狐軍奮闘

 ええ……? という表情をしているおかみさんを尻目に、あたしは耳が引っ込んで戻ったのを改めて確認する。よし、引っ込んでる。

 おニイちゃんも田辺のおじいちゃんも、一瞬えっ、って反応をしていたけれども、すぐにまた視線を戻している。

 バレてない。

 このあたし、狐塚サキがこの街にある稲荷神社の神使の狐────OinariオイナリLadyレディこと《OL》であるってことは、バレてない。

 というか、バレたら困る。

 毎日毎日人の願いを聞いて神通力をきかせて仕事してばっかだったあたしにとって、ここはやっと見つけた憩いの場所なんだから。

「や、なんでもないです、なんでも……。おいしそ~~!」

 あたしがそれだけ言うと、おかみさんはゆっくりね、とだけ返して厨房に戻っていった。深く追求しないでいてくれて助かる。

 それでは。

「まずは、おビールからいきましょうかね!」

 一緒に持ってきてもらった栓抜きで、ささっと瓶を開ける。王冠が外れる時のシュポン、って音は、何度聞いてもいい。これからビール飲めますよって開幕のファンファーレだ。

「おっ、サキちゃんビール?」

 田辺のおじいちゃんがこっちを向いた。

「ええ、まあ」

「んじゃ、いじゃろ注いじゃろ」

 おじいちゃんは立ち上がるとこっちまで来て、ささっと瓶を手に取る。

「や、いや、いいですって! 悪いから……」

「いいからいいから」

「あ、はあ……」

 ご老体がここまでしてくれているのに断るのもなあとなり、あたしは観念してグラスを差し出した。ほれ、ほらほらと言いながら、おじいちゃんはグラスにゆっくりとビールを注いでいった。泡がきめ細やかに立ち、グラスの上部四分の一を見事に満たす。

「ありがとうございます……。にしても、泡がキレイ」

「そりゃまあ、何十年もビール注いどるからね」

 ハハハ、と笑いながらおじいちゃんは瓶をテーブルにゆっくりと戻し、またカウンターに戻っていった。

 さてさて、ご厚意に感謝しつつ、今度こそあたしのひとり晩酌だ。おじいちゃんに立ててもらったきめ細やかなビールの泡が消える前に、一杯目をぐっといきたい。

 しかしここで、ひとつの問題が持ち上がった。

(だし巻きと揚げ出し、どっちから食べるか……⁉)

 メニューはいつもこれだが、どっちから先に食べるというルーティーンは特に決めていない。

 その日の気分でまあこっちかな、と決めるわけだが、今日はお腹が好きすぎてどっちでも絶対に美味いしどっちも食べたいって気分だ。

(えーどうしようどうしよう、だし巻きで卵の甘みと出汁の旨味が同時に広がるのもいいけど、揚げ出しで豆腐の淡白さが衣に染みた出汁の旨味で彩られて、口の中にぐわーーっとインパクト叩きつけるのも好きなんだよなあ……!)

 だし巻き。揚げ出し。だし巻き。揚げ出し。

 二つを順に目で追っていくけど、すぐには決まらない。それでいて手元のビールの泡はどんどんとしぼんでいって、早く飲み干さないと一番美味しいタイミングを逃してしまう。

(タイムリミット! タイムリミット! タイムリミットは近い!)

 タイムリミット。その単語を思い浮かべた時、あたしははあることに気づき……

(こっちだ!)

 ────揚げ出し豆腐に、箸を入れた。

 サクッ、と衣が砕ける一瞬の感触の後に、箸が肉厚な豆腐を両断する。あたしはそのまま揚げ出しをひとくちサイズにまで箸で切り、つまみ上げると……

「あフッ! あっフい!」

 熱々のそれを口にし、口の中でゆっくりと味わった。出汁を吸った衣をカリ、カリ、と口の中で噛みしめると、熱々の豆腐が口の中でそれと調和し、空腹だったのもあって一気にその旨味が広がっていくのがわかる。

 そして飲み下すと、その熱が冷めないうちに────

 ビールに口をつけ、ゆっくり、ゆっくりと飲み干した。

「んっ……」

 グラスをゆっくりと、テーブルに置く。

「あ゛あ~~~~っ……!」

 ああ。嗚呼。



 うますぎる。



 口の中の熱と旨味を、ビールの冷たさと苦味が胃の奥まで連れ去っていくような、そんな感覚。空きっ腹だったこともあり、胃の腑に辿り着いたアルコールが身体に広がっていくのがわかった。

(どうせタイムリミットがあるなら、揚げ出しを選ぶよねって話だよ)

 ビールの泡と同様に、できたての揚げ出し豆腐にはタイムリミットがある。

 衣は時間が経つたびにどんどん出汁を吸い、ふやけてカリカリサクサク感が無くなってしまうのだ。

 ふやけて充分に出汁の旨味が染みた衣は、それはそれで最高なのだが……やはりここは、揚げたてのカリカリサクサク感を味わいたかった。

(さてさて、一口目もいただいたことですし)

 お次はだし巻きだ。

 長方形に焼いて切り分けられたそれの一切れを箸でつまみ、口へと運ぶ。

「うぅん……!」

 じゅわあ、と卵の甘みと出汁が渾然一体となったそれが口いっぱいに広がり、同時に多幸感も広がっていく。最高だ。

 あたしはグラスを掴むと二杯目のビールを手酌で注ぎ、口の中に広がっただし巻きの旨味をまたビールで胃の奥にしっかりと収めていった。

 ちなみにビールの泡は、田辺のおじいちゃんが注いだ時ほどうまくは泡立っていなかった。ムズカシイネ。

 じんわりと広がるアルコールの感覚と、口の中にかすかに残る色々な味わい。さっきまでの物凄い疲れに、これがよく染みわたる。

 神使の狐、Oinari Ladyも楽じゃないのだ。

 神社で祈った人たちのお願いはメールになってあたしの業務用パソコンに届くし、それに対してご加護も与えてあげないといけない。そのくせ神様から神社に来る人────お客様の顧客満足度が低いんじゃないかといやみったらしく注意されることも多いから猶更だ。神様のくせにパワハラしてんじゃねーーよ。

 人間のお願いに対して何かしらしてあげることは、そこまで嫌いじゃない。問題なのは、あたしの仕事に対してのご加護やねぎらいは誰がしてくれるのって話だ。

 そんなことを考えて仕事終わりにあてどもなく歩いていた半年前に、あたしはこの《みけつかみ》に出会ったんだ。

 ふらっと立ち寄ったこの店の雰囲気と、素朴だけど染みわたるようなご飯の味。それが大好きで、あたしは半年以上ここに通い続けている。狐だってこともバレずにうまくやっていけてるし、何とも居心地がいい。

(あーー……。最っ高……)

 揚げ出し、だし巻き、ビールと順繰り順繰りに味わっていくと、器の中身が減っていくのに比例してお腹と心が満たされていく。

「いつもながらうまそうに食うね、サキちゃんは」

 あたしが食べ終わったタイミングで、田辺のおじいちゃんが声をかけた。

「そうですか?」

「こっちもビールが飲みたくなるっていうかさあ、良い食べっぷりだよ。なあ兄ちゃん?」

 そこで田辺のおじいちゃんは、あのサラリーマン風のおニイちゃんに声をかけた。

「えっ⁉ あっ、はい、そっすね……!」

 意外とかわいい声してるな、キミ。少年っぽさが良い意味で抜けてない。

「僕もその、だし巻きと揚げ出し、もらおうかな……」

 おニイちゃんがそう言うと、おかみさんははいはい! と答えて準備を始める。その時、

「あ、そういえばサキちゃん」

 おかみさんがあたしに声をかけた。

「よかったら、新しくおつまみで出そうと思ってるやつ、食べてみない?」

「えっ、新メニュー?」

 珍しいな、と思った。新メニューを追加するなんてあたしが通い始めてからは無かったし、前に田辺のおじいちゃんもそういうことは無いと言っていた。

「でも、あたしでいいんですか?」

「サキちゃんだからいいのよ、いつも良い食べっぷりで通ってくれるんだし! これはサービスしとくから」

「いや、それは悪いんじゃ」

「いいからいいから」

「はあ、それじゃ」

 随分と気に入られたもんだなあたしも、と思うが、悪い気はしない。

 それに、新しいおつまみに興味が無いと言ったらウソだ。

 やがておかみさんはおニイちゃんに揚げ出しとだし巻きを持っていくと、それじゃ作るから待ってて、と一声かけてくれた。

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