夫婦と云ふものは(全年齢向け)
千代村 若明
第1話
中野から十五分、神明宮の裏手に八重の自宅はある。
「やかましい連中だ」
八重の夫、清は居間に入るなり鬱陶しそうに襟巻きを脱ぎながらそう言った。
「子供はまだかなんだとしつっこく聞きまわして来やがって」
ぶちぶちと愚痴を垂れ流す夫から外套、鞄と受け取った八重は慣れた手付きでそれらを仕舞っていった。
「そんなに人ンちの子供が気懸りなら、こさえる時間をくれってんだ」
「そんな事、ほかで言わないで下さいよ」
夫のあけすけな物言いを八重は眉を顰めて諌めた。
「構いやしないよ。下品な連中なんだから」
清は気にした風もなく、さっさと部屋着に着替えながらそう返した。
八重が濡らした手を拭きながら居間に上がると、部屋中に焙じた茶葉の香りが漂っていた。
「茶が入ったよ」
「ありがとうございます」
湯呑みの口を鼻に近付けてほうと香りを鼻腔に入れれば、寒さと緊張で力んでいた躰が緩んだ。
夫が手ずから焙じてくれる茶が八重は好きだった。この香りを嗅いでやっと自分の家に帰って来たと実感する。
「風呂は出来てんのかい?」
「すぐにでも入れますよ」
茶を入れてすぐに居間の隣にある仕事部屋へ引っ込んだ清に顔を出して答えた。
自宅に内風呂がつくことが一般に浸透し出したのはここ数年のことだった。夏の晩に銭湯へ通うのも風情があるが、年の暮れになると外に出ずに風呂に入れるありがたみが身に沁みる。
「そりゃ良かった。お前さん、先に済ましてきちまいな」
「夫より先に入る妻がありますか」
ツンと澄まして八重は答え、残りの家事を済ませようと背を向けた。
ところが、大きな手が背後から伸びて八重の両手を取った。
「こんなに冷えて」
八重に覆い被さるように清は身を屈めて囁いた。
夫の美しい顔に、彼の前髪が陰を落とした。
スッと流れた鼻梁に薄い唇、涼しげな目元に泣きぼくろが箔を付け、象牙色の肌が艶かしい清は、誰が見ても整った容姿をしていた。
八重も清に比べて見劣りするほどの容姿ではないが、女にしては色の濃い自分の肌が嫌いだった。
今も、夫に握られた自分の手が彼より暗くなくてホッとしたのだ。
「私はまだやる事が残ってるから、ゆっくり入っておいで」
清は片手で妻の両手を握ったまま親指でさすった。
「・・・はい」
八重は大人しく夫に従った。
清には、伊佐木清二という作家としての名がある。
リアリティのある人間模様の中にミステリを引っ掛けるという、最近では社会派推理小説というらしいジャンルが清の得意とするものだった。ミステリそのものに主眼を置くというより、小さな謎によって人間の隠れた本性の怖さ、そしてそれを越えた人の優しさが垣間見えるという、群像劇に旨を置いた作品傾向があった。
現在は「佐々木平八郎シリーズ」という時代ものを書いている。
頑なに自分の書いた小説を読ませてくれない清に隠れてこっそり読んでいるが、八重にはあまり詳しいことは分からないので全ては雑誌の批評の受け売りだ。
今日は清がお世話になっている出版社の忘年会があった。
夫はああ言っていたが、酔った口さがない連中が何を言っても八重は気にしなかった。
それに、子供については無理もないことだと思う。
*
八重と清が結婚したのは今から七年前の昭和31年。
出会ったのはそれよりさらに二十年以上前のことで東京は向島、玉の井で二人は生まれ育った。幼馴染だった。
初対面がいつだったかなんてお互い覚えていない。
清の母は横浜の方の芸者で飛ぶ鳥を落とす勢いの二枚目歌舞伎役者と懇ろになって清を産んだ。
清はいわゆる隠し子、妾腹だ。
養育費を定期的に貰っているとはいえ、いつ途絶えるとも分からないそれを命綱にするのは無謀だと考えた清の母は冷静で、そのまま仕事を続けた。だから清は夕方から深夜まで、あるいは朝方までの長い時間、母のいない家で過ごした。
一方、八重は左官の娘として産まれた。
父は腕の良い職人だったが、酒を飲むと手の付けられないほど酒癖が悪い男で、たびたび母に暴力を振るった。その父の気性の荒さを受け継いだ八重もまた気が強く、母に暴力を振るう父に反抗したので、いつか娘にも手を出されるのではと危惧した母は、父が酒を飲み始めると清の家に八重を寄越した。
だから清と八重は、物心つく前から二人きりで夜の赤提灯が灯る街で過ごした。清の母が作り置いたものや八重の母が持たせたのを夕飯にするか、または清の母に握らされたお金を持って顔馴染みの居酒屋におばんざいを食べに行った。
それ以外はお互い好きに本を読んだり、八重が清を無理矢理おままごとに巻き込んだりして遊んで過ごした。
小さな頃から整った顔立ちの清は、我は強くなかったものの決して自己主張が薄い訳ではなく、ボーッと頷くばかりかと思えば、時に大人も舌を巻くような理路整然とした口振りで自分のしたいように通した。八重も大きな瞳に強い意志を灯し、僅かに吊り上がった目尻が作る勝気な雰囲気の通り、簡単にはその辺の大人に負けなかった。二人は常に何かを言い合い、時に周りをうんざりさせながらも育っていった。
ところが昭和14年、日本は世界大戦へと突入した。
国民の間では依然として生活はさほど変わらず、八重や清などの子供たちにとっては戦争などというものは新聞が伝える娯楽であった。
しかし、戦争が激化すると国民の生活は一変した。大都市での集団疎開が決まり、八重は母方の親類の田舎へ、清は集団疎開で、生まれ育った東京を離れることとなった。
「キヨ、ちゃんと生きんのよ」
忙しく行き交う人の群れと汽車の音が煩わしいのか、清は眉を顰めたまま俯いて八重の声を聞いていた。
「あんたは、なまじ顔が良いんだからそうやってボーッとしてると、人攫いに攫われちゃうわよ」
「うん」
この年、清の母は風邪を拗らせて亡くなった。まだ三十代だった。彼女には身寄りがなかった。同じ頃、清の実の父親の家では異母兄が戦地へ飛び、本妻が清を引き取ると申し出たのだが、彼は後見人代わりの大家と共にあの色街に居続ける事を選んだ。
だが、今やそれも叶わない。
「じゃあね、さようなら」
「うん」
八重、九歳。清、十歳の昭和19年。
それから八重と清の人生が交わるのは随分先のことになる。
敗戦を迎え、東京は焼け野原となった。
一度は母と二人で東京へ戻ったものの、戦地から戻った父の酒癖はさらに悪くなり、母はついに愛想を尽かして八重を連れて田舎へ戻った。
しかし、田舎での暮らしは八重にとって窮屈だった。東京訛りというだけで気取っていると陰口を叩かれ、さらには女だてらに勉強なぞと古い慣習を引きずる母方の親類によって高校進学さえ危ぶまれた。そんな時現れたのは、母と八重が出て行って以来、酒をぴたりとやめていた父だった。
「もう二度とお前たちに手をあげない。戻って来てくれ」
珍しく身綺麗にして母と八重が身を寄せる親戚宅まで頭を下げに来た父に、母は最初冷たかったが、最終的には渋々といったテイで了承した。実のところ、生まれ育った土地でもない田舎での暮らしに母も疲れ、また、愛想を尽かしたと口では言ってもそこは一度惚れ合った男女の仲。ウキウキと荷造りをする母の満更でもなさそうな横顔を見て、八重は不思議なものだと思った。
つまり、八重と母が玉の井に戻ったのは八重が十五のことだった。
しかし、清がいた住居にはもう別の人間が住んでいた。後見人代わりの大家が亡くなり、一人暮らしを許された清は同じ町内で住まいを移していたのだ。
あれほど仲良く育ったと言うのに、八重自身、清とは年賀と暑中見舞いのやり取りくらいしかしなかった。葉書に書かれた住所に会いに行っても清は不在で、会うことは叶わなかった。
そんな事が三度も続けば、会いに行こうという気は失せる。
とはいえ、同じ町内で暮らしていて向こうはどうか知らないが、同級生と歩く清の姿を八重は一方的に何度か見掛けた。姦しく話すわけではなく、談笑する同級生たちの一歩後ろを本を読みながら歩く澄ました少年。
それが清だった。
六七歳の頃は同い年だと思っていたくらい、背丈の差がなかった二人だったけれど、その頃には清はもう同級生より拳ひとつ分、遠目に見ても八重より頭ひとつ分以上大きく見えた。幼げにも綺麗な顔だと思っていたが、うまく美少年に成長したものだと何故か八重は感心した。八重の中では、わざわざ友人と歩いてるところを声を掛けられたら嫌だろうと気遣って見て見ぬふりをした気でいるのだが、本音は、美しい中にも徐々に開き始めた男らしさの影を見て緊張で声が掛けられなかったというのが正しい。三年間もそんな日々が続いた。
八重が十八の年。
女学校に通っていた八重はこの頃、学校からの帰りが遅くなっていた。不良少女になったわけではない。この頃は女子の大学進学率も上がって来たとはいえ、それはエリート層の話であり、八重を含めた多くの女学生の進路と言えば就職か結婚だった。八重も父の知り合いの工場に就職する予定で面接の練習などをしていた。
その日は七月の中旬。
暗くなり、赤提灯とネオンが交差する街を歩いていると見知らぬ男に声を掛けられた。交番を教えて欲しいと言うから案内してやったのに、相手の正体は暴漢で、小柄な八重はあっという間に路地裏に連れ込まれた。
「騒ぐんじゃねえぞ」
きらりと光るものを見せ付けて腕を縛られれば、さすがの八重も反抗出来なかった。
びりりと制服を破く音がして、息が止まった。
迂闊だった。
目を瞑ってみると同級生の後ろを歩く清の横顔が浮かんだ。
一度でいいから、正面から顔を見たかった。
話がしてみたかった。
きっとことが終わったら、清に二度と会わないだろう。綺麗な清の前に出たら、余計惨めに感じるだろうから。
「何してやがるッ」
怒気を孕んだ男の声がした。
でも、それが清の声だと八重にはすぐに分かった。
「か、関係ねぇ奴ぁすっこんでろ!」
八重をすっかりいいようにしようと通りに背を向けていた暴漢は、咄嗟に彼女を抱き抱えるようにした。それが気持ち悪くて、八重は「いや!」と悲鳴を上げた。
「大アリだよ!」
清が何かを手に大きく振りかぶった。暴漢は鈍器で殴られたのかよろけた後、さらに蹴り飛ばされて地面を転がった。最後に手を振り合った時より、大きく男らしい腕がしっかり八重を抱き留める。
「こいつは負けん気は強えが、同じくらい気の優しい女でね。傷付けて貰っちゃ困るんだよ」
暴漢は刃物を拾おうと屈んだが、それを清の友人が取り上げた。逃げる犯人を追い詰めて、彼らはついに暴漢を交番へ差し出した。
その間も八重は清の腕の中で震えていた。
「辞書二冊が役に立ったな」
清がふざけるようにそう言ったが、何も反応出来なかった。
「大丈夫かい、八重」
「・・・っ」
シャツを握って動けずにいる八重を、清はずっと抱き締めてくれた。大きな温かい手が八重の背中を優しく、規則正しく叩いた。
昭和27年、七月のこと。
この年に清が八重の家を訪れ、二人が結納したのはそれから四年後の昭和31年。
清の大学卒業を待ってのことだった。
*
「なんだい、緊張してんのか」
初夜。布団の上でガチガチに躰を強張らせた八重を清は揶揄った。
「大丈夫、死にゃあしねえよ」
すり、と頬を撫でた清の手が八重の後頭部に回り、二人は口付けをした。
「・・・あんたは、初めてじゃないわよね?」
流れるような口付けに驚いて、八重は咄嗟にそう言ってしまった。清は「野暮な女だねえ」と苦笑いした。あぐらをかいた脚の上に頬杖をつく清が上目遣いに八重を見た。
「どうしてそんな事、知りたがる?」
「だって・・・不公平だもの」
八重は両手を握り締めて、恥ずかしそうに言った。
「不公平?」
「一緒に、いたのに」
ずっと一緒に。
いじけるように零した八重を、清は抱き締めた。
「馬鹿だね」
「だって、」
「そう言うお前さんはどうなんだよ」
清の綺麗な顔が八重を覗いた。八重は抱き締められた恥ずかしさを誤魔化すようにムッと眉を寄せた。
「ないわよ。あったらアンタと夫婦になってないでしょ」
「そりゃそうか」
清は笑って八重を抱き締めたまま躰を揺らした。適当に誤魔化されたような気がして、キヨは清の腕の中から見上げた。
「キヨ」
むぅと大きな瞳に力を入れて睨む諦めない八重に清は苦笑いで白旗を上げる。
「・・・色街に十代の餓鬼が独りでいたら、アッという間に食われちまうに決まってんだろう?」
記憶にない十代前半の清を思い描く。
細い躰、蛹から羽化する美しい透明な子ども。零れ落ちてしまいそうな儚さが、今はしっかりと八重を抱いている。
「でも、今の私はこの上なく幸せな男に違いない」
八重の顎を持ち上げ、清は深い口付けをした。
口付けをされるのも、こんな風に触れられるのも初めてだった。
怖くなって清の浴衣を握ると、やっと唇が離れた。
頰を上気させて息を切らす八重を見て、清は彼女の唇を撫でた。
「綺麗だよ、八重」
清は眩しそうに言った。
するりと撫でて肩を抱き、八重を優しく押し倒した。
「キヨ・・・」
八重の瞳が不安に揺れる。
清は八重の頭を撫で、触れるように瞼にキスをして、「優しくする」と言った。
そんな清に騙された自分が愚かだったのか、はたまたこれで手加減されているのか、何も知らない八重は混乱を極めた。
嵐のような未知の感覚に晒され続けて、「もう止めてくれ!」と叫び出したい気持ちをぐっと抑え、ひたすらに耐えた。
それからややあって。
一息吐いた清が髪をかき上げて、微笑んだ。
「八重」
大変な思いをした八重だったけれども。
その美しい唇に発せられる音が自身の名前であることに、これほど嬉しく思ったことはなかった。
*
あれから七年。
子供を授からない事で親類縁者に悪し様に言われることもあったが、清が必ず守ってくれたので、八重は辛くなかった。
今日も新年会で出版関係者から心無い言葉をぶつけられたが、清は堂々と、
「それがお宅とどう関わりありますか?」
と言って八重を庇ってくれた。
小さな頃から幼馴染で、七年も夫婦をやっているのだ。
大事にされていないなどと、憂う余地もない。
それでも。
「清さんの子供がいます」
一週間前、清が不在の自宅に、一人の女が訪ねて来てそう言った。
「おやすみ、八重」
「・・・おやすみ、なさい」
仕事机に向かう夫の背中を見ながら、八重は眠りについた。
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