いわゆる幼なじみ、腐れ縁というやつなのだろう。だが、俺にとっての隼はどちらかというと世話焼きな兄とでも言うべきか。まあ、それに準じた存在だった。


「あのなぁ、熱中症でいちばん怖いのは水分不足なんだからな。脱水症状は酷くなると死ぬんだぞ。わかってんのか、おまえ」


「それもこれもすべて、暑いのが悪いと思う」


「自然環境に文句つけんなよ。ほら、飯食いに行くぞ。弁当は?」


「ない」


「……だと思ったわ。じゃあ購買だな。今日は食堂やってないらしいし」


 まさか金は、と疑わしそうな目を向けてきたので、俺はポケットからICカードを取り出してみせた。現金はないが、こと日常においてはすべてこれで賄える。


「交通機関もコンビニも自販機も、これ一枚。なんて便利な時代なのかな」


「なら買えよ。自販機で」


「売り切れてた」


「だめじゃん」


 よろよろと立ち上がり、隼にもたれかかりながらも歩きだす。


「ほんっと……なんでこんな暑いなか運動しなくちゃいけないの……」


「夏場の屋上もたいして変わんなくね?」


「いや、変わるね。むしろ天と地の差。あそこはわりと涼しいんだよ」


 それに、部活が始まるのは夕方からだ。

 長大な桜の木のおかげで大部分が日陰になっているし、アスファルトにありがちな太陽の照り返しもない。実際、そこまで暑さは感じないのである。

 さすがに天気が芳しくない日は屋内のどこかに場所を移すが、人が滅多に来ないあの場所はなにかと快適なのだ。多少の寒暖は妥協するべし。


「ま、でも楽でいいだろ、高校はさ。中学んときみたいなガチっぽさはないし」


「走るじゃん」


「そりゃな。緩いだけマシだって。こういうのは楽しんだもん勝ちだ」


「そんな考えできてたら、そもそもこんなにダメージ食らってないでしょ。運動ってだけで地獄なのに。……はあ、俺も応援団がよかった」


 あ? と、隼が奇妙な顔をしながら器用に片眉をつりあげる。


「結生って、ああいう熱血な方が苦手じゃね?」


「腕を振り上げずにテントの下でただ応援するだけの応援団ならマシ」


「なんだそれ。んなの外野だろ、ただの」


「……小鳥遊さんはそれが競技って言ってた」


 わけわからんと隼が肩をすくめる。


「ほんとおまえ、小鳥遊さん好きな」


「本部の横のテントにいるって」


「じゃあ委員かなんかじゃねえの。救護係とか」


 ああなるほど。それは盲点だった。言われてみればそうかもしれない。


「隼って、たまに頭いいよね」


「たまにって言うなよ。いちいち失礼なやつだな」


 はあ、と大仰にため息を吐きながら、隼は俺を振り払う。


「俺は頭がいいんじゃなくて、たんに視野が広いんだ。おまえと違ってな」


「ふうん。どうでもいいけど」


 ようやく校舎に辿り着き、強烈な日差しから逃れた俺と隼。

 そのまま購買部へ向かうけれど、さすがに昼時なだけあって、入り口からすでに人でごった返していた。もうそれだけで憂鬱さが倍増しする。


「うっわ……これ入るの無理」


「ササッと行くんだよ、ササッと。素早くな。まあおまえには無理だろうけど」


「馬鹿にしてる」


「おう、してる。しゃーねえから買ってきてやるよ。おにぎりでいいか」


「うん」


「具はなんでもいいよな」


 やはり究極の世話焼きだ、と俺はぼんやり思う。

 バスケ部のエースらしく筋肉質でなかなかガタイのいい体型をしているのに、スルスルと人混みを掻き分けてなんなくおにぎりを強奪していく。

 その様子を遠くから眺めながら、俺は素直に感心する。

 俺には絶対にできない。

 この人混みに飛び込んだが最後、四方八方から押し潰されて終わる。

 出てきた頃にはすりおろし大根か薄切り大根になっているだろう。間違いなく。


「体育祭んときくらい、みんな弁当持ってくりゃいいのにな」


「隼みたいに自分で作れる人は早々いないから」


 やがて戻ってきた隼がぶらさげる買い物袋のなかには、おにぎりの他にもいろいろと余分なものが入っていた。緑茶に煎餅にチョコレート。そしてアイス棒ふたつ。


「これ、おまえの奢りな。煎餅とアイス。パシリ代ってことで」


「……べつにいいけどさ」


 昆布とおかかのおにぎり。麦茶ではなく緑茶。パフ入りの一口チョコレート。

 なんでもいいとか言っておいて、俺の好みを完全に把握したチョイスだった。

 さすが無駄に付き合いが長いだけある。


「どこで食うよ? 教室? 中庭?」


「混んでないとこ」


「んなとこあるかぁ?」


「こういうときこそ屋上庭園でしょ」


 はあ、と隼が曖昧に相槌を打つ。しかしすぐに「いや待て」と鷹揚に腕を組んだ。


「閉まってんだろ、今日。わりとあちこち閉鎖されてるし」


「俺を誰だと思ってんの」


 制服のポケットからそれを出して見せると、隼は瞠目した。


「屋上庭園の鍵くらい持ってるに決まってんじゃん。あそこ管理してるの俺だし」


「うっわ。おまえマジかよ」


「うちの顧問、放任主義だから。部長権限ってやつだね」


 閉められているのなら開ければいい。

 俺は正式な許可を得て、鍵を所有する者なので。

 なぜか引き気味の隼を連れ立って、通い慣れた屋上へと向かう。

 もう二年以上も入り浸っていることを思えば、やはりあの場所は相当に居心地がいいのだろう。家のアトリエよりもよほど落ち着くし、今年で卒業してしまうのがもったいないくらいだ。

 屋上へ繋がる階段をあがっていくと、ふと上から声が聞こえてくる。扉の前で女子数名が屯っているのが見えて、一瞬、足が止まりそうになった。


「ん? 先約か?」


「……いや」


 しかしながら、なんとなく予感を覚えた俺は、構わず階段をあがる。

 そこにいた三人の女子がこちらに気づいて振り返り──そのうちのひとり、小鳥遊さんが「先輩!」と目を丸くしながら驚いたように声をあげた。

 やっぱり、というか……案の定、小鳥遊さんだった。なんとなく聞こえてきた声のトーンで気づいてはいたが、まさかこんなところで会えるなんて。

 自然と心が浮き上がるのを感じながら、俺はちらりとうしろのふたりを見る。


「……友だち?」


「あっ、はい! 円香とかえちんです!」


 なんとなく聞き覚えのある名前に「ああ」と首肯する。

 よく小鳥遊さんの話に出てくる人たちだ。

 ひとりは、いかにも大人しそうな丸縁眼鏡の女の子。もうひとりは、日に焼けた肌とボブヘアがなんともボーイッシュな雰囲気を醸し出す女の子。

 俯瞰してみると、三人の印象はまったく異なる。

 中心に挟まれている小鳥遊さんと並ぶと、だいぶちぐはぐな組み合わせだった。


「は、初めまして、春永先輩。鈴ちゃんからかねがねお話は聞いてます」


「そりゃもう耳にタコができるくらいにねぇ。初対面なのにまったく初めてな感じがしないし。……あ、うちの鈴がいつもお世話になってます、春永先輩」


 おそらく前者が『円香』さんで、後者が『かえちん』さんだろう。

 そう見当づけながら、俺はひとこと「よろしく」と平坦に返した。


「あの春永先輩、そちらは……?」


「そちら?」


「俺だろ。忘れんなよ、バカ」


 背後からバシッと頭をはたかれて、俺はようやっと隼の存在を思い出す。

 珍しく静かにしていたから、真面目に忘れかけていた。


「あー……えっと、隼。俺の幼なじみ」


「おう、よろしくな。小鳥遊さんは久しぶり」


「はい、ほんとお久しぶりですね。相良先輩」


 部活中、たまに気を利かせた隼が差し入れを持ってくるから、いつの間にやら顔見知りになってしまったふたり。

 否、気を利かせたとは建前だ。以前『おまえの初恋相手に興味がある』とサラッと暴露してきたこともあり、俺はいまだにこのふたりを会わせたくない。


「……で、なにしてるのこんなところで」


「あっ私たち、屋上でご飯食べよっかなぁって……まあ、思ってたんですけど。御覧のとおり閉まってて。どこで食べようかって話してたところです」


 なるほど、俺たちと同じ口か。

 さすがに毎日同じ場所で活動しているだけあって、思考回路が被ったらしい。

 体育祭の相乗効果でやたらと騒がしい校内。そんななか、落ち着いて食べることができる場所と言ったら、やはりここに限る。ただし、美術部員限定だけれど。

 たったそれだけのことに心が浮き立つのだから、俺もたいがい単純だ。

 そう思いながらも、ふふんと得意げに鍵を見せてみる。

 あっ、と小鳥遊さんがわかりやすく大きな目を輝かせた。


「せっかくだから、一緒に食べる?」


「いいんですか!?」


「そっちがよければね」


 バッと勢いよく友だちの方を振り返る小鳥遊さん。彼女たちはもうすでにわかっていたようで、そろって苦笑しながら了承の意を示した。


「せっかくだから、お言葉に甘えさせてもらおっか」


「ま、鈴が先輩を前に釣られないわけがないしね」


「やった、ふたりとも大好き!」


 いい友だちなんだな、と思う。見ているこちらも微笑ましい光景だ。

 ただ、小鳥遊さんが同性の友だちと仲良くしているところを見慣れないせいだろうか。少し背中がむずむずして、もどかしいような心地もする。

 俺に向けられる笑顔とは、また違った素の一面に触れたからかもしれない。


「隼もいいよね」


「聞く気ないだろ。べつにいいけどさ」


 隼はジトッと俺を見て、口をへの字にした。

 なんだかんだ俺に甘い隼が断るはずもない、という勝手な算段だが、実際男ふたりで食べるよりは女子も一緒の方が華やかになるだろう。

 まあ、これが小鳥遊さんじゃなければ、誘っていなかったけど。

 さっさと屋上へと繋がる扉を開けて、五人そろって庭園へと降り立つ。

 中心にそびえる桜の大木の麓は、やはり木陰になっていた。

 全員もれなくジャージ姿だし、多少は汚れても構わないからと、アスファルトの地面に直接座ることにする。ベンチもあることにはあるが、あちらは日光に近くて暑い。


「思ってたより涼しいね。影なだけでこんなに体感温度違うんだ」


「そうそう、根元はまったくお日様当たらないから。夕方はもっと涼しくなるよ」


「というか屋上庭園ってこんな感じだったんだね。あたし何気に初めて来たわ」


 きゃいきゃいと楽しそうに話す女子たち。なんとも無邪気に相好を崩している小鳥遊さんを眺めていると、つい俺まで笑みを誘われそうになる。

 実際少し笑っていたのか、隣に座る隼が実にげんなりとした顔で俺を見てきた。


「視線がクッソ甘え。なんかおまえが笑ってると鳥肌が立つんだけど」


「ひどい言い草。俺だってたまには笑うよ」


 隼いわく、俺は元来『表情筋が死んだ男』らしい。

 そんな俺がこんなふうに他人の会話に和んでいる時点で、幼なじみとしては気味が悪いんだろう。心底、余計なお世話だが。

 でもたしかに、以前は有り得なかったことだなとも思う。

 人は不思議だ。胸に抱く気持ちひとつで、こんなにも変わってしまうのだから。


「あれ、小鳥遊さん昼飯それだけなの?」


 不意に、隼が尋ねた。

 その視線を追うように小鳥遊さんを見る。彼女の手に握られていたのは、飲むタイプの簡易ゼリー食。栄養補助食品、という言葉が脳裏をよぎる。


「私のお昼はいつもこれですよ。今日はね、りんご味なんです。お気に入りで」


 むふふ、と満足気に見せびらかす小鳥遊さん。

 隼は「こらこら」と苦笑いを零す。


「育ち盛りなんだから、ちゃんと食わねえとだめだろ。とくに体育祭なんてエネルギー必要とする日にそんなんだけじゃ、フツーに倒れるぞ?」


「大丈夫ですよ~。私、あまり体を動かさないですし」


「んなこと言ってもなあ。ただでさえ小鳥遊さん細いのにさ」


「あっ、ピピーッ! 相良先輩アウトー今のセクハラ発言でーす」


 ビシ、と警官の真似事をしながら指を突きつけたのは、かえちんと呼ばれた彼女だ。

 レッドカードを出された隼は、やや強張った顔で眉尻を下げる。


「セクハラ……て、そういやふたりの名前知らねえな。円香さんとかえちんさん?」


「あっ、わたしは綾野です。綾野円香」


「あたしは岩倉楓。かえちん呼びは鈴の専売特許なのでやめてくださーい」


「綾野さんに岩倉さんね。つか岩倉さんキャラ濃いな。大変だろ、綾野さん」


 大人しそうな綾野さんへ、あからさまな同情を向ける隼。天真爛漫な小鳥遊さんと自由気ままな岩倉さんに挟まれれば、たしかに落ち着く暇はなさそうだ。

 けれど、彼女は「いえいえ」と朗らかに顔の前で軽く手を振った。


「鈴ちゃんも楓ちゃんも、すごくいい子ですから。毎日楽しいですよ」


「ふぅん? そんなもんか。いいねえ、JKは」


「……さっきから、なんか発言がおっさんくさいよ。隼」


「はあ? 先輩らしいの間違いだろ」


 若干的はずれな先輩像をため息で流して、俺はおかかのおにぎりに喰いついた。


「あ、ユイ先輩いいですねえ。おにぎりですか」


「……食べる?」


「ふふ、いえいえ。先輩こそちゃんと食べなきゃだめです。もっと体力つけなきゃ!」


 それを指摘されるとつらい。わりと、結構深く、胸がえぐられる。

 しかしすぐに、小鳥遊さんが笑ってくれるならなんでもいいか、と思い直した。

 こうして他でもない自分へ向けられるささやかな笑顔に、逐一、明確な理由を求めたくはない。


 ──けれどいつか、俺がその笑顔を引き出してみたい、なんて。


 そんなことを真面目に考えてしまうくらいには、俺は小鳥遊さんに溺れているのだ。


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