第2章 2話


「ユイ先輩、体育祭なに出るんですか?」


 当たり前のように俺を呼ぶ小鳥遊さんに、ほんの少し鼓動が早まった気がした。

 小鳥遊さんの前には、さまざまな色が円形に並べられたキャンバスがある。最近は筆で色を作って遊ぶ程度で、本格的に絵を描いているところを見ていない。

 気分ではないのか、スランプなのか。どちらにしても楽しそうではあるけれど。


「ユイ先輩?」


 黙り込んでいた俺を、小鳥遊さんが覗き込むようにして顔を出してきた。

 ハッと我に返り、その距離の近さにどきりとする。

 しかし努めて表情には出さず、平然と「まだいるよ」と返しておく。

 自分でも感情表現は下手くそだと思っているが、小鳥遊さんの前だとむしろ出過ぎそうになるから困る。彼女の行動は突拍子もないことが多くて、心臓に悪い。


「もしかして、もう沈んでました? 邪魔しちゃったかな」


「いや。平気」


 ちなみにこの『沈む』というのは、俺が集中して絵を描いているときに自分の世界へ入り込んでしまう状態を呼んでいるらしい。

 まるで深い海の底に沈んでいるみたいだから、と前に教えてくれた。


「なんだっけ」


「体育祭ですよ」


 ああ、と俺は虚空に入り、ただただ遠くの方を見つめる。


「……真夏の炎天下で無駄に汗をかきながら運動しなくちゃいけない意味ってなに」


「去年もそんなこと言ってましたね」


 くすくすと小鳥遊さんが駒鳥のように笑う。本当によく笑う子だ。


「で、なにに出るんですか」


「……徒競走」


「またハードな」


 自分で選んだわけではなく、気づいたらそれになっていた。どうやら競技決めをする際にぼうっとしていたら、勝手に決められてしまったらしい。最悪だ。


「もうすぐ七月ですもんね。体育祭の頃には太陽ギラギラ、グラウンドは干からびてカピカピになってますよ。今年はどうも例年に比べて気温が高いみたいですし」


「ほんと誰なの、真夏に体育祭やろうとか言い出したの」


 俺は基本的に省エネ体質だ。加えて最低限しか動かない生活を送っている。

 絵を描いている時間が長いからと言えば正当な理由になるだろうが、実際のところ、体力に関しては男として情けなくなるほど皆無と言っていい。

 つまり、限りなく運動不足の俺にとって、体育祭はただの暴挙。学校行事でやりたくないランキング不動の一位。あれは控えめに言っても地獄だ。


「……そっちはなにやるの」


「え?」


「だから、小鳥遊さんはなにやるのって」


 ふと気になったことを尋ねてみれば、小鳥遊さんは虚を衝かれたように目を瞬いた。


「珍しいですね、ユイ先輩が聞き返してくるの」


「…………」


 そんなことはない、と一概に否定することもできず、俺はふたたび黙りこくった。

 自分がコミュニケーション能力に乏しいことは自覚している。相手が小鳥遊さんでなければ、きっとこんな他愛もない会話すらしていないだろう。

 けれど、いざそう指摘されるとへこみそうになる。俺はもう少し、他人と関わる努力をした方がいいのかもしれない。小鳥遊さんに近づくためにも。


「私は応援団です」


「は?」


 素っ頓狂な返しがツボに入ったのか、小鳥遊さんがおかしそうに笑う。

 ほのかに吹いた風が小鳥遊さんの長いうしろ髪を攫い揺らした。

 以前切りすぎた前髪は、この二か月でちょうどいい長さになっていた。


「汗水垂らして奮闘する生徒たちを安全圏で全力で応援する係、ですかね」


「なにそれ、ずるい」


「ふふーん」


 しかし、体育祭の競技に応援団なんてあっただろうか。そもそもあれは、競技に換算されるものなのか。そうふと疑問に思いはしたものの追求はしない。

 そんなことは俺にとって、さして重要ではないのだ。小鳥遊さんがなにをやるにしても、この『見たい』という思いに変わりはないのだから。


「じゃあ当日は前に出て、あの……腕を動かすやつ、やるの?」


「言い方。まあ、残念ながらあれはやりませんけどね。自称応援団なので」


「……? どういう意味?」


「ふふ。当日はテントの下にいますよ、たぶん。体育祭本部の横のところです」


 さりげなく誤魔化された気がしたが、まあいい。わかりやすいに越したことはない。


「ユイ先輩の勇姿をしかと目に焼きつけますから!」


「…………」


 こう言ってはなんだが、絶対に最下位になる自信しかない。自分の情けない姿を小鳥遊さんに見られると思うと、ずんと心に重しを乗せられたような心地になる。

 変だ、本当に。彼女と一緒にいると、ずいぶん胸の奥が騒がしい。普段はいつだって最果ての海のごとく凪いでいるのに、これではまるで俺ではないみたいだ。


「あんま、見ないで」


「え?」


「かっこ悪い、でしょ。俺は走るのとか得意じゃないから」


 小鳥遊さんは長い睫毛に縁どられた双眸をぱちくり瞬かせる。それからひどく不安と怪訝を綯い交ぜにしたような表情をして、一歩大きく後ずさった。


「……今、私の隣にいるのって、本物のユイ先輩ですか?」


「なに言ってるの、どこかに頭ぶつけた?」


「あっ、ユイ先輩だ」


 いったい今のどこで俺だと判別したんだろう。


「先輩って普段口数少ないのに、私の前だとたまに別人みたいな鋭い切り返ししてくるじゃないですか。結構な切れ味でバッサリと。だからそうしおらしくされると、どうにも調子が狂っちゃいますね。あはは……」


「……そう?」


「自覚ないんですか。や、それもまた先輩らしいですけど」


 まあたしかに言われてみれば、小鳥遊さんの前では自然と言葉が出るかもしれない。

 他の女子やクラスメイトには、基本的に「うん」や「いや」しか返さないのに。

 例外なのは、幼なじみの隼と──ああ、榊原さんくらいか。我ながらわかりやすすぎるな、とは思うが、こればっかりは無自覚なのでどうしようもない。


「なんというか……小鳥遊さんは、たぶん、興味深いんだと思う」


「へ?」


「先が読めないから」


 人を見ると、大抵その人がどんな色かわかる。描くならこんな色かと、瞬時に変換される。あの色とあの色を混ぜこんだような人だなと、俺の他人に対しての第一印象はすべて『色』で定まっているのだ。

 そして頭のなかで変換された色味を、俺はこの六年、鉛筆一本で表現してきた。

 だが、小鳥遊さんは、そもそもの『色』がわからない。

 初めて会ったときから今日までずっと。

 描いてみたいと思うのに、どうにも嵌らない。一向に掴み切れずにいる。力量が足りないのかと疑ったりもしたが、きっとこれはそういう問題でもないのだろう。


「小鳥遊さんは、俺の常識に当てはまらない。それがすごく、面白いよ」


「え~……それ、褒めてます?」


「さあ、どうかな」


 きっと小鳥遊さんの色がわからないのは、彼女がモノクロの世界に似合わないからだ。白と黒、そしてその中間色ではとても表現しきれないほど、鮮やかだから。


「……うん。まあ、どっちでもいっか」


「そう。どっちでもいい。そこは重要じゃないからね」


「はい。それで話を戻しますけど……私、ユイ先輩が運動得意じゃないことくらい知ってますよ。知った上で見たいんです。むしろ、そんなユイ先輩が気になる」


「物好きだね」


「どんな過程でも結果でも、先輩は変わらず先輩でかっこいいから。それこそ私にとっては、徒競走のゴールの順番なんてさして重要じゃありません」


 なんてことないように言っているが、相当ハイレベルな口説き文句だ。

 思わず小鳥遊さんを凝視してしまいながら、俺は鈍った思考をフル回転させる。情けないことに、こういうとき、なんと返すのが正解なのかわからない。


『大好きです! ユイ先輩』


 ──初めて出会ったときから、小鳥遊さんは躊躇いもせずに好意を伝えてくる。

 だが、一方で『付き合ってほしい』とは一度も言われたことがない。まるで挨拶のように『好きだ』と伝えてくるばかりで、結局この一年、なんの発展もなかった。

 好きだから、付き合う。

 そのイコールが成立していなければ、気軽に付き合ってはならない。

 ──そう榊原さんで学んだ俺としては、正直この状況は甚だ疑問だった。

 残念なことに、彼女が望んでいることを正しく察する能力は俺にはない。

 けれど、俺の勘違いでなければ、おそらく小鳥遊さんは日々好きだと伝えてくるわりに、それ以上のことを望んでいるわけではないのだ。

 ましてやこちらの気持ちも、彼女はそこまで重要視していない。

 なんだったら嫌われてもいいと思っている節もある。こちらがなにか動けば、一歩でも踏み込めば、そのぶんだけ離れていってしまいそうで──。

 たぶん、俺は怖いのだろう。

 彼女との関係が変わってしまうことが。

 彼女と過ごしてきた心地いい時間が終わってしまうことが。

 万が一、好きが恋愛的な好きではない可能性も捨てきれないからなおのこと。小鳥遊さんのことを意識しているからこそ、俺は、彼女の言葉から逃げている。


「……あの、さ」


「あ、もうこんな時間! 私、帰らなきゃ」


 ふとスマホの時刻を確認した小鳥遊さんは、慌てたように立ち上がった。

 問いかけようとした言葉が行き場を失って引っ込んでいくのを感じながら、俺も時間を確認する。

 四時五十八分。夏を目前に控えたこの時期、だいぶ日が伸びてきたおかげで、部活の終了時間はだいたいどこも六時過ぎだ。美術部も例に漏れず、平日の放課後は毎日のように日灯し頃まで筆を走らせるのが通例だった。

 ──いつもは、俺が終わるまでいるのに。

 なんて、まったくもって俺らしくもないことを思う。なんとも言いようのない寂しさを募らせながら、俺は後片付けをする小鳥遊さんを目で追った。


「……まだ早くない?」


「今日はちょっと用事があるんです。約束してて」


「約束?」


 ほら、と小鳥遊さんは証拠を提示するように手の甲を見せてくる。


『五時十五分、愁、迎え』


 ──愁とは名前だろうか。いったい、誰の。

 一瞬だけ胸の内をじわりと渦巻いた黒い靄。そんな醜い感情を抱くことに自分で驚き面食らう。詳しく聞きたいような、聞きたくないような複雑な心境で「へえ」と小さく答えた俺に、小鳥遊さんは陰りのない笑顔で振り返った。


「じゃあ先輩! また明日!」


「……うん。気をつけて」


「先輩も、集中しすぎて真夜中までいるとかやめてくださいね! 今日は私、いつもみたいに連れ戻してあげられませんから」


 思わず、その言葉に意表を衝かれた。

 連れ戻す、とは沈んだ状態から俺を持ち上げることだ。

 そういえば小鳥遊さんが入部する前は、絵を描くことに集中しすぎて気づいたら夜中だったことがあった。一度ではなく、数回。学校の屋上ならまだしも、ふらりと学校を出て目の付いたところで絵を描いていると、わりとやらかしがちなのだ。

 そのたびに俺は行方を探されて、危うく警察沙汰になりかけたこともある。まあ、大抵は過保護な兄が必要以上に騒ぐからいけないのだが。

 ああでも、そうか。思い返せば、ここ一年はそういうことがない。

 本来の終了時間に合わせて切り上げて、あとは家のアトリエで描く、という規則正しいルーティンが確立されている。


「……そうか。いつも小鳥遊さんがいたから、俺は時間を忘れずに……」


 彼女とは家の方向が違うため、一緒には帰れない。けれど、毎日部活を終えた後は校門まで一緒に歩く。その道すがら、何気ない話をする。

 そこまでが日常だ。今日はそんな日常がないから、こんなに寂しいのか。

 なるほど。そんな小さな時間の積み重ねで、俺は小鳥遊さんに惹かれたのか。


「俺ね、小鳥遊さん。君がいなかった四月の間、実は一度も終了時刻を過ぎるまで絵を描いてたことないんだよ。むしろ早めに切り上げてたくらいで。……だから心配ないよ、って言えたらカッコいいんだろうけど」


 あの一ヶ月は驚くほど集中できなくて、絵がまったく描けなかった。あんなことは春永結生の人生では初めてのことで、正直途方に暮れていたくらいである。

 だというのに。


「たぶん、ね。俺、小鳥遊さんがいる日常に、慣れすぎちゃったんだと思う。ほら、君が帰ってきたとたん、嘘みたいに描けるようになったでしょ」


 さすがにそれが示す意味をわからないほど、俺も鈍感ではない。


「だから、ごめん。今の俺、きっと君がいないとまた沈んじゃうんだ」


 小鳥遊さんは呆気に取られたように硬直して直立している。その困惑に染まった表情すら可愛く見えて、俺は思わずふっと口許を綻ばせた。


「大丈夫?」


「っ……、いや、ちょっと、ダイジョバナイかも、です」


 はっと我に返ったのか、おろおろと視線を彷徨わせた小鳥遊さん。そのまま一歩、二歩と小さく下がって俯くと、上目遣いで恨めしそうな視線を送ってくる。


「お、遅くなったら先輩のお家の方も心配しますよ……」


「うん。だから、連絡して」


 俺はスケッチブックの端っこを切り割いて、素早く自分の連絡先を書きこんだ。

 携帯番号とメールアドレスとチャットのID。SNSでもやっていればもっと連絡手段が増えたのかもしれないが、ひとまずはこれで充分だろう。


「時間になったら連絡して教えてよ、いつもみたいに。俺が沈んでても、たぶん小鳥遊さんからの連絡なら気づくから」


 切れ端を渡すと、小鳥遊さんは面白いくらいにぽかんとした。

 前に連絡先を知らないと言われたとき、なんでそんなことを見落としていたのかと愕然とした。いくら俺が電子機器に興味がないとはいえ、あまりに盲点だった。

 なかなかタイミングが掴めずにいたものの、きっと不自然ではなかったはず。


「え、あの、いいんですか? こんな貴重なの……」


「貴重って。部長の連絡先知らない方がおかしいかなって思っただけ。ものすごく今さらだけどね」


 普段、俺はあまりスマホを見ることはない。連絡してくるのは隼くらいだし、してきても大して重要なことだったためしがないから、見る必要性を感じなかった。

 でも、これで放課後の活動時間以外の小鳥遊さんとの繋がりができる。

 その小さな糸口でさえ、俺にとっては特別だ。

 着信音って変えられるんだっけ、と頭の片隅でぼんやり考えていると、小鳥遊さんは感極まったように涙を滲ませた。


「先輩……っ! ありがとうございます! 大事にしますっ! 」


 さすがにぎょっとして、俺は慌てながら首を横に振る。


「い、いや紙は大事にしなくてもいいから、ちゃんとスマホに登録しておいて」


「はい! 今すぐにっ!」


 急いでいるのではとは思ったものの、なかなか嬉しそうにスマホへ俺の情報を打ち込んでいるから口が挟めなくなった。

 この子はどうも、目の前のことしか見えない性質にあるらしい。


「登録しましたよ、先輩! ほら見て、私のアドレス帳に春永結生って名前が!」


「うん、わかったから落ち着いて。なんでもいいから連絡しておいてよ。俺も君の連絡先登録したいし」


「うう、先輩に連絡していいとか幸せすぎて死んじゃいます……」


「大げさ」


 まったく、と呆れながらも、その無邪気さにはくすりと笑みが零れる。

 コロコロと毬が転がるように変化する表情も、淀みひとつなく素直で真っ直ぐなところも、本当に見ていて飽きることがない。

 好きなんだな、と、そう思う。

 ……ああ、なんだか無性に恥ずかしくなってきた。


「引き留めてごめん。待ち合わせの時間、大丈夫?」


 誤魔化すように促すと、小鳥遊さんは「へ?」となぜかきょとんと目を瞬かせた。

 けれど、すぐにハッと自分の手の甲を見て顔色を変える。「ああ愁!」と慌てたように叫んだ彼女は、わたわたとスマホを鞄にしまいながら顔を上げた。


「先輩、すみません! ちゃんと連絡しますからっ」


「あぁ、うん。えっと、なんかごめんね」


「いえいえ、嬉しかったです! それじゃあ、また明日!」


 なんとも危うい足取りで駆けていく姿を見送りながら、俺は苦笑した。


「……忘れんぼうで慌てんぼうの小鳥遊さん」


 小鳥遊さんのそばにいると、不思議と心が安らぐ。

 インスピレーションが湧いてくる。楽しいとか、嬉しいとか、俺が鈍くてなかなか感じられない感情を次から次へと教えてくれるから。

 この気持ちはきっと、みなが言う恋というものなのだろう。

 そう見当こそついているものの、正直どうしたらいいのかわからない。

 なにせ、誰かを好きになったことが初めてだから。接し方も、扱い方も、心の保ち方も、なにもかも未知の領域すぎて、どうにも惑いそうになる。


「……愁、か」


 たったひとこと小鳥遊さんがそう呼んだだけで、顔も名前も知らないその名前に嫉妬してしまうくらいには、俺は彼女に惹かれてしまっているのに。


 ──恋愛とかいうものは、人形の俺にはとても、難しい。


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