内緒の話

 怒涛のタイムトライアルも終了し、夕暮れのつくばサーキットは静寂に包まれていた。流石に9月も半ばへと差し掛かると、陽が落ちれば随分と涼しくなり秋を感じさせる。


「もうちょっとでポールポジションだったのにぃ。先輩、惜しかったですね」


 そして、サーキット近くにあるホテルでは本田千晶を中心にして、翔紅学園第一自動二輪倶楽部の面々がラウンジで談話をしていた。全員と言う訳ではなく、特に本田千晶と親しいメンバー……と言うより、千晶を目の前にしても物怖じしない面子が揃っていた。

 そうでなくとも、普段から千晶は近寄りがたい存在である。生徒会長にして才色兼備を兼ね備えた学園のマドンナ。圧倒的な存在感から全校生徒の憧れの的と言っても過言ではない。

 それに加えて自動二輪倶楽部の部長を務めているのだから、余程親しい仲であるか胆力が優れていないと、面と向かって相対する事すら難しいだろう。


「ちょっと千迅。それはちょっと先輩に失礼よ」


 気を遣うとか空気を読むと言う事に不慣れ……ではなく無頓着な千迅の発言を、紅音が慌てて窘める。


「まぁ……千迅だからねぇ」


「そんなデリカシーのある発言なんて、期待するだけ無駄よねぇ」


 そして、どこか茶化すようにわざと聞こえる声音で話をするのは貴峰と沙苗だ。


「でも、勲矢選手の最後のスピードは別格だったわねぇ……。あれはトルクを向上させて……? とすると、クランクが特別なのかギア比を変えているのかな? もしかしてスプロケットを……」


「もう……。またこのみちゃんは……」


 そしてメカニックの観点から考え出すこのみを目の当たりにして、裕子が苦笑していた。

 第一自動二輪部のほぼ全員が観戦に来ていたのだが、ここに集まったのはこの他に千晶と美里を合わせて8人と随分少ない。

 もっともこのつくばサーキットは茨城県にあるとは言っても埼玉県にほど近く、半数以上の部員は自宅へと帰っていた。また上級生の大半はメカニックやガレージ、ピットの手伝いなど雑務を熟しており、今日の激務と明日の事もあって早々に休んでいると言う理由もあったのだ。


「でもやっぱり、ポールトゥウィンに憧れちゃうよねぇ」


 そこでまた、千迅が蒸し返す様な台詞を口にする。どうにも彼女は、今日のタイムトライアルで千晶の叩き出したコースレコードに興奮していたのだった。紅音を始めとした他の面々は、また……と言うあきれ顔だったのだが。


「……と、下級生は言っているんだけど千晶、あなたはどう考えているの?」


 そこは上級生の寛容さだろうか。美里がその感想を千晶へと向けた。


「うふふ……そうねぇ。ポールトゥウィンを決められれば気持ち良いんでしょうけど、私はそこまで拘っていないわね。レースは本選の結果が全てだし」


 そして千晶から返って来たのは、判で押した様な定型文であった。本当なら、そんなつまらない返答なら場も白けようと言うものなのだろうが。


「流石に千晶がそう言うと説得力があるわねぇ」


 美里が口にしたように、その場の全員は誰一人としてそれが陳腐な一般論だとは捉えなかったのだった。全員が真面目な雰囲気で深く頷き納得している。

 誰でもない、本田千晶が言ったのだ。それも当然の事だろう。

 彼女は学園で圧倒的な人気を博していると言うだけでなく、多くのレースで実際に結果を出しているのだ。誰が異議を唱えられるだろう。

 あの千迅ですら、先ほどの自分の意見など無かったかのように感銘を受けている風な面持ちをしていた。

 ただし、千晶の話はここでは終わらなかった。


「それに……明日は問題なかったしね」


 その後に、何とも意味深な台詞をさらりと言ってのけたのだった。しかしその話しぶりが余りにも自然過ぎて、そこに違和感を抱いたのは僅かに……2名。


「じゃあ、?」


 美里もまた、どこか含みのある言葉を返した。

 作戦内容を知らなくとも、千晶の言動から何かを察する程度には付き合いが長く、更には皆まで言わなくともその考えに不安など無いと信用出来るほどには親密な関係なのだ。

 そしてもう1人は。


「流石先輩! 明日は万全ですね!」


 無論、千迅ではなく。


「そりゃあ、本田部長に隙は無いわよねぇ」「ねぇ」


 貴峰と沙苗でもなく。


「でもそれは、HRTも同じじゃない?」「……それは」


 このみや裕子でも無かった。


(……最前列ならと良いと言うなら……まさか明日は作戦を変えて?)


 速水紅音であった。洞察力が高く、万事色々と考え込むタイプでもある彼女は千晶の意味ありげな発言を聞き逃す事は無かったのだ。

 もっとも当然の話だが、では何を行おうとしているのかまでは知りようも無かったのだが。


 その後は和やかな会話が交わされて、その場での集会は解散となったのだった。




 意外かもしれないが、一ノ瀬千迅の朝は……早い。


「う……うぅん! うん! 今日も良い天気!」


 そして、気分が良い時は軽くランニングに出かける事もあった。

 毎日ではないのは、自動二輪倶楽部ではそこまで並外れた体力が必要と言う訳では無いからだろうか。必要な体力や筋力は部活動内で鍛えられているし、毎日と課すと途中であきらめてしまう事を彼女は知っていたのだ。……前科もある。


「あら、千迅? 早いのね」


 軽く体をほぐして走り出そうとしていた千迅へ、背後から聞き知った声が掛けられる。


「あれ、本田先輩? 先輩もランニングですか?」


 千迅が振り返った先には、珍しく長い髪を後ろで一つにまとめたトレーニングウェア姿の千晶が、軽く腕をストレッチでほぐしながら近づいて来るところだった。


「ええ、毎日の日課だから、試合の当日もやらないと調子が悪いのよね。……一緒にどう?」


「はい!」


 どうやら千晶の方は、千迅とは違い毎朝走っているようだった。気さくに誘われた千迅は、二つ返事でOKすると2人は並んで走り出した。


 暫くは無言で走る2人。特に親しい間柄ではないし、如何に千迅とは言えそう話題が豊富という訳でもない。もっとも、2人はそんな事など微塵も気にせずに走っているのだが。


「……千迅。今日は面白いものを見せてあげられるかも知れないわね」


 20分ほど走りそろそろ体が温まって来たと言うところで、千晶は脈略なく千迅へ話し掛けた。


「今日……って、今日のレースですか?」


 そして千迅は、そんな当たり前の事を聞き返していた。わざわざつくばサーキット付近のホンダ直営ホテルに宿泊しているのだから、それ以外に考えられないだろう。普通なら当たり前だと言い返されるのだろうが。


「ええ……。今日の日本GP第7戦で……ね」


 千晶はそんな事を気にも留めず、改めて丁寧に答えて返した。そしてそのやり取りで、千迅の顔が見る見る明るく輝いてゆく。


「お……面白い事って何ですか!?」


 千晶のたったそれだけの謎かけで、千迅はこれ以上ないと言う程の興奮を見せてワクワクしている。そんな彼女を、千晶は面白そうに……嬉しそうに見つめていた。


「うふふ……。それはまだ内緒」


「えぇっ! 内緒なんですかぁ!?」


 そして千晶は、まるで意地悪する様な笑みを浮かべて立てた人差し指を唇に翳し、千迅は唇を尖らせて抗議していた。その様子だけを遠目に見れば、まるで仲の良い姉妹にしか見えない。


「でも、きっとみんな驚くわよ。だから千迅……これは2人だけの内緒よ?」


 千晶はそのまま、千迅に優しく、それでいて楽しむように告げた。本当にその様子は、悪戯を仕掛けて楽しみにする少女のようだった。


「は……はい! 内緒ですね!」


 千迅も同じように人差し指を唇に当てて、その共犯を承諾したのだった。

 2人の姿は楽しげな様子そのままに、朝もやの中へと消えて行ったのだった。




 そしてその数時間後。

 本田千晶は決戦の場、つくばサーキットに入場した。

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