第40話 「行ってきます」
魔王が来る。
こんなにも、夜が明けて欲しくないと願ったのは初めてだった。
結局、フィスクを救う手立ては見つからない。アイルは魔王との戦闘に加勢すると鬼気迫る表情をしていたが、フィスクがそれを望んでいないことは明白だった。
風の精霊として、正々堂々と戦うのが彼の理想の最後なのだろう。もう、その覚悟を固めているのだ。
フィスクは、シャイラに触れなくなった。抱きしめたり頭を撫でたりはおろか、手を繋ぐことさえもしてくれない。そして、シャイラを見て少しだけ申し訳なさそうな、泣きそうな目をするのだ。
(そんな目で私を見るくらいなら、生きたいんだって言えばいいのに)
時間が塊になって飛び去って行くような夜を、シャイラはよく眠れないまま過ごした。うとうとして、フィスクが死んだときの光景を夢に見て、眠りの淵から弾き出される。
窓の外が明るくなった頃、シャイラは諦めてベッドから起き出した。サイドテーブルに置いていた木彫りのアネモネを手にする。
この木彫り細工は髪飾りだった。木材そのものが強い赤みを帯びていて、本物のアネモネのようだ。
鏡の前に立って、耳の上にアネモネを挿す。そこに在るのが当然だとばかりに、赤い髪飾りは栗色の髪によく合った。
(顔色も、目の下の隈も酷いけど……)
顔を洗えばすっきりするだろうかと、シャイラは重い頭を抱えて部屋を出た。
その途端に、正面から両肩を掴まれる。
アイルだった。
「シャイラ! フィスクがいない!」
「え……!?」
慌てて隣の部屋に飛び込めば、そこはアイルが言うようにもぬけの殻だった。ひらひらと白いカーテンが靡く。窓が大きく開いていて、そこから朝風が吹き込んでいた。
部屋に踏み込むと、散ってしまったアネモネの鉢の下に、何かが挟んであることに気付いた。頬を撫でるカーテンを掴み、窓辺に近づく。
「さよなら」と。
ちっぽけな紙切れに、一言だけ、そう書かれていた。
「……、何が……」
何が、さよなら、だ。
ぐしゃりと紙切れを握り潰す。
沈んだ顔で隣に立ったアイルに、そのまま拳を突き出した。皺くちゃになった紙切れを受け取って、アイルは「あの馬鹿……」と呟いた。
「おはよう……、何かあったの?」
騒ぎに気付いてか、エリーシャもやって来た。振り返れば、シャイラと同じように目の下に隈をこしらえた母親が、不安そうな顔で部屋の中を覗き込んでいる。
「お母さん、一つだけ聞いていい?」
自分でも、強い口調になっているのが分かった。
「……なあに?」
「お父さんのこと、まだ好き?」
一瞬だけ息を詰まらせたエリーシャだったが、答える声はしっかりしていた。
「……言ったでしょう。お母さんは、あの人じゃなくてシャイラを選んだの」
無理に笑ったような顔を作って、エリーシャは言い切る。
「だから、シャイラを不幸にするあの人は、嫌いよ」
「……そっか」
うん、と頷いて、シャイラは窓枠に足をかけた。
「ありがとう、お母さん」
本当は、そう言わせてしまったことを謝りたかったけれど。それは多分、違うんだろうなと思った。
エリーシャは目を丸くしてから、ふわりと微笑む。
「気を付けて行くのよ。無茶はしないようにね」
何もない日に、ただ出かけるのと同じように。優しい見送りの言葉に、シャイラも笑顔を返した。
「行ってきます」
「あ、おい待て!」
微笑む母と、慌てるアイルに手を振って、シャイラは窓の外へと飛び降りた。
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