視線の先

 ピットに戻ってきた美里を、コントロールタワーより降りて来た本田千晶が出迎えた。


「お疲れ様、美里」


 優美に微笑む千晶は本当に美しく、それはまるで1枚の絵画のようであった。長い付き合いである美里であっても、思わず見とれて動きを止めてしまう程だ。

 マシンから降りた美里が、それでも何とか不自然でない程度の流れでヘルメットを取る行動に移せたのは、やはり長年共に過ごしてきたからであろうか。


「え……ええ。ただいま、千晶」


 女性同士でありそんな必要も無いのだが、何故か頬が赤くなるのを感じた美里は、僅かにその視線を右下へと向けながら返答した。美里にとって千晶は人間的に尊敬し憧憬の存在であっても、決して恋愛対象ではない。……少なくとも、美里はそう思っている。


「それで……どうだったのかしら、は?」


 日の光の中で腕を組み、右人差し指を顎に当てて訪ねて来る千晶は、その陰影の効果もあって蠱惑的な印象さえ与えている。彼女自身の性格はそんな事は決してないのだが、そうと知らない者がその姿を見ればまるで悪だくみでもしている風情さえ醸し出していた。


「聞くまでもないでしょう? あの娘達はまだ1年なのよ?」


 ふいと顔を逸らせた美里は、掌を上に向けて肩口まで持ち上げ、やれやれと言った態度で千晶へと答えた。その動作は暗に聞くまでもない話だと告げている。

 実際レギュラー入れ替え戦のメインは2、3年生であり、1年生で対象となるのは余程傑出した才能を発揮していた者くらいだろう。


「うふふ……。その割には、結構本気で相手していたんじゃない?」


 もっとも、そんな美里の建前など千晶にはお見通しであった。長い付き合いなのは一方通行ではなく、千晶も美里の性格や心情を把握出来るには十分な時間を共にしてきたのだ。


「ふふ……。千晶が気に掛けるのも頷けるって分かった……かな?」


 だから美里も変に意地を張る事も無く、千晶の言を認める返答をしたのだった。


「あの娘達……良いわよねぇ」


 コースの方へと目をやりながら、千晶は小さく呟いた。その声は、雰囲気はどこかウットリしている様な、吐息の様な声音にも聞こえる。


「そうね……悪くないわ」


 そして美里は、そんな千晶に肯定の言葉を返した。ただしその真情には、会話とは違う感情が押し殺されていた。

 美里の想いを表すように彼女の手は強く握りこまれていたのだが、残念ながらそれに千晶が気付いた様子は無かった。

 如何に気の置けない間柄とは言え、互いの心根を全て把握する事など出来ないのは仕方のない事だ。それは……美里側にも言える話なのだが。


「それじゃあ、あの娘達はレギュラーで問題ないかしら?」


 互いに思惑は隠したまま会話は続く。


「そうね……。速水の方は問題無いわ。でも……」


「千迅の方に問題があり……と?」


「まぁね。……分かってるでしょ?」


「うふふ……」


 紅音がレギュラー入りする事には双方ともに異論は無く意見の一致を見ていた。それも、紅音の実力を考えれば当然だろうか。

 例年、中等部の主将を始めとしたレギュラークラスは、高等部へ進学しても相応の実力を見せている。マシンに慣れさえすれば、2、3年生を差し置いてレギュラー入りする事は珍しい話では無かった。

 ましてや紅音は、これまでに色々とその実力を実証しており、ラップタイムも申し分ない。恐らくは部員の誰からも反論など出て来ないだろう。


「千迅は、とても不安定だわ。時に驚くほどのスピードを見せたかと思ったら、次の瞬間にはアッサリと転倒してしまう」


「それは、ライダーとして致命的じゃあないの? 瞬発力があると言うのは、自分の技量を量れない者が無謀な運転をしているだけだし、その後に転倒すると言うのも技術が不足している結果とも取れるんだけど?」


 千晶の見解に、美里は至極真っ当な正論で応じた。ただし千晶相手にそれは釈迦に説法……言うまでもないような話しと言う事も美里は重々承知していた。これは、千晶の真意を引き出す為の呼び水とでも言おうか。


「ええ、その通りよ。ただ、あの娘の場合はその瞬発力が常軌を逸しているの。技術が不足していると言うのは間違いないでしょうし、付け加えるなら集中力にもムラがあるわね。でも……」


 千晶は美里の返事を踏まえた上で、それでも他に理由があるかのようにそこで一旦間を取り。


「ああいう娘は……化けるのよ」


 静かにその言葉で締めくくったのだった。その顔には、何か面白い事を見つけたかのように笑みが浮かび上がっている。

 千晶の説明には、千迅にレギュラーとなる資格や資質があるのかどうかが抜け落ちている。普通ならば、千晶の台詞だけで千迅をレギュラー入りさせるには不足と言って良いだろうか。


「本田千晶の〝勘〟……ってやつかしら?」


「うふふ……。そうね」


 だが美里はそんな千晶に異議を唱えず、千晶もそれ以上の説明はしなかった。

 違う誰かが千晶と同じ言葉を発したならば一蹴に伏していただろうが、美里の言った通り誰でもない「本田千晶の勘」なのである。これ以上の説明は必要ないと美里も判断したのだった。


 しかし、だからこそ美里の中には千迅と紅音に対しての蟠り……嫉妬を意識せずにはいられなかったのだが。

 今更、千迅や紅音を妬む……と言う話ではない。そもそも美里と千晶の間柄は、興味の惹かれる1年生の出現程度で揺らぐようなものでは無い。

 それに、本田千晶が本気で千迅達に入れ込んでいる……等と言うのはとても考えにくい話でもある。

 ただ、自分が向けられなかった視線を彼女達が得ていると言う事実に、美里は意識せざるを得なかっただけの話だったのだ。


「まぁ……今回はあなたの勘を信じるわ。もしも外れても、次の入れ替え戦でレギュラーから外されるだけですしね」


 ここで美里はプイっと身体ごとそっぽを向き、どこかぶっきら棒な言葉を口にした。この言い様では場合によっては相手を怒らせかねないが、千晶がそれを気にした様子は無い。


「ええ、そうね。……楽しみだわ」


 それどころか心底楽しみだと言う様に、深みのある笑みを湛えながらそう呟いた。

 そして美里は、千晶の〝勘〟が外れるとは微塵も考えていなかったのだった。




 入れ替え戦の翌日。その結果が美里の口から告げられてゆく。


「……次に、1年速水紅音、同じく1年一ノ瀬千迅は、本日よりレギュラー組に合流よ」


 最後に告げられた内容を受けて、1年生の面々からどよめきが起こった。新入生がレギュラーと入りするケースは皆無ではなかったものの、毎年と言う訳ではない。実際当の千迅と紅音も、レギュラーとなるのは2年からだと考えていたのでその驚きは少なくないものだった。


「でも、時間的にインターハイへ組み込むには無理がある。2人は練習をレギュラーと行い、新人戦に向けて準備する事。……以上」


 今は9月の初旬だが、インターハイと新人戦は第3週に予定されている。これからトップクラスの速さに慣れて対応するには、流石に時間が無さすぎると言って良いだろう。

 余程の才能を認められて入学当初からレギュラーとして鍛えていれば、または夏の合宿前に急成長し編入でもされれば話は別だが、そうでなければ仕方のない話である。


「はいっ、分かりましたっ!」「……はいっ!」


 しかしこれは、実質1年生のエースだと言い渡されているに等しい。千迅と紅音の声に力が入るのも仕方がない事だと言えた。

 それに新人戦は今年入学した1年生が相手の全国大会だ。上級生を相手に、上級生と共に練習すれば、同学年の相手には優位となれるのは言うまでもない。

 こうして、千迅と紅音は入学より半年の時点で一つの転換期を迎えたのだった。


 そしてその翌週、インターハイと新人戦に先駆けて大きなレースが開催された。

 本田千晶が参加する「全日本GP第7戦」である。

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