狐食

大牟田こむた

狐独のグルメ

 食卓こそは、人がその初めから決して退屈しない唯一の場所である。

 ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァラン(1755~1826)


 ☆ ☆ ☆


 疲労というものは、溜まりすぎるともうそれが疲労であるとすら感じなくなる。

 何とも形容しがたいが、無理矢理言葉にしてみるなら全身を常にゆるく、ゆるく押さえつけられているかのような感覚と、手足の力の入らなさ、火照った感覚。

 ふらふらふらふらと、風に飛ばされてその勢いにされるがままの洗濯物のように、全身がバカになったと感じるのだ。

 あー疲れた、なんて言えるうちはまだ疲れていないというか、余力があると言っていい。


「あー……。はーああーあ……」


 つまるところ狐塚サキもまた、あー疲れた、と言えないほどに疲れているというのが現状だった。


 彼女はOLとして働いている。


 疲れた仕事終わりに制服から着替えなければならないというのが、これまた面倒くさい。

 彼女の業務は、常に関係者、顧客への責任を意識しつつ最高のクオリティを出さねばならない激務だ。どんな仕事でも大なり小なりそうだと言われれば首肯するしかないが、毎日の彼女の判断ひとつひとつで人間の一生が左右されることもあるため、気が抜けない。

 メールチェック。来客対応。上司からのいやみったらしいお小言。

 OLにとっては、否が応でも立ち向かわなければならないタスクなのだ。


「あー、ああー……。ああーっあーあっああー……」


 もう言葉を発するのも面倒くさく、そんな船の救難信号のような声が再び口から漏れ出た。相当に疲れている。なんだこいつやべー、といった様子で自分をすれ違いざまに見た若者の視線が気にならない程度には。

 全身の疲労と同時に感じるのが、かなりの空腹だった。

 日中にタスクが積み重なりすぎ、今日はランチを取る余裕も無かったのだ。そのくせエネルギーだけは十二分に使わなければいけないほどの激務なのだから、胃がきゅるきゅるぐうぐうと鳴るのも必定。至極当然だ。


「あ~~~~……」


 さりとてお腹が空いた、と口にするだけの元気もなく、壊れたサイレンのようにただただ意味のない《音》だけが口から出続けていた。足取りはずしずしもたもたと遅く、商店街をかなり間の抜けた遅さで歩いている。

 かなりのスローペースだがそれでも商店街を何とか抜けると、小ぢんまりとした昔ながらの店構えが続く小さな裏道に入った。いかにもな下町、といった風情だ。

 三十余年の平成もとっくに過ぎ去り令和の世と呼ばれて久しいが、何だかんだでこういった昭和情緒の息の長さというか、根強く愛され残り続ける力強さには目を見張るものがある。

 そしてそんな裏道に、


「ついたぁ~~……」


 かなりの疲労を抱えた彼女の目的地が、今日も変わらぬ佇まいでそこにあった。


 それは小さな定食屋だった。

 入口にかけられた《みけつかみ》と店名が書かれた暖簾は洗濯されたばかりの質感だが、それでいて染料がだいぶ落ちていて、年季を感じさせる。何十年も洗って使い続けてきた、という風格だ。

 くすんだガラスの嵌まっている引き戸もまた年季を感じるが、そこに貼られた


【17時から ビール ありマス


 と書かれた、陽に灼けてかさかさの茶色になったボール紙の張り紙が、なんともいい味を出している。絶対に平成の間どころか昭和の中頃からずっと張られ続けていただろ、と言いたくなる絶妙な色合いだ。

「ビール……」

 口の中に広がるビールの味わいを想像し、サキは己の口の中に唾(つばき)がわき、空きっ腹がきゅううっ、と鳴るのがわかった。

「……うえっへっへっへっへ」

 断っておくと、サキはそれなりに顔立ちは整っているし、髪も枝毛やぼさけたところなど無くきれいにまとまっていて身だしなみもちゃんとしている。全体的に均整の取れた体つきも、何とも魅力的だ。

 それだと言うのに今の彼女の表情ときたら、空きっ腹を満たしビールに酔いしれることしか考えていない、獣に等しい顔をしていた。

 よし、と意気込むように小さな声を出すと────

 ガラリと音を立て、サキは古めかしい店の中へと足を踏み入れた。


「あら、サキちゃん!」

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