鉄騎を駆る者達
ホンダ技術工業が100%出資で建てたホテルは、日本全国の主要なレース場近辺にある。そしてそれは、他のメーカーも同様だった。
「あら、本田千晶さんではないですか? お早いのですね」
歩けば10分余りでサーキットの関係者入場口に到達する。
現在時刻は9時。13時のレーススタートを考えれば、千晶の入場はレーサーとしては随分と早い。もっとも、千晶は毎回レースの時はかなり早くレース場入りするので、これはどちらかと言えばルーティーンに近い行為だ。
「あら、
クルリと声の方へと向き直った千晶は、然程驚いた様子もなくスムーズに受け答えする。そこには、白のワンピースに日除け傘を差した、お嬢様然とした女性が立っていた。
非常に美しい艶を出す髪は光の加減で紫を宿したように見え、それが肩口で綺麗に切り揃えられている。優しく柔和な笑みを湛えているその瞳には深い青色が浮かんでいた。
ややゆったり気味のプリンセスサマードレスは陽に映えて眩しく彼女の体型までは明確にしていないものの、胸の部分はかなりボリュームが伺えた。
全体的に柔和なイメージを醸し出しているのは、彼女の柔らかな笑みや体型、所作からだけではなく、彼女の性格に起因しているのかも知れない。
突然話し掛けた方の香蓮に驚かそうと言う意図があった訳ではないので、会話はそのまま続いてゆく。
「おはようございます。……ええ、本日は1日レースの為にスケジュールを空けておりますから。さりとて、早く起きるのを毎日の日課としておりましたので、勝手に目が覚めてしまいますの。無為に時間を過ごすのでしたら、体をほぐすなりマシンの様子を見るなりしようかと思いまして」
㈱スズキ自動二輪工業資立
丁寧な物腰で、その話し方には厭らしさや棘などは含まれておらず自然体。実にお嬢様然としていると言って良いだろうか。それもその筈であり。
「流石は、藤堂グループのご息女ですね。淑女としてご立派です」
藤堂香蓮は、千晶の言った通り経済界に名を馳せる藤堂グループ会長の孫娘だったのだ。昔の財閥の如く湯水のように資産を使える訳ではないが、それでも富豪である事に変わりなく、香蓮のレース活動を支援していた。
会長一族の娘であるにも拘らずバイクレーサーとしての実力も一級品であり、昨年の日本GP250では千晶を押さえて優勝した経験もあった。
「それほどではございません。それよりも千晶さん、立ち話もなんですので、宜しければ中でお茶でも致しませんか?」
「ええ、時間もありますし喜んで」
実のところ、千晶も早くやって来てはいても特にする事はなかったのだった。香蓮への返答も社交辞令ではなく、本当に時間を潰すに打って付けだったからだ。
コース上では互いの意地や矜持に掛けて競い合う間柄でも、本来はまだ学生である。たとえライバル関係であっても、殆どはこのように和やかな関係を築けているのが殆どだ。
もっとも、中にはそう割り切って付き合える者ばかりではなく。
「あら? 千晶に……香蓮じゃない? もう来ていたのね?」
サロンで談笑していた千晶に声を掛けて来たのは、ヤナハ発動機資立第一宗麟高校モーターサイクルクラブ第1部部長、
赤く見える瞳が爛々と輝いているが、そこには敵意など微塵も感じられない。……もっとも、レース本番ともなればその
この場にいる誰よりも魅力的なスタイルを、少しはだけたシャツで強調している様に見えるのは意図的なのか無意識なのか。兎に角、まるでモデルか有名人と思われるほどの艶やかな出で立ちをした彼女が、ソファに座る千晶たちに気安く近付いて来た。
「あら、雅。あなたも随分と早く来たのね? あなたならギリギリに来ると思っていたわ」
ただ、気軽に話しかけるのは何も雅の方だけではない。千晶と雅は中等部よりの顔見知りであり、いわば長年の友人でありライバル関係だと言って良いだろう。
「あん、私はそう考えてたんだけどね。この子がどうしてもって言うもんだから……」
千晶の疑問に答えつつ、雅が自分の背後に視線をやる。そこには、まるで隠れる様に立っている気配の薄い少女がいた。
「小清水さん。あなたも来ていたのね?」
「……おはよう、本田さん」
明るい赤味掛った髪は癖ッ毛の嫌いがあるのか短くしていても所々跳ねている。褐色の肌に赤茶色の瞳だけを見れば、どこか千迅に似ているだろうか。しかし圧倒的に違う部分、それは……。
「もう、
雅が言ったように、
その理由はいくつかあり、まずはその外見だろうか。細身でスレンダーな……と言えば良い様に聞こえるのだが、その実はライダーとは思えない程に痩せていた。
レーシングライダーは皆それぞれに体を鍛えており、一般女性と比べればどこか体格が良い。それが引き締まった身体となったり筋肉質となったりは様々な訳だが。
しかし明楽の場合はどう見ても全体的に細く、長時間モーターサイクルを操縦出来る体力があるのか心配になるほどだ。手足などは、かなり重量のあるバイクを支えられるのか疑問しか抱けない。
そして何よりも彼女をして暗く感じさせているのは……その眼だった。
全体的にやや屈み気味な立ち姿、俯き気味な顔もそうなのだが、何よりもその瞼が半眼に閉じておりどこか睨め付けている様にしか見えなかった。
「おはよう、小清水さん。今日はお互いに頑張りましょうね」
そんな明楽に対して、千晶は普段と変わらない表情で気さくに声を返した。
「……ええ、頑張りましょう。そして……あなたには負けないから」
そして実を言えば、小清水明楽は本田千晶に対して密かなライバル心を燃やしていたのだった。……もっとも、全く隠せてはいない訳だが。
「私も、負ける気は無いですから」
余談ではあるが、千晶は昨日の予選を通過したライダーとその順位は全て頭に入っている。
昨日行われたタイムトライアルの結果、千晶は最前列予選2位なのだが、対して明楽は13位。今回のこのレースで考えれば、とても太刀打ち出来る条件ではない。
それでも明楽は勝負を挑み、千晶はそれを気にする事無く真摯に受けて応じた。
その後は三者三様に別れ、その場はお開きとなった。……のだが。
レースは13時より。そして、その1時間前にはフリー走行が30分だけ用意されている。
各ライダーはそれぞれのピットでマシンの最終確認や綿密な打ち合わせを行っている時間帯だ。そして千晶も、更衣室でライダースーツに着替えピットの方へと向かっていた。
「……おい、本田」
そんな彼女を、やや荒々しい声音が呼び止める。無論、千晶にはその声も聞き知ったものだ。
「あら、西島さん。こんな所で会うなんて、奇遇かしら?」
ユックリと振り返るとそこには、やや小柄ながらも挑発的な赤目を吊り上げてじっと見つめる少女が立っていた。日に焼けたかという程の浅黒い肌に、やはり日焼けして脱色してしまったような茶髪を見れば、レーシングライダーと言うよりもサーファーのそれだろうか。
低い身長にあまり凹凸の感じられない肢体を一見すると、新入生か下手をすれば中学生に間違えられるかも知れない。
「昨日の予選、見たぜ。やっぱ、はえぇなぁ……あんた」
攻撃的なのは何も雰囲気や視線だけではなかった。その口調にも、十分すぎるほど敵意が含まれている。
「あら、ありがとう。でも西島さん、あなたの4位も相当なものよ? 今年のカワサキのマシンはそれほど良い仕上がりなのかしら?」
対する千晶の切り返しを受けて、西島の眉がピクリと動き雰囲気もやや静まっていく。どうやら彼女は、あまり駆け引きや嘘が得意ではないようだった。
見た目通りの性格は、高校よりバイクを始めたキャリア不足からくる劣等感により、長くバイクレースに携わっている者たち全てに向けられていた。
それ故にか勝つ事に貪欲で、勝負事には一切の妥協が無い性格と言って良いだろう。
「ああ……。今年のカワサキは速いぜぇ……。私も、そして……亜沙美もな!」
喜久李の言葉、そしてその口から漏れ出た「亜沙美」という名に、今度は千晶が僅かに反応する。
「……そう。それじゃあ、コース上でそれを実証して下さい。……受けて立ちますから」
しかし、負けず嫌いなのは何もライバル達ばかりではない。穏便に話を済ませる事の多い千晶だが、彼女とてレースに……勝負に負けるのは誰よりも許せない性格なのだ。
そして、レーサーとは全員そう言う性格なのかも知れない。
「ああ、良いぜぇ。楽しみにしときな」
それだけを告げると、喜久李は自分のピットガレージの方へと向かって行った。
千晶はその背中を見送ると、小さく息を吐いて再び歩き出したのだった。
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