第34話 真実

 ナイフを鍛冶屋に預け、シャイラは急いで花屋に戻った。


 二人のために、何か飲み物を用意して。フィスクの傍にいられない分、何か手作りの茶菓子も差し入れたい。


 知らず足がうきうきと弾む。扉を押し開けると、来客を知らせるベルがカランコロンと乾いた音を立てた。


 花の香りは密やかだった。まるで、息をひそめているように。店内の花々は、居住部へと駆けていくシャイラを静かに見送った。


 台所に母はいなかった。畑の方だろうか。コンロにポットを出そうとして、先に彼らの好みを聞いた方がいいだろうかと思い至る。


 空のポットをテーブルに置いて、二階に上がる階段に足をかけた。


 一段、二段と、上るたびに、声が聞こえてくる。フィスクの部屋からだ。


 この家は造りがしっかりしているから、部屋の扉を閉めてしまえば中の会話までは聞こえない。扉が開いているらしかった。


 階段を登り切り、予想通り薄く開いた扉の前に立って。聞こえてきた声に首を傾げた。



「あの子は魔王の関係者だろう」


「さあな」


「誤魔化すな、お前も分かってるだろう!」



 ノックしようとしたシャイラは、手を振り上げたまま凍り付く。



「あのシャイラって娘を殺さなければ、フィスクが死ぬんだぞ!」



 激情の籠った、弟を思う、兄の言葉だった。


 対するフィスクの返事は、いっそ穏やかだった。



「シャイラは殺さない。俺はもう、このまま死ぬと決めた」



 否定の言葉ではなかった。認めたくない事実を肯定する、残酷な言葉だった。



(わたし、が、生きてると、)



 フィスクが死ぬ?


 胸の奥で、何かが、ひと際強く脈打つ。


 同時に、冷気が頭の先から体を蝕んだ。


 足を引いて。音を立てないように後退り、階段から踵を外しかけて。咄嗟に手すりを掴む。その手がみっともないくらいに震えていた。


 フィスクの部屋からは、徐々に激しくなる口論が流れてくる。


 シャイラが話を聞いていたことは、気づかれていないようだった。


 息を止めて階段を駆け下りた。何も入っていないポットを倒しながら台所を抜けて、静寂に満ちた店内に出る。


 いつもシャイラの日々を彩ってくれた花たちが、すべて色褪せて見えた。



(私が、わたしの、せいで)



 店の真ん中で、膝が折れた。花ではない。枯れたのは、シャイラの心だった。



「シャイラ……? どうしたの!?」



 崩れ落ちて、どれだけ時間が経ったのだろう。背後でエリーシャの声がする。俯いたままのシャイラの視界に、手袋を嵌めた手と、床についた膝が映った。そのまま視線を上げれば、心配そうに覗き込んでくる母の顔がある。



「……お母さん」



 ねえ、ねえ。私は私のことを、なんにも知らなかった。


 お母さん。ずっと口を噤んでいた、お母さん。



「私は、なんなの?」


「シャイラ、」


「魔王って、何? 私は、何? 私は、魔王の、なんなの?」



 何も知らず。何も分からず。


 それでいいと思っていたのに、今になって思い知らされる。


 シャイラはただ、母が悲しんだり、困ったりするのが嫌なだけだった。


 だからいい子になって、父のことを尋ねたり、母の過去を詮索したりはしなかった。自分が生まれた時の話でさえ、近所の人たちが話してくれた僅かな情報しか知らない。


 なのにそれが、初めて好きになった男の子を殺すのだという。



「それは……」



 エリーシャは言葉を詰めた。


 今朝、母は何かをシャイラに言おうとした。あれは、つまりそういうことだったのだ。



「知ってるんでしょ。ねえ。教えてよ!」



 気づけば、母の手をきつく握り締めていた。



「……分かって欲しいのは、あなたは何も悪くないってことよ」



 観念したように、エリーシャが話し始める。



「父親のことで、あなたの人生に影が落ちないように。私とあの人とで、そう決めたのよ。何も話さない、知らせない、と。シャイラには、普通に生きて欲しいと思ったから」


「普通に生きるって、何……」


「精霊にも、魔物にも、関わらない。普通の人間としての生を、あの人はあなたに望んでいたわ」



 そんなことを言われても。


 フィスクと出会い、女神の力で過去に戻った時点で、普通の生き方とやらは遥か遠いものとなった。


 そして、シャイラ自身はそんな曖昧なものを、望んでなどいないのだ。



「私の、お父さんって」


「……あの人の名前は、ラーガ。確かに、魔王と呼ばれていたわ」



 魔王ラーガ。精霊界への侵攻を目論む魔物たちの親玉で、フィスクの命を狙う男。それが、シャイラの父親。


 思い出す。


 時間が戻る前、シャイラの目の前でフィスクを殺した、あの黒い男。


 城壁の上からだったのに、不思議なほどによく見えた。飛膜のある黒い羽を背に生やした、夜空をその身に宿す魔物だった。


 星の光を宿す瞳。どこかで見たことがあると感じていた。


 シャイラの嫌いな、母に似ていない金色の目と、同じだった。



(……抉り出したい)



 フィスクを殺す宿敵と同じ色の瞳なんて、忌まわしいだけだ。



「でも、分かって欲しいの。あの人はシャイラの幸せを願っていたし、お母さんもそう思っている。だから、ラーガがシャイラの人生にとって邪魔になるくらいなら、切り捨ててしまってもいいのよ」



 エリーシャが、シャイラの手を強く握り返す。



「幸せになれる道を、後悔しない道を、選んで。シャイラが思うままに……。お父さんのことは、何も気にせずに」



 母の言葉が耳を撫でていく。シャイラが後悔しない道、そんなものは、一つしかない。



「私は、フィスクを……」


「フィスクくんを助けたいのなら、彼とちゃんと話をしないといけないわ」



 ははっ、と、空虚な笑いが唇から零れ落ちた。


 既に自らの死を決意した相手と、何を話すというのだろう。


 花びらが落ちる、音がする。



「……今さらフィスクと、話すことなんてあるの?」


「シャイラ!」



 フィスクの生をいくら願ったところで、それを妨げているのはシャイラなのだろう。ならば、話し合いに意味など無い。



「私が、いるから、いけないの」


「違うわ! 待ってシャイラ!」



 風の加護を持たない母の制止など、意味を成さなかった。


 店を飛び出し、街の細い裏路地に逃げ込んだシャイラは、店内の花がすべて枯れ落ちたことには、気が付かなかった。

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