第36話 それは私の罪だった

 家から飛び出したはいいが、シャイラには辿り着くべき場所など無かった。


 大通りから遠く外れた裏路地を、あてどもなく彷徨い歩く。シーレシアは古い街だ。喧騒から離れれば離れるほど、道は細く、複雑になっていく。地面の舗装も忘れられた薄暗い迷路は、シャイラを奥へ奥へと誘い込んでいるかのようだった。


 ふと横を見れば、窓ガラスに映り込んだ少女が鬱々と見返してきた。笑ってしまうほど酷い顔をしている。頬は青褪め、生気を失った金色の瞳がこちらを睨む。



(私のせいで、フィスクが死ぬ)



 足の下で砂利が鳴る。手をついた建物の壁がひんやりとしていた。



(私が、魔王の娘だから)



 これ以上は体が動かなかった。その場にすとんとへたり込んだ。


 地面を指先で引っ掻く。ガリガリと引っ掻く。爪の間に土が入り込み、皮膚が削れて血が滲む。知った痛みだった。


 こんなものが、痛みだなんて。



(フィスクはもっと、苦しんで、後悔して、死んだのに)



 やり直せると、そう思ったのだ。


 彼が死ぬところを見た。訳も分からず呆然としていたシャイラを、女神が過去に戻してくれた。


 未来を知った今なら、変えられるかもしれないと。フィスクが、あんな風に死なずに済むのだと。


 なんて愚かだったのだろう。


 だって、あの時シャイラの目の前で死んだフィスクは、間違いようもなく現実だったのに。


 そんな簡単なことにも気が付かなかった。今フィスクが息をしていたとしても、あの時彼は、確かに死んだのだ。



(何も、しなかったから)



 フィスクと出会い、世話係に選ばれ、彼の心をほんの僅かに撫でることを許された。ただそれだけ。そして世話係から外された時、シャイラは異を唱えることも無く、フィスクの傍を離れた。


 その時にはもう、きっと彼のことが好きだった。


 それなのに、何もしなかったのだ。そして、フィスクは魔力を回復させることもできず、たった一人で魔王に挑んだ。


 これが、罪でなくて何だと言うのだろう。


 知らなかったことなど、なんの免罪にもならないのだ。


 シャイラが、フィスクを殺した。



「……は、はは」



 背中を丸めてうずくまる。胸の奥で、自分のものとは違う鼓動が、激しく脈打っていた。



「あは、は、ははははははは!!」



 何もかもがどうでもいい。このひと月は無駄だった。シャイラの行動など、初めからすべてが無意味だったのだ。


 だって、フィスクは言っていたじゃないか。


 「おまえに、であわなければ」、と。


 ざりっと。近くで、誰かの足音がした。


 ゆっくりと、シャイラの方へ歩いてくる音。それから、何かを引きずる音。


 空気が一瞬にして張り詰める。両手両足を使って後ろに跳び退ったのは、体が直感に従った結果だった。


 一秒前までシャイラの頭があった場所を、薪割り用の斧が通り過ぎる。



「排除、しなければ」



 アロシアが、酷くやつれた姿で立っていた。


 美しかった黒髪は艶を失い、ぼさぼさと絡まり合っている。唇は笑みの形に歪み、強い敵意に強張る。目元は落ち窪み、その奥で怨嗟と歓喜を孕んだ目がぎろぎろと輝いていた。そして、手には斧を引きずっている。


 その表情に、正気の色はなかった。


 祭りの日以来、アロシアは自分の部屋から出ていないと聞いていた。生きる理由だった信仰をすべて否定され、心を病んでしまったからと。


 確かに、今のアロシアにはまともな思考など残っていないようだった。ふらふらと足元も定まらないまま、細い手が再び斧を持ち上げる。



「おまえ、のせいで……」



 躱すのは容易だった。大振りで、技巧など欠片もない攻撃だ。シャイラは二撃目もひらりと避け、距離を詰めてアロシアの痩せた手首を掴んだ。


 もがくアロシアを、このまま無効化するのは簡単だ。斧を取り上げて、縛り上げるなり気絶させるなりすればいい。


 だがシャイラは、抑えていたアロシアの手を離した。



「あのお方のため……、ここで、死ねぇっ!」



 よろめいたアロシアが、狭い路地の壁に肩をぶつけながらも、シャイラを睨みつける。


 そう、シャイラのせいなのだ。きっと、生まれ落ちたことがシャイラの罪。だから。



「……このまま」



 ぜんぶぜんぶ、無かったことにすればいい。


 少し刃こぼれした斧が、シャイラの頭上に振り翳される。あの刃で切られるのは、痛いだろうなと思った。


 それで良かった。


 アロシアの足元に両膝をついて、祈るように手を組んだ。



(フィスクが、どうか、生き延びて、魔王にも勝って、いつまでも幸せでありますように)



 血の滲んだ祈りが、声もなく落ちて。


 そして。



「……ッシャイラ!」



 喘ぐような絶叫が聞こえた瞬間、斧が振り下ろされた。

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