幕引きは呆気なく
当然ではあるものの、コースに対する経験値の差と言うものは如実に結果へ直結する。それは単にコースを覚えていると言うだけの話ではない。
コースにはそれぞれ〝クセ〟の様なものがある。全体的にスリッピーな路面もあれば、一部分だけが特徴的な路面もあるのだ。単純に舗装の補強工事を行うだけでも随分とコースの〝顔〟が変わってしまうだろう。
それらは走ってみて初めて分かる事であり、天候や季節に依っても変わる処ので、コースに対する経験値の差は攻略に対して圧倒的な違いとして現れるのだ。
翔紅学園第一自動二輪部メンバー入れ替え戦9周目。
先頭を行く美里は、第二ヘアピンを立ち上がり第一バックストレートを加速して駆け上がる。抜群の立ち上がりを見せた美里は、そのまま200Rのヤジロベェカーブをスピードに乗ったままクリアし、下りとなる第二バックストレートへと突入して。
「……一ノ瀬っ! もう後ろまで来たのっ!」
背後に付く存在に気付いたのだった。
美里とのバトルでバランスを崩したとはいえ、千迅はコースアウトしリタイヤした訳ではない。美里の後方へと迫っていたとしても、問題は無いのだが。
(更に……アグレッシブにっ!)
現状のラップタイムでも後れを取る千迅が美里に追い縋る事が出来ている理由がここにあった。
「あっはははははっ!」
全身を喜びに震わせ、ヘルメットの中で歓喜の声を上げて千迅はマシンを駆っていた。それに伴って、彼女のライディングは更に激しく攻撃的と化していたのだった。
レースで一番重要なのは、言うまでもなく無事にゴールする事だ。そしてその為には様々な要素が不可欠である。
実力や運も当然だが、特に必要なのは「安全マージン」かも知れない。余力と言い換えても良いだろう。
余裕なくギリギリの線を攻めるのではなく、精神的に猶予を残して常に走っていれば、少なくとも自責のリタイヤは回避しやすくなる。トップライダーの仕事としては、この「安全マージン」をどれだけ削るかの作業なのかも知れない。
無論、美里や紅音も安全マージンは取っている。トップ争いをしていても当然であり、だからこそ完走率が高いと言っても過言では無いだろう。
「こ……この子! 正気なの!?」
第二バックストレートの終わり、ディセルレーションカーブの入り口で、千迅がイン側から美里とフロントカウルを並ばせるような挙動を見せ、美里はそれを外側から被せる様にブロックして抑え込む事に成功した。
2台はそのまま美里を前にしてシケイン、最終コーナーを立ち上がりホームストレートを抜けて行ったのだった。
「……また千迅。悪い癖を……」
そんな美里と千迅にピッタリと離れず後方に付けている紅音は、千迅の様子を伺いながら大きな溜息を吐いていた。ただしそれはわざとらしく意図的にとった行動であり、実際は千迅の動きこそ彼女の望んでいたものだった訳だが。
事実、心配している様な台詞とは裏腹に、その口の端は僅かに上がっていたのだから。
そしてレースはファイナルラップへ突入する。
どんなライダーも、意図的無自覚を別にして安全マージンは確保して走行する。
しかし極稀に、その安全マージンを働かせずに疾駆する者が存在していた。言い方は悪いが〝頭のねじが抜け落ちている〟〝箍が外れている〟と揶揄されるような人材だろうか。
そう言ったライダーは、周囲の……なによりも自身の安全など顧みず、ただ己の望みに向かって爆走する。
非常に危険で常に転倒が付きまとうのだが、それだけに……速い。
「一ノ瀬の奴……理解しているのか!? ……いや、こりゃあ考えていないわね!」
第一コーナーからスプーンコーナー、S字コーナーに差し掛かるまでに、美里は千迅から無数のアタックを受けていた。それも理に適った攻撃と言う訳ではない。ただ玩具を見つけて全力に、無邪気に遊びまわる子猫のように仕掛けてくるのだ。
「さっすが先輩ぃっ! やるなぁっ!」
しかも質が悪い事に、この手の状態に陥った……いや、到達した者にとっては、相手が手強いほどに燃える傾向がある。そして、千迅もまた例に洩れなかったのだった。
だが、これを仕掛けられる側としては堪ったものでは無い。
常軌を逸すると言えば無茶や無謀を連想させるが、ある意味では乗れているとも言える。
リズムよくとんでもない勢いで仕掛け続けられれば、それを抑える側の疲弊は尋常でないものに達する。
自分の転倒など微塵も歯牙に掛けていない千迅は、第二ヘアピンを立ち上がりヤジロベェカーブを過ぎてもその攻撃を止める気配など見せなかった。
(ここは、何としても抑えないとっ!)
第二バックストレートの終わりが見えて、美里は断固たる決意でそう考えていた。それは何も、1人のライダーとしての意地だけからの思考ではなかった。
今の千迅はリズムに乗り、抜群のリズム感でマシンに乗れていると同時に、いつ転倒してもおかしくない状態だった。このまま千迅を前へと行かせれば、もしかするとその瞬間に派手なクラッシュを演じてしまうかも知れない危惧を孕んでもいた。
千迅の様なライダーは、目的を達した瞬間に気が抜けコントロールを失うと言った事は多分にあり、実際美里もそんな者達を何人も見て来たのだ。
―――しかし、理屈では抑え込めないのもまた、この手のライダーの厄介な処だ。
「冗談でしょっ!?」
美里は目前のディセルレーションカーブに備えて急制動を掛ける。それも、可能な限りインを押さえてタイミングを遅らせてのハードブレーキングだ。
普段のポイントよりも遅らせてブレーキを掛けるのにはメリットよりも遥かにデメリットの方が高い。それでも美里が敢行したのには、偏に千迅の頭を押さえる理由以外の何物も無かった。
それでも尚、千迅は美里よりも頭一つ抜け出す……アウト側から!
これには、流石の美里も思わず悲鳴に近い言葉を上げざるを得ない。常軌を逸しているにも程がある行動だからだ。
そんな事など気にした様子もなく、千迅は迷いも見せずに美里を抜きに掛かった。もしもそのままの速度、そしてコーナーワークで旋回出来たなら、千迅は美里を躱す事に成功していただろう。
「わっ、わわっ!?」
だが当然とでも言おうか、勢いと無謀だけで何とかなるほどレースは甘くは無い。コーナーを1つ回るにしても、それに適した技術と自身の能力が必要なのもまた事実なのだ。
千迅は美里を抜きかけた瞬間に後輪を滑らせ、危うく転倒の憂き目にあっていた。ただ幸いだとでも言おうか、ロスはそれほどでもなくすぐに立て直す事に千迅は成功する。
そして果敢にも、彼女は更に美里へとアタックを敢行したのだった。そしてその後ろでは、僅かな隙さえ見逃すまいと紅音が接近している。
最終シケインを前にして、3人は殆ど団子状態となっていた。
―――ただし、結末と言うものは呆気なく訪れるのもまた……良くある話だ。
シケインは左曲がりから右への切り替えしとなっているのだが。
「…‥あれ!?」「一ノ瀬!?」「ちょっとぉ!?」
その右への切り替え時にはイン側となる千迅が、何故か転倒したのだ。
前を行く美里には何の影響も無かったのだが、煽りを食ったのは紅音だった。低速コーナーでの転倒では、マシンはそれほど激しく滑らない。
紅音の目の前で倒れた千迅は僅かにマシンをスライドさせ、バリアゾーンに差し掛かる処で止まったのだが、その影響で紅音のコースを僅かに塞ぐ形になってしまったのだった。
即座にマシンを立て直した紅音だが、千迅とのマシン接触はなくともタイムロスは免れない。
結果として美里に追いつくには至らずにゴールとなり、そのまま入れ替え戦は終了となったのだった。
後続との接触もなく、再びマシンを起こした千迅は美里や紅音に大きく遅れてゴールした。
「……ちょっと千迅。あなた、何であんな所で転倒してるのよ?」
申し訳なさそうな笑みを浮かべて近寄って来た千迅に、メットを取った紅音は呆れた様に声を掛けた。これが公式の試合ならば紅音の怒りも激しいものとなっていただろうが、これはレースと言うよりは練習に近い。紅音もそこまで腹は立てていなかった。
「……さぁ? 何でだろ? 気付いたら倒れちゃってた」
人を食ったような返答ではあったが、千迅は心底理由が分からないのだろう、頻りに首を傾げていた。それで、紅音の方は何となく事情を察していたのだった。
(……それはあなたが、気を抜いたからでしょ)
そしてそれを、紅音は口に出さずに心の中で呟いていた。
集中力が切れれば、誰でも簡単なミスを引き起こしてしまう。特に理屈ではなく感性でマシンを走らせている者などはそれが顕著だ。
恐らく千迅は、バックストレート終了の突っ込み勝負で美里を抜けなかった事で集中力が著しく低下したと考えられる。完全に失ったと言うよりも、それまでの集中力とは比べるべくもない程度に落ち着いたのだろう。
その差が大きすぎた事で、簡単な作業ですら熟すことが出来なかったと紅音は推察し事実そうだったのだった。
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