第38話 アネモネの花
フードを被りなおしたフィスクに「逃走防止」と抱え上げられた状態で、花屋に戻って来た。じたばたと暴れたが無駄だった。顔など到底上げられず、周囲も見えないまま運ばれて、結局下ろされたのはフィスクの部屋だった。窓辺に飾られていたアネモネは、すべて散ってしまっていた。
あまりの恥ずかしさに、少し頭が冷えた。そのせいで口を開くタイミングを失ってしまう。部屋に一脚だけ置かれた椅子に座り、ただぼんやりとフィスクの手元を見ていた。
ここまでシャイラを運んできた本人はといえば、研ぎに出したのとは別のナイフで、何か木片を削っているようだった。
部屋にはシャイラとフィスク、二人きり。
教会の塔にいた時のように、シャイラは椅子に、フィスクはベッドの端に。床に広げた布の上に、パラパラと木屑が落ちていく。
「……この百年を、俺は夢のようなものだと思っていた」
さりっと、固く筋のあるものを削る軽快な音が響く。フィスクの声は、その音に紛れるくらいに小さかった。
シャイラは息を潜めて、一言も聞き漏らさないようにと耳をそばだてる。
「聖士と魔王は、常に殺し合うものだ。俺はあの時、確かに負けた」
翼を失った時の話だろうか。
「でも、フィスクはここにいる」
「奴の裁量でしかない。俺を長く苦しめてやろうなどと考えず、最初から殺すつもりだったなら……、結果は違っていた」
ナイフの切っ先が、勢いよく木片を削り取った。
「だからシャイラ。俺が死ぬのは、お前のせいじゃない」
「そんなこと!」
「俺が、俺の失態のせいで死ぬ。それだけだ」
語る声は、酷く凪いでいた。
シャイラは何か反論しようと口を開きかけ、しかし言うべき言葉が見つからなかった。ここで彼の言葉を否定するのは、戦いに生きてきた彼の誇りを踏みにじることだと思ったからだ。
それでも、シャイラの気持ちは変わらない。
「そうだとしても……。私が鍵であることは事実なんでしょう?」
フィスクがあんな風に死ぬ運命を、変えられるのなら。そう思ってしまう。
彫っている木片に息を吹きかけ、木屑を飛ばしながら、フィスクは少しの間考えているようだった。
「シャイラは、これから起こることを知っているのか?」
「……うん」
「俺は……、俺の最期は、どうだった?」
平坦な問いかけに、シャイラは驚いて顔を上げる。雲色の瞳と、しっかりと視線が絡み合った。
フィスクは初めからそうだった。自分の死を正面から見つめていた。きっと、シャイラが知らないずっと昔から。
「……戦って……」
答えるシャイラの方が、何故だか、震えて掠れた声をしている。
「黒い男と、戦って、た。蝙蝠みたいな羽の……。どんな戦いだったかは、見てない。でも……、フィスクは……」
そこで言葉が詰まる。フィスクはシャイラを宥めるように微笑んだ。
「うん、分かった。魔王と戦って、負けたんだな、俺は」
その通りだ。そして、シャイラの腕の中で光の粒となって消えて行った。
じわりと滲んだ涙を瞬きで散らす。これ以上、彼に気遣われるのは気が咎めた。
フィスクは再び手を動かして、木片を削り始めた。何を作っているのかは指に隠れて見えないが、ナイフの細かい動きからして、最後の仕上げにかかっているようだった。
見るともなくそれを見ていると、フィスクの口からか細い吐息が零れ落ちた。
「いつだって、」
消え入りそうな声に、仄かな苦笑を浮かべ、フィスクは唇を舐めて湿らせる。
「いつだって、死ぬのは怖くなかったんだ。俺が恐れるのは、ただ意味もなく朽ちていくことだ。戦うこともできず、何も守れず……」
だから弱った体で、教会を抜け出して、魔王に挑んだ。
「魔王は、ラーガは、俺をただ苦しめたいんだ。精霊としての力を奪い、嫌いな人間の世界に落とし、死んでいく意味すら与えない」
そしてそれはフィスクにとって、確かに果てしない苦痛だったのだ。
百年の間、彼はずっとその中にいた。
「でもシャイラが、俺の心を救ってくれた。今も……、多分、女神が時間を戻す前も」
「私、が?」
思いもよらないことを言われて、シャイラは聞き返してしまった。
彼のためにできたことなんて、ほとんど無かったのに。前回など、特に。
あまりにも怪訝そうな顔をしていたのだろう。フィスクはナイフを鞘に納めて、シャイラの頬を手の甲で撫でた。
「お前に、出会わなければ」
心臓を強く握り締められたようだった。
(それは、その言葉は)
浅く息を継ぐ。フィスクの顔から視線が逸らせない。
「そうすれば……、きっと、未練なんてなかったんだろうな」
彼はひどく大切なものを慈しむように、やわく目を細めた。
雨上がりの、分厚い雲の隙間を縫って降りてくる、光の柱。ただ優しいだけの、温かい眼差し。
その奥底に強い後悔の色を見出して、ひくりとシャイラの喉が鳴る。
分かっている。シャイラがここにいることが間違いなのだ。けれど、フィスクはそれを否定するように、眉を寄せて微笑んだ。
「お前がいてくれるから、俺は何も恐れずに戦える。風の戦士としての戦いができる」
フィスクはベッドから立ち上がり、服に付いた木屑を払って、椅子に座るシャイラの前に膝をついた。
指を絡ませて両手を繋ぐ。触れ合った肌が熱く脈打つようだった。
「俺がいなくても、精霊界は守られる。兄さんたちだって強いんだ。戦士としての俺は、百年前に死んだ。だから……、未練は無かった」
「帰りたいとは、思わなかったの……?」
「思ったさ。でも、故郷に帰りたかったのは、そこが俺の戦場だったから。戦う理由がそこにあるから。でも……、今は」
大きく息を吸ったフィスクの顔が近づいてくる。こつりと額を合わせて、ぼやける視界の向こうで、今度こそ彼が満面の笑みを浮かべたのが分かった。
「愛したものを守りたいという、これこそが俺の魂だ。この身が失くなっても構わない。俺は、俺が信念を貫くために、お前を守りたいと思うんだ。たとえそれで、死んでしまおうとも。お前が泣くことになっても。それが、俺の生き方だから」
もうこれ以上、涙をこらえることができなかった。
こんなに罪深い命なのに。この体に流れる血は、人間のものでも、ましてや精霊のものでもない。彼を殺す、魔王の血なのに。
それでもフィスクは、シャイラを守りたいと言ってくれる。
「お前という未練ができたんだ。きっと、後悔しながら死ぬんだと思う。魔王を心の底から憎んで、恨みながら死んでいくんだろう。……それでいいんだ」
鼻先がそっと触れ合って、そして離れていった。フィスクはそれ以上、シャイラに触れようとはしなかった。
「お前のために戦うよ。俺がそうしたいから。シャイラを愛しているから」
こんな風にしか生きられない俺を、許してくれ。
惜しむように一度だけ握られた手の中に、小さな花があった。
木で彫られた、可愛らしい一輪の花。職人が作るような繊細な細工ではないが、優しい手触りの、温かみのあるアネモネだった。
「お前が生きていることが、俺の愛の証だ。……シャイラ。俺は、お前に生きていて欲しい」
生きて。幸せに。この愛情の花を、ずっとずっと、抱えたままで。
「ずるい。ひどいよ……。私は、私だって……!」
木彫りのアネモネを握りしめて、シャイラは泣き崩れた。フィスクはもう、抱き締めてはくれなかった。
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