第6章 「先輩は、私がいないと寂しいですか」1話
夏休みが明けて学校が始まっても、私は変わらず入院したままだった。
眠っている時間が日に日に増えていくなか、ひとつだけ新たに始めたことがある。
「あら、鈴ちゃん起きてる。また絵、描いてるの?」
ひょこりと病室に顔を覗かせのは伊藤先生だ。リクライニングベッドの背を半分ほど起こし、腰だけ寄りかかりながら絵を描いていた私は曖昧に相好を崩す。
「もう絵を描く理由はないと思ってたんですけどね……」
「理由?」
「うん、だって去年が私にとって最後のコンクールだったから。次のコンクールにはもう出せないだろうなってなんとなくわかってたし。それが終わったら描く理由も気力もなくなっちゃって」
下書き途中の紙の表面をさらりと撫でた。今はまだ構想中のため、ただのスケッチブックだけれど、実際に絵具を垂らすときはキャンバスになっているだろう。
水彩紙ではなくあえてキャンバスを選ぶのは、人に贈るものだからだ。
「……私ね、先生。本当はすごく怖いんだ」
「……うん」
先生は私のベッドに腰掛けながら話を聞く体制になってくれる。
やっぱり先生はたくさんの患者さんを診てきているだけあって、場の空気を読むことに長けている人だ。
忙しいだろうに、こんな私の戯言にも真剣に向き合い付き合ってくれる。
きっと先生にしかこぼせない弱音があると、わかっているからだろう。
それは誰よりも私の体のことを理解している立場ゆえのもので、先生自身、こうして患者と話すことも仕事なのだと前に言っていた。
つねに多くの命と向き合う仕事の大変さは、私にはわからないけれど。
きっと先生は、こうして多くの患者を救ってきたのだ。命と共にある患者の心を。
「どうしてもわからないんです。自分が死ぬってこと」
「うん」
「失うことは、もう慣れたはずで。でも、このさきにある死だけは、どうしても実感できなくて。それが無性に怖くなるんです。実感なんてできない方がいいに決まってるのに変ですよね」
おかしいな、と思う。
この五年、片時もそれを忘れたことはないのに。
いつだって目先にある死を自覚して、受け入れることに専念してきたはずなのに。
「変、ではない。すごくね、難しいことだと思うよ。誰だって命が尽きる瞬間のことなんてわからないし、怖くないわけがないんだから」
先生は少し寂しげに目を細めながら、ふるふると首を横に振った。
「経験したことがないものは誰だって怖いもの。私は医者だから日々患者さんと一緒に生死と向き合って生きているけど、それでもわからないわ。こんなこと、あまり大きな声で言えないけどね」
「ふふ、先生でもわからないんじゃ私にわかるわけないですね」
思わずくすりと笑ってしまう。先生は決して表面上の慰めを言わない人だ。病気のこともすべて包み隠さず、私がわかるように教えてくれる。だから、信頼できる。
先生はどこかホッとしたように表情を和らげながら、私の絵を覗き込んできた。
「なにか描きたいものがあるの?」
「はい。久しぶりに評価を気にせず描いてるものだから、すごく楽しいです」
「そっか。それはよかった。心の持ちようは体調にも関わってくるからね」
「本当に。病は気からって言葉、ほんとに馬鹿にできないなってずっと思ってますよ」
それからしばらく先生と他愛のない話をした。先生が仕事に戻ったあともスケッチブックに向き合っていたら、いつの間にか眠ってしまったらしかった。
そして起きたとき、いちばんに見つけたのはユイ先輩の残り香。
机の上に置いてあったメモ用紙に記された『おはよう。寝顔、ごちそうさま』という先輩の癖のない綺麗な字。
今日も来てくれたんだと素直に嬉しくなって、けれど起きていなかった自分が心底嫌になって、なぜか無性に、どうしようもなく泣きたくなってしまった。
「……死にたくない、なあ」
こんなにもつらいのは、それほど先輩が好きだからだ。
ユイ先輩は、私の光そのもの。
いつだって私が手を伸ばす先には、ユイ先輩がいた。
深い深い水の底から見上げると、水面越しにはいつもこちらを見下ろす月がいた。
その月は、遥か遠く、届かないけれど、静かに私を導いてくれる存在だった。
今までも、きっとこれからも。
「これからも、先輩とずっと、生きてきたかった……っ」
夜が来るたび、朝が来るたび、私はノートを捲ってユイ先輩との思い出を記録する。
思い出せる限りを思い出して、明日へ繋げるのだ。
忘れたくない。ユイ先輩と過ごした時間は、絶対に忘れたくないから。
だから、これは絶対に完成させる。
たとえぎりぎりになっても。
たとえ私の命と引き換えにしても、必ず。
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