狐立有縁
「あら、サキちゃん!」
《みけつかみ》に入るなり飛び込んできたおかみさんの声は、疲れたあたしの脳に心地よく響いた。
店の中にはお出汁やお肉の匂いがふうわりと漂い、鼻からすっと抜けるそれが、またあたしのお腹をきゅううっと鳴らす。
……周りに聞こえてないよね?
「どうもー……」
おかみさんに挨拶してから、あたしはいつもの席が空いていることを確認してからそこに座った。
入口から見て三番目の、一人用テーブル。
ここに通い始めてそろそろ半年だが、いつも、いつでも、この場所だけは誰にも譲れない。まあ、お昼時ならともかくこの時間だとここが埋まってるってことは滅多にないんだけれども。
「いつもの、お願いします」
「はい! だし巻きと揚げ出し豆腐、あとビールね」
それだけ会話を交わすと、あとは待つだけ。椅子に身体を預けて、あたしはふううっと息を吐く。
「今日もお疲れだねえ」
カウンター席で既に瓶ビールをほぼ一本空にしている、ずんぐりした好々爺────骨董屋の田辺のおじいちゃんが、あたしに声をかけた。
「あー……まあね……」
我ながらだらしない返事だと思うけれども、この人が相手だとどうも気が緩むというか心を預けてしまうところがある。
田辺のおじいちゃんは所謂、《どこの商店街にも一店舗くらいある、特に繁盛しているわけでもない何故かずっと続いてる骨董屋》の店主だ。どうやって続けているのかさっぱりわからないが、兎にも角にも話していて安心する、ということだけは確かな好人物だ。
「OLってのも大変だね」
「たーいへんだよもー……」
ハハハ、と自分の気の抜けた笑いを聞いて、かなり力抜けてんなと思った。
田辺のおじいちゃんから視線を移すと、隅っこの席でいつもこの時間にいるサラリーマンっぽいスーツ姿のおニイちゃんが目に入る。
あたしがここに通い始めてから一ヶ月ぐらいの時からいつもこの時間になると座っているようになった彼は、見たところ入社3、4年目ぐらいってところだ。
彼はいつも軽く晩酌をしてから、ご飯ものを食べて店を出る。自炊もしなよ? と老婆心ながら思うけれど、でもまあここのご飯おいしいもんねえ、とも思うわけだ。
今日は唐揚げをハイボールでつまんでいる。いいね。
何より彼が面白いのは、この五ヶ月間の間にどんどんパンプアップしていっているところだ。最初に見た時は中肉中背、ぐらいだったはずだけれども、ちょっとずつちょっとずつ、体つきががっしりしていくのがわかる。今日はワイシャツの袖をまくっているけれども、腕の筋肉がすごい。毎日鍛えてんだな、と。
そんなことを考えながら見ていた時、ひょいと唐揚げから視線を移した彼と目が合った。一瞬の沈黙の後、彼はすぐに目を逸らすようにして唐揚げに視線を戻した。
いや、ごめんて。勝手に見てて。
そこに、
「はい! いつものね」
「おっ⁉ おっホぉ~~……!」
注文していた《いつもの》────だし巻き卵に揚げ出し豆腐、瓶ビールがおかみさんから運ばれてくる。
だし巻き卵はできたてのやわらかさを感じさせる見た目と、ずっしりとしたボリュームが目を引く。そこから香る濃いめの出汁の匂いが鼻に入ってくると、口の中の唾がより湧き出すのがわかった。
揚げ出し豆腐も、出汁の海の中に鎮座する揚げたてでまだ衣がカリッとしている豆腐の見栄えがよく、唸ってしまう。だし巻き同様、こっちも出汁の匂いが強烈に食欲を刺激する。
ああもう、こんなん、
こんなん、
こんなん……
「コーーン! コンなん絶対うまいやつじゃんかさあ!」
「えっ⁉」
急に叫んだあたしに、おかみさんは困惑の表情だ。あっしまった、と思うと同時に、
「あっ……⁉ やっっべ!」
あたしは頭から飛び出していた狐の耳を、慌てて手で抑えて引っ込めた。
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