王者の矜持

 興奮冷めやらぬ中でも、まだタイムトライアルを行っているライダーは多数存在していた。コース上の彼女達にも、サインボードやヘッドセットで本田千晶の叩き出したタイムについて情報は流れているだろう。

 それが具に分かるのは、このサーキット全体の発する雰囲気が一気にガラリと変わったからだ。それは、ただ観戦しているだけでもある千迅達も察する程であった。


「……コースが……ヒリ付いているわね」


 コースレコードを叩き出した千晶は無論感じているだろうが、千迅達もその気配を感じて息を呑んでいた。それはまるで、敵意を向けられている様な、そんな鬼気迫るものでもあった。

 千晶をライバルと思っている者、学生に負けられないと考えている者など様々だろうが、そんな中で特に巨大な気を発している存在に千迅達は自然と目を向けさせられていた。


「あれって……」


 例えモーターサイクルレース初心者の者であっても、その立ち姿やマシンのカラーリング、何よりもそのゼッケンを見ればそれが誰だか分かろうと言うものだ。ましてや、ともなれば知らない方が稀有だろうか。


 光の加減で紫にも見える美しい黒髪は腰にまで達している。それが風になびき煌びやかに揺れていた。

 端正な顔立ちにキッと引き締められた口が、その気合の度合いを物語っている。

 そして何よりも。決意の込められていると言うには余りにも苛烈を現すかのような赤紫色の瞳が、まるでこれから戦いに赴くかのように燃えていた。そこには、何人も寄せ付けぬ無言の圧力が込められ振りまかれている。


「……ゼッケン1。昨年度日本GP250覇者。……勲矢那美いざやなみ選手」


「やっぱりあの噂って……?」


 ホンダワークスチーム所属のプロライダー、勲矢那美。今年で22歳となる彼女は、昨年の日本GP年間ランキングを圧倒的なポイント差で1位となった才媛である。

 もはや日本に敵無しとまで言われていた彼女は、今年から世界GP250に挑戦すると目されていた。だがその思惑を裏切り、那美は日本GPでの再戦を望み実際に参加している。

 そして、その理由として囁かれている最も大きなものが本田千晶との雌雄を決する……と言う突拍子もないものだった。


「でも、本田部長ってまだ学生なのにね?」


「うぅん……。部長が学生だからこそ、ハッキリさせたい事があるんじゃないかなぁ?」


 勲矢那美が日本に留まった理由は色々と憶測が飛び交っているが、その真偽については定かではない。本人が明確に語っていないのだから知りようのない話である。

 しかし世間では、その殆どが千晶との決着を望んでいると言う推察を立てており、第一自動二輪部の面々もそうだと信じる者が多かったのだった。

 貴峰の問いかけに沙苗が少し考えて答え、それを聞いていた周囲の者達も頷き同意していた。

 ライダーならば負けられない相手、引けない勝負と言うものがある。一方的にライバル視している者もいるだろう。

 そしてそう考えるそのどれもが、融通が利かずに拘り続ける者と言っても過言ではなかった。

 何も答えていない勲矢那美ではあるが、彼女の行動がその噂を真実だと物語っている。そして何よりも、本田千晶の出したタイムを知った直後の彼女の気勢を感じ取れば、誰もその事を疑うなどしなかったのだった。


「……残り10分。タイムを狙うなら、もうそろそろピットを出ないと……」


 美里がそう零したと殆ど同時に、那美の駆るNFR250Ⅱがピットを離れてコースへと向かった。ただそれだけで、会場全体が騒めきに包まれる。


 勲矢那美の所属している「HRT」はホンダレーシングチーム……ホンダが支援するワークスチームだ。レースに勝利する為だけに、ホンダの技術力が全てここへと集められていると言って良いだろうか。

 そして那美の駆るNFR250Ⅱは、ホンダマシンを扱う他チームとは一線を画していると言っても過言ではない。公称上は同じマシン、同じスペックでも、内実は大きく違っていたのだった。ある意味でホンダの威信が詰まっていると言って良いマシンだろうか。

 対して本田千晶の使っているマシンは、翔紅学園で使用されている物であり一般的に支給されている物と大差ない。本田技術工業の一族である以上、そのコネで何かしらの特別な部品を融通している可能性はあっても、基本的には他と相違ない。実際千晶は、そんな事をしていないのだが。

 またメカニックやスタッフにしても、那美には専属で専門知識の高い〝プロ〟が付いているのに対して、千晶の周辺にいるのは全員学生である。これだけの優位性があってそれでも後塵を浴びると言うのは、ある種の屈辱と言っても良いだろう。


「……HRTに所属している以上、他のホンダマシンユーザーに負けられない。何より……本田千晶、あなたには……」


 ヘッドセットをオフにした状態で、那美は力の籠った決意を口にした。誰にも聞かれる事は無かったのだが、その台詞はこれまでの噂を肯定するものだった。

 HRTのエースライダーとして他のライダーにタイムで負けたままにしておく訳にはいかない。これは偏に、彼女のプライドの問題なのだが。

 例えタイムトライアルでTOPとはならなくとも、肝心なのは本選の結果だ。ここで意地になり予選で1位を取る必要など無いだろう。

 それでも那美は彼女の信条に従って、これまでにない意志の下に周回を重ねていった。


「……残り時間も少なくなって来たねぇ」


「そろそろタイムを狙わないと、時間切れで……あっ!」


 息を呑む緊迫した時間が数分続いた後、千迅がポソリと呟きそれに紅音が応じた次の瞬間、その場の全員が思わず息を呑んでいた。


 彼女達の視線の先……最終コーナー付近で、突如火柱の様な光が迸ったからだ!


 は一般の人々には見る事の出来ない現象かも知れない。少なくともを感じる事が出来るのは、レースの世界に身を置いている者達だけだろう。

 そして、千迅たち翔紅学園の面々は見る事が……感じる事が出来たのだった。


「は……速いっ!」


「あ……明らかに……これまでの周回とは違う……ような」


 千迅達のメカニックを担当している真下このみから見ても、勲矢那美のこのラップに掛ける集中力が違っているのが分かった。そして裕子はおずおずと思いを口にするのだが、大爆音に掻き消されてそのか細い言葉は誰にも届かなかったのだった。


 前走とは明らかに違う速度で、勲矢那美はホームストレートを通過しそのまま第一コーナーへ。見事なマシンコントロールでS字コーナーをクリアし、第一ヘアピンへ進入した。


「すご……はや……」


「これは、さっきまでとは明らかにタイムが違うわね!」


 思わず息を呑む速さとでも言おうか。同じようにコース上を走るマシンとは異色と言って良い速度を発揮してコーナーをクリアして行く那美のNFR250Ⅱを目の当たりにし、貴峰は思わず語彙力が崩壊しており、沙苗の声はどこか上擦っていた。

 そんな彼女達など置き去りにしてダンロップコーナー、アジアコーナーを抜けて第二ヘアピンへ。いよいよ周回もバックストレートと最終コーナーを残すのみだ。


「紅音ちゃん……。これって……」


「……ええ。これは……さっきの千晶先輩と同じかそれ以上の……」


 傍眼に見ても異色のスピードでバックストレートを疾走するトリコロールカラーのマシンを見て、千迅と紅音は驚愕していた。そしていよいよ最終コーナーへ。

 大きなミスも他車に妨害される事も無く、勲矢那美のマシンはスピードに乗った状態でゴールラインを通過した。

 計測タイムが表示されるまでの十数秒の間、スタンドを始めとしたサーキット内は奇妙な静けさに覆われていた。ただコース上を走るマシンが爆音エギゾーストノートだけを奏で、それを周囲が反響している。

 息を呑む沈黙の後……。


「で……出たっ!」


「ご……56秒98!?」


「56秒台!?」


 一斉に沸き上がる喧然けんぜんと、各々が叫びにも似た感想を口にする。轟音の様な蝉噪せんそうが途切れる事無く湧き出て収まる気配を見せない。

 それも当然かもしれない。

 僅か1日……しかも十数分の間に、このコースのレコードが二度も書き換えられたのだ。

 レーシングマシンは日進月歩。昨年のマシンよりも今年のマシンの方が速度や旋回能力……総じて「戦闘力」は格段に上がっており、それまでの記録を更新する可能性は高い。

 それでもコースレコードを更新する事は並大抵の話ではない。様々な条件が合わさらなければ、如何に戦闘力の高いマシンであっても容易な訳では無いだろう。

 それが1日に二度も起こったのだ。観客の興奮がMAXとなっても仕方のない話であった。


 1番グリッド、勲矢那美。2番グリッド、本田千晶。

 最前列ベストポジションをホンダ勢が占め、千迅達は興奮の中でタイムトライアルは終了したのだった。

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