episode29「Awakening Blood」
ふと意識を取り戻した時、チリーはまるで長い眠りからようやく目を覚ましたかのような気分だった。
目の前には食べかけの人参が置いてあり、葉の部分は既になくなっている。
口の中に蔓延する人参の味に気がついた瞬間、チリーは一瞬で血の気が引くのを感じた。
(食っていたのか……!? 俺は……気づかねえ内に……ッ!)
どうやらチリーは、今の今まで完全にウサギの本能に飲み込まれていたらしい。全く記憶にはなかったが、目の前の光景と口の中に残る味が何が起こっていたのかをチリーにわからせてしまう。
「……おや? もうお腹がいっぱいになったのですか?」
上から声が降りてきて、チリーはハッとなって顔を上げる。
マーカス・シンプソンだ。それを確認した瞬間、チリーは慌てて人参へ視線を戻した。
そして即座に、そのまま人参へかじりつく。
(クソッ……土の味がしやがる……!)
人参自体は新鮮なようだったが、地面に直接置いていたせいで土が付着している。
それでも、今はこれを食べ続けて見せるしかなかった。
恐らくマーカスは、チリーが意識を取り戻したことにはまだ気づいていない。それならば、むしろこの状況を利用しない手はないだろう。
チリーはあえて意識の戻っていないフリをして、マーカスの隙を見つけ出すつもりなのだ。
(こいつの能力の持続時間はいつまでだ……? まさか永続じゃねえだろうな……)
チリーは、他のエリクシアンと違って他者の魔力を感知出来る。そのため、自分の中に入り込んでいるマーカスの魔力も感知出来るのだ。
相手の魔力が体内に入り込んだのは、チリーにとっても初めての経験だ。まるで身体の中で異物がのたうっているようでひどく不愉快だった。
(待てよ……? 魔力が感知出来るっつーことは、俺はまだエリクシアンなのか……?)
依然としてチリーの身体はウサギのままだが、エリクシアンとしての感覚は失われていない。体内の魔力も、そばにいるマーカス自身の魔力もはっきりと感知出来る。
となれば、打つ手が完全にないわけではない。
ひとまず今は、マーカスの能力の条件や持続時間、そしてこの状況を打破する隙を見つけ出すことに専念するべきだろう。
だが意識をいつまでも保っていられるとは限らない。今も、少しでも気を抜けばウサギの本能に囚われかねない。現に、思考を巡らせている間に土の味が気にならなくなっている。
必死に意識を保ちながら、人参を食べ終わったチリーは一息つく。食べている間は簡単だったが、ここからウサギのフリをするのは至難の業だ。
「食べ終わりまちたか~~~~? おいちかったでちゅね~~~」
不快な喋り方でチリーに歩み寄ると、マーカスはそっとチリーを抱き上げた。
無骨な身体つきからは想像も出来ないような、まるで温かい毛布のような抱かれ心地である。マーカスの手付きや表情からは、強い愛情が感じ取れる。
穏やかで優しい気持ちが滲み出して、そっと意識を手放しかけて……
(き、気持ち悪いッ!)
チリーは一瞬発狂しかけた。
このマーカスという男、動物が好き、という言葉には一切偽りがない。本当に今のチリーを、ウサギとして慈しみ、愛しているのだ。それがウサギ視点ではっきりとわかる。
それ故に、筆舌に尽くしがたい悍ましさがチリーの全身を駆け巡った。動物に変えた人間を動物として愛する、いくらなんでも歪みが過ぎる。
「賢いルベルちゃんは、帝国に帰って僕と一緒に暮らそうねぇ。おいしいご飯をいっぱい作ってあげるからねぇ」
(……)
マーカスという男を悍ましく感じることには変わりはない。だがそれと同時に、歪んではいながらも純粋な好意と愛情は感じられてしまう。
実際、それ自体は悪くない話だ。全てのしがらみから解放され、毎日おいしいご飯をもらいながらのんびりと過ごす。これ以上ない平和だ。
チリーの人生は、旅ばかりだった。
長い旅路の中で何もかも失い、罪を背負い、今度はその清算のために旅を続けなければならない。
温かい腕の中でそれが終わりになるなら、本当はその方が良いのかも知れない。
(ああ、本当に良いかもな……背負わなくていいなら、それが一番良い)
しかし、それは、あくまでチリーだけの話なら、だ。
今は違う。チリーはチリーの過去の清算のためだけに歩いているわけではない。
脳裏を過ぎった彼女の笑顔が、チリーの意識を強く保たせる。
(だがもう、俺の旅は……俺だけのモンじゃねえッ!)
意識を埋め尽くそうとするウサギの本能に、チリーは強く抗う。体内を駆け巡る不愉快なマーカスの魔力に、これ以上好きにさせるわけにはいかない。
魔力を感じられるなら、いつものようにある程度は操作出来るハズだ。
体内に入り込んだマーカスの魔力は制御出来ないが、チリー自身の魔力は扱えるハズなのだ。
必死に意識を集中し、体内の魔力へ働きかける。ウサギになっても、チリーの身体の中には魔力が循環しているのがわかる。
「……チューしたい……」
(……は?)
瞬間、集中していたチリーの意識はかき乱された。
「ウサちゃん……チューしたいねぇ……かわいいから……あ、いい匂いする……お手々は、お日様の香りだね……」
(何言ってんだこいつはァーーーーッ!?)
あろうことかマーカスは、チリーを抱きしめて頬ずりし始めたのだ。
全身の毛が逆立つような気持ち悪さにぶるりと震え、チリーは慌てて意識を魔力へ戻す。
マーカスの唇が迫ってきている。もふもふふわふわのチリーの頬に、分厚い唇が接近し始めている。
(な、何でも良いッ! とにかくなんとかなりやがれクソッタレェーーーッ!)
ほとんど自棄糞で力を込めると、チリーの身体が赤く輝く。その突然の眩しさにマーカスが目を閉じた瞬間、激しい爆発がその場で起こった。
「な、なんですと……ッ!?」
普段と違って一切制御出来ていないが、チリーの中の魔力が放出され、爆発したのだ。その衝撃でチリーはマーカスの手から離れ、その場にべちゃりと落下する。
かなりの激痛が全身を襲ったが、ひとまずキスと頬ずりからの脱出には成功したようだ。
「うッ……うッ……!」
しかし、エリクシアンに対するダメージとしては大したものではなかったハズ。瞬間的な爆発こそ起こせたものの、ダメージを与えられるような魔力の量ではなかったとチリーは感じていた。
だが、当のマーカスはうずくまって呻いており、どこか嗚咽じみた声でもある。
ひとまず距離を取ろうと背を向けるチリーだったが、次の瞬間、その小さな背中にマーカスの絶叫が叩きつけられる。
「ウッ……ウサちゃんはそんなことしないッッッ!!!!」
そこら中に響き渡るような絶叫に、チリーは尋常ならざる悪寒と恐怖を感じ、思わず竦み上がりそうになった。
「吸わせた量が足りなかったようですねェッ! 殺処分してやるッ! ウサちゃんのなり損ないがッ! なに魔力出してんですかコラァーーーーーッ!」
ウサギの足で、エリクシアンであるマーカスから逃げ切れる理由はない。即座に追いつかれたチリーは、マーカスに捕らえられ、後ろ足を掴まれて宙吊りにされてしまう。
あまりの不愉快さに暴れてしまったが、あそこは諦めてキスを受けておくべきだったと後悔する。
「ハァッ……ハァッ……! ウサちゃんじゃないなら殺処分ッ! 動物じゃないなら殺処分ッ! エリクシアンは殺処分ッ! 殺処分! ブンブンブンッ! ブゥンッ!」
奇声を上げながらマーカスが取り出したのは、鋭利なアーミーナイフだ。あまりきちんと整備されていないのか、ところどころ赤黒くなった血痕が残っている。
「
(こんなところで、こんなイカれた野郎に殺されてたまるかッ……!)
しかしチリーが魔力を放出するよりも、アーミーナイフがチリーの腹部を裂く方が早い。
整備されてなさそうなわりには異様なほどに切れ味がよく、チリーの身体は一振りで切り裂かれ、大量の鮮血を撒き散らした。
チリーの意識が遠のいていく。段々と何も考えられなくなり、完全に意識を手放しかけた――――その瞬間。
自分の血が、ひとりでに動き始めるのが見えた。
(なッ……!?)
その異変を見、チリーは意識をどうにか繋ぐ。激痛に苦しみながらも、目の前の現象から目が離せなかった。
「殺! 処! ブッ!?」
次の瞬間、チリーの血は鋭い刃へと変わってマーカスの喉元を突き刺した。
マーカスは血を吐きながら手を離し、チリーは再び地面に落下する。
今の身体の小ささを考えると、失血量は相当のものだ。まともに動けない。
しかしなんとか一命はとりとめた状態で、チリーは最早自分の意志と関係なくマーカスに襲いかかる自分の血を見つめていた。
(これが……俺の血……!?)
サイラスとの戦いで、大量に出血したチリーが起こした惨事についてはチリー自身もある程度自覚している。ミラルとラズリルから、その時の詳しい話も聞いている。しかし実際に目の当たりにすると、この奇怪な光景には驚愕を隠せなかった。
この現象について、わかっていることはほとんどない。はっきりしているのは、大量の出血を伴う致命傷を負った場合のみ発生することだけだ。
今までは必ず意識を失っていたチリーだったが、今回はなんとか意識を保っている。
すぐにチリーは制御を試みたが、暴れ狂うような魔力はチリーの意志を受け付けなかった。
魔力の暴走に伴い、意識が薄れていくのがわかる。なんとか繋ぎ止めようとしても、魔力に振り回されるような感覚と共に意識が飛びかけてしまう。
(なんなんだ……こいつはッ!?)
チリーはそこに、自分以外の何かの意志を感じ取った。
チリーが自覚している自分の能力は、魔力の操作、放出と鎧の形成だ。魔力操作と放出でかなり自在に扱えるが、”血の能力”はチリーの能力とは別のもののように感じられる。
そして事実、今こうして目にしてはっきりとわかる。
(このバケモンは……俺じゃねえ……ッ!)
チリーの身体から独立した血の塊が、人の形を形成し始めた。
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