第35話 譲れないもの
時は、少しだけ遡る。
シャイラを鍛冶屋に送り出したフィスクは、借りている部屋にアイルを招いた。
台所にいたエリーシャは、何故だか強張った顔でアイルに挨拶していたが、兄弟が部屋に籠ることを止めようとはしなかった。「畑にいるから、私のことは気にせず話して」と気遣いまで見せてくれた。
フィスクの部屋は、教会にいた頃とあまり変わらず、物が少ない。部屋の色どりは、窓際に置かれた赤いアネモネの花だ。シャイラが言う通り、少しずつ暖かくなってきた今も元気に咲いている。
その隣には、完成間近の木工細工。子供の頃、刃物の扱いに慣れるためにこうやって木を彫っていた。聖士に選ばれてからは、そういった訓練を兼ねた遊びもやらなくなったのだが。
火の精霊たちのような器用さはないが、それなりに上手に作れているのではないかと思う。
部屋の扉を閉めたアイルは部屋を見渡し、アネモネの花に近づいた。シャイラが先程「似ている」と言ってくれた目を眇めて、植木鉢を見下ろす。
「あの子が育てた花か?」
「ああ」
「……ほんの僅かに、お前の魔力が通っているな」
フィスクがフードを脱ぐと、アイルも少し鬱陶しげに自分の髪を撫でた。変色の魔法を解除すると、人間にはありきたりな茶色の髪と瞳が、〈風の民〉の特徴である空の色に戻る。
その色を、懐かしいと思ってしまったことが、少しだけ悲しかった。
「……あの娘が」
アイルのきつく尖った視線を、静かに揺れるシャイラのアネモネが受け止める。
「あの娘が、いい子なのは分かる。誰かのために動ける、優しい子だ」
「そうだろう? 俺を死なせたくないらしい」
シャイラの真摯な金色の瞳を思い出して、フィスクはくすりと笑った。
彼女に触れれば魔法が使える。そう気づいて傍に置いてはいたが、どちらかといえば監視が目的だった。疑っていたのだ。彼女は魔王と何らかの関係があり、フィスクを篭絡しようとしているのではないかと。
得体が知れなかった。しかし同時に、死にかけのフィスクに示された最後の希望でもあった。
正体がどうあれ、彼女の存在で魔力が回復するのは事実。敵か、味方か。時間をかけて見極めればいいと、そう考えた。
結果的には、シャイラの愚かなまでの献身性を見せつけられただけだった。
ほんの数日前、魔物に狙われたフィスクを救うため、飛び込んできた姿を思い出す。
あんなにも無謀で後先考えない行動は、本来は咎めるべきなのだ。それを受け入れてしまったのは、彼女と同じ気持ちがフィスクの内にもあるからだ。
誰かのために。そうやって力を奮うことは、フィスクの生き方と同じだった。
「シャイラは何も悪くない。兄さんだって、それは……」
「あの子自身がそうだとしても、だ!」
フィスクを遮って声を荒げるアイルを、静かに見据える。たったそれだけのことでたじろいだ兄を、突き放すことになると知っていた。
けれど、フィスクはもう知っている。自分の未来を。そのさだめを。
「俺は、死ぬ」
「違う! 俺は、お前を助けるために来たんだ!」
「次の聖士は兄さんか? それなら俺も、安心して託せる」
「お前以上に聖士に相応しい者はいない! 分かってるだろう!」
「聖士に選ばれるのは、最強の精霊だ。俺は、もう最強でも、……まともな精霊でもない」
アイルが顔からさっと血の気を引かせた。
この兄に、どれだけ愛されているか。フィスクはもちろん知っていた。彼だけではない。〈風の民〉は皆、幼い聖士を愛してくれた。
――覚悟はもう、できている。
「ラーガとの戦いは、どのみち避けられない。俺の核を奪ったのはあいつだし、確実に俺のことを殺しに来るだろう」
聖士と魔王は、殺し合うだけの関係なのだ。フィスクは、敗れた。それだけだ。
「結局俺は、奴を殺せる聖士にはなれなかった」
「それは奴が、お前との勝負を避けた結果だろう……」
「そうだとしても、だ」
本当は。翼を失ったフィスクが、魔王を殺せる可能性なんて、初めからゼロに等しかった。
それでも諦めきれなかったのは、故郷に帰りたかったからだ。生まれ育った、愛するふるさとに。遠い遠いあの空に。
戦うことがフィスクのすべてだった。満足に戦えもせず消えていくのは、恐怖でしかなかった。だからこそ、決して勝てない相手と分かっていても、せめて戦いの内に死ねるのならそれで良かった。
心のどこかでそう考えていたフィスクを立ち止まらせたのは、他の何者でもない。
(シャイラ)
どうしてこんな気持ちになるのか分からない。彼女のことを考えるだけで、掻き毟った心の傷が癒えていくようだった。
初めて出会った頃は、あんなにも警戒していたのに。今となっては彼女の傍がこんなにも心地よい。
忌み嫌っているはずの人間。例え〈精霊の子〉だとしても、それは変わらない。染みついた不快感は、なかなかに拭えないのだ。
けれど、そう。彼女に対してだけは、そんな風に思ったことは一度としてなかった。
いつからなのかは分からない。どうしてだとか、何がきっかけでとか、そんな理屈すら見当たらない。
ただ、自分の心に素直になってしまえば、答えは簡単だった。
誰よりも、何よりも、シャイラが特別だった。
今は、それだけだ。
「そんなに、あの子が大切なのか」
問いただす拳が、酷く震えている。フィスクの内心を察するのが、この兄は昔から上手かった。
「だから、死ぬなんて馬鹿げたことを言うのか」
「……」
沈黙で返したフィスクだったが、それが何よりの答えだった。
アイルの声に、怒りにも似た激情が走る。
「あの子は魔王の関係者だろう」
「さあな」
「誤魔化すな!」
誤魔化したつもりなど無い。フィスクも、本当の所は知らないのだ。
力を失い、魔力を感知することもできないのだから。
「あのシャイラって娘を殺さなければ、フィスクが死ぬんだぞ!」
やはりそうだったのかと、フィスクは兄を見返した。
ひどく穏やかな気持ちで、口元に笑みさえ刻んで、断言する。
「シャイラは殺さない。俺はもう、このまま死ぬと決めた」
故郷で戦っていた時のような高揚感が、今のフィスクにはあった。
たとえ、かの宿敵に敵わなくとも。ただ死ぬための戦いに身を投じるよりも、気分がいい。
一瞬だけ絶句したアイルが、激しく首を振る。
「俺にとって大事なことは、もう決まってるんだ!」
兄の顔は苦渋に歪んでいた。優しいひとなのだ。フィスクなどよりも、ずっと。だから、誰かの犠牲を伴うやり方は、救済などではないということも承知の上。その痛みを背負ってでも、フィスクを生かしたいと願ってくれている。
そんな最愛の兄を、悲しませてしまう覚悟は、もう済ませた。
「家族を失うのは、もうたくさんだ……!」
「ああ。だから……、ごめん、兄さん」
どれだけ言い募られたところで、フィスクの決意が変わらないことを察したのだろう。アイルはフィスクの肩を掴んで揺さぶった。
「何故! すぐそこに、助かる方法があるのに! あの子にはお前の魔力がすべて宿っている。あの子を殺せば魔力を取り戻せるかもしれない。それなら魔王と戦えるだろう!」
「本当にそうなるとは言い切れない。シャイラを殺して、魔力が俺ではなく魔王に流れる可能性だってある」
魔王ラーガに奪われた、フィスクの魔力。本来ならば、それは魔王の元にあるはずだ。風の精霊としての核である翼を、奴にもぎ取られたから。
だが、シャイラはフィスクに触れることで、その魔力を僅かながら回復させることができた。魔力を扱えるはずのない人間が、意図的にそんなことをできるはずもない。
ならば考えられるのは、シャイラが魔力を保持している可能性だった。水が空の器に流れ込むように、接触を通じてフィスクに流入した。彼女の作った料理も同様だ。
何せ、聞いたことがない。奪われた魔力が吸収されずに、別人に宿っているなど。しかも、シャイラは魔力など扱うことのできない人間だ。前例がないから、何が正しいのか断言できる者がいない。
アイルの言う通り、シャイラが魔力を持っていたとして。
それは、彼女と魔王の間に確かな繋がりがあることを、証明していたけれど。
シャイラ自身に、フィスクを害する気がないのなら、もうそれでいいと思ったのだ。
「だから、魔王の手先かもしれない人間を見逃すのか!?」
アイルは拳を握りしめ、壁を殴りつけようとして、寸前で止めた。怒りのぶつけどころに迷い、自身の太腿に振り下ろす。
「……シャイラを殺せばいい、それは、薄々分かってたよ」
精霊や魔物が死んで残した、魔力の核を吸収する。それは双方に共通する、力を高めるための術だ。
だから最初の頃は、殺してみるのも一つの手かと、そう考えていたのも事実だ。
「ならどうして、何もしなかったんだ!」
「……殺したくないって、守りたいって思ったんだよ! 俺は、そのために!」
兄に引きずられるように、とうとうフィスクも声を荒げた。
応じて、アイルの口調も激しくなる。
「お前があの子に気を許してるのは、存在が近しいからだろう! 魔力という共通点があるから、本能的に好意を抱いているだけで!」
「そうかもな。それでもいい。死ぬためだけに戦うよりも、何かを守るために戦いたい。その結果死ぬとしても、俺は俺らしくありたいんだよ!」
「まともに戦えもしないのに? さっきあの子が部屋の外にいたことにも気づかなかっただろう! もう耳も鼻も利かなくなってる、すぐに殺されて終わりだ!」
フィスクは息を呑んだ。
兄の傍をすり抜けて扉に駆け寄る。僅かに隙間が開いていた。扉を押し開けても、もう廊下には誰もいない。
「わざとシャイラに聞かせたのか!」
振り向いて、アイルを睨みつける。動揺のあまり加減ができず、殺気が漏れてしまった。
体を震わせたアイルは、青い顔でそれでもフィスクを睨み返した。
「お前は自分の意見を曲げないだろう?」
フィスクがシャイラを殺す気がまったくないことを、アイルは最初から見抜いていたのだ。
「だからって!」
シャイラが何を聞いたのかは分からないが、彼女がどう受け止めるかは簡単に想像がつく。
彼女はフィスクと同じだ。
誰かのためにその身を投げ出せる。全身全霊を賭けて、他人に手を差し伸べることができる。シャイラのその本質は、一見美しく見える自己犠牲の精神だ。
そんな犠牲を、フィスクは望んでいないのに。
「この話を聞いていたのなら、シャイラは先走るぞ!」
フィスクが兄に怒鳴った瞬間、階下からざわりと鼓動が広がった、気がした。
窓の傍に置かれ、鮮やかに咲いていたアネモネが、一瞬にして散り落ちる。
「今のは……」
「あぁ……、シャイラ……」
魔力を感知する能力も失ったフィスクには、シャイラの身の内にあるという魔力を感じ取ることはできない。だが、たった今彼女の心が、激しく揺さぶられたことは伝わってきた。
部屋を飛び出して、躓きながら階段を駆け下りる。こんなことでさえ、言うことを聞かない自分の体が腹立たしい。
一階の花屋では、エリーシャが枯れた草花の中に埋もれてもがいていた。
後ろについてきたアイルが、店内の惨状に小さく声を漏らす。
「これを、全部あの子が……?」
「おい! シャイラは……!?」
エリーシャの手足に積もる植物を払うと、飛び起きてフィスクの両肩に縋りついてきた。
「お願い、シャイラを追いかけて! 取り返しのつかないことになる前に! 私が悪かったの、あの子に父親のことをずっと隠していたから! もう私の言葉なんてきっと聞いてくれないけど、フィスクくんなら! あの子は本当に、何も知らなかったのよ!」
そう泣き叫ぶエリーシャの言葉で、シャイラの正体を知る。
今となっては、どうでもいいことだ。
「シャイラはどこに行った?」
「飛び出していってしまったの。どこに向かったかまでは……」
唇を噛むエリーシャを、店内の丸椅子に座らせる。
ちょうどその時だった。
「大変だよ! シャイラ、いる!?」
店内に紺色の髪の少年が飛び込んできた。シャイラの幼馴染だと紹介された、コーニだった。コーニは店内の状況に驚いたように後退り、フィスクとアイルという二人の精霊を見て小さな悲鳴を上げたが、すぐに頭を振った。
「あの、シャイラいますか!? すぐに知らせないといけないことが」
「今から探しに出るところだ」
「街に出てるんですか!? そんな……」
その後に続いた凶報に、フィスクは目を見開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます