第37話 お前は悪くない
斧はシャイラの体に届くことなく、吹き抜けた風に弾かれて飛ばされた。
「シャイラ、シャイラ!」
有無を言わさず後ろから抱え上げられ、アロシアから引き離される。そのまま、痛いくらいの力で抱きしめられた。
「……フィスク……?」
いつものフードすら忘れて美貌を晒したフィスクが、ますます腕に力を込める。
「いたいよ……」
「ごめん、シャイラ……!」
どうしてフィスクが謝るのだろう。どうしてフィスクが、泣いているのだろう。
彼の肩越しに見上げた空が、憎たらしいほど綺麗だ。
「間に合って良かった、本当に……っ」
二人の傍をすり抜けたアイルが、アロシアを地面に押さえつけるのが見えた。暴れるアロシアを縛り上げ、体の自由を奪う。遠くの地面に落ちた斧も回収し、こちらに戻って来たアイルは、酷く痛々しい顔でシャイラを見ていた。
「アイルさん……」
「すまない、二人とも」
頭を下げるアイル。先程とは髪の色が違っていた。ぼんやりとそれを見上げていたシャイラだったが、フィスクの腕の中に頭ごと抱え込まれ、何も見えなくなった。
「許さないからな、兄さん」
「ああ……。今回は、俺が全面的に悪い。……そのままでいいから、聞いてくれるか、シャイラ」
優しい悔恨の声が降って来る。
「君に、俺とフィスクの話を聞かせたのは間違いだった。今さら否定しても意味はないから、真実を話すが……。君を殺せばフィスクが助かるというのは、一番可能性が高い選択肢の一つではある。だが」
フィスクが優しい手つきで頭を撫でてくれている。
「正確な条件は、『フィスクが魔力の持ち主を殺すこと』なんだ。君が別の場所で死んでしまったら、フィスクの魔力は戻らないだろう」
ハッとして、顔を上げようとしたのにできなかった。フィスクの手が、シャイラの頭を後ろから押さえていたから。
「俺が焦って、とにかく君に真実を知ってもらおうと……。中途半端なことをした。すまなかった」
それなら。
シャイラがやろうとしていたことは、フィスクの状況をさらに悪化させることだったのだ。
すうっと腹の底が冷えた。
「わ、わたし」
がたがたと震え始めた体で、目の前のフィスクに縋りつく。
取り返しのつかないことを、してしまうところだった。今になって恐怖が襲ってくる。
けれど、ここにはフィスクがいる。まだ生きている。
「だったら」
すべての罪を償えるとは、到底思えないけれど。あの時死んでしまったフィスクの代わりに、せめて今ここにいる彼は絶対に助けたい。
「フィスク、私を殺して」
シャイラを抱え込んでいる腕が強張った。頭を撫でる手が止まる。その手を振り払って顔を上げると、唇を噛み締めているフィスクと目が合った。
美しい。
素直にそう思った。
瞳にかかった雲から、雨が流れていた。血の気のない肌は、透き通って白い。瞬きの度に、その白い頬を透明な雫が伝う。
いつも誇り高く、死を目前にしても恐怖のひと欠片さえ見せなかったフィスクが。眉を寄せて、何かを恐れるようにシャイラを見ていた。
フィスクの手がシャイラの顔を不器用に拭って、そこでようやく、自分も泣いていることを知った。
「ころして……、私を殺してよ!」
「……嫌だ」
「なんで!? そうすればフィスクは助かるんでしょう!?」
フィスクの胸元を叩く。こんなに簡単な解決策があるのに、動こうとしないことに苛立ちすら覚えた。
シャイラを見下ろす綺麗な顔がぐしゃりと歪む。
「嫌だと言っているだろう」
「どうして! 私は、フィスクに生きて欲しいのに!」
「お前を殺したくないんだ!」
「私は人間でしょ! フィスクの嫌いな人間! どうして殺してくれないの……!」
泣き縋り、フィスクの腕を強く揺さぶる。
ぐっと息を詰めたフィスクは、強引にシャイラの手を引き剥がした。
「分からないのか!」
彼に怒鳴りつけられたのは初めてだった。びくりと肩を震わせる。
しかしフィスクは、揺れた肩を両手で強く掴んできた。
「シャイラのことが好きだからだ!」
(……そんなの)
呆けてフィスクを見上げれば、その頬が徐々に赤くなっていく。それでも逸らされない視線に、本気なのだと悟った。
「そんなの」
ずるい。ひどい。そんなのは。
「もう、遅いよ……」
両手で顔を覆う。このまま消えてしまいたかった。許されないと分かっているのに。
「シャイラ、」
「だって、私はもうフィスクを殺してしまったのに! 女神様が時間を戻してくれなかったら、私はなんにも知らないで、何もしないままで、」
ただのうのうと生きていたのだろう。
彼が何故死んだのか、その理由を知る機会も永遠に失って。自分の心の傷にも一生気付かずに。罪を自覚することも無く。
「……女神。そうか、お前が俺を知っていたのは……」
フィスクはふつりと黙り込んでしまった。
続く沈黙に耐えかねて、シャイラは顔を上げる。そして、口を半開きにした。
さっきとは比べ物にならないくらい真っ赤になったフィスクが、口元を手で覆って俯いている。朱に染まって潤んだ目元が、うろ、と彷徨った。
「フィスク……?」
「ずっと、俺を助けようとしてくれてたのか」
ぼそりと呟かれた言葉には、シャイラに対する怒りも、憎しみもなかった。少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに瞳を綻ばせる。
まったくもって理解できない。シャイラには、そんな風に好いてもらえる権利も理由もない。だというのに、フィスクは笑うのだ。
「なあ、シャイラ。お前が悪いことなんて、一つも無いんだ。……俺の話を聞いてくれるか?」
穏やかにそう尋ねるフィスクに、シャイラは恐る恐る、だが導かれるようにしっかりと頷いた。
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