第29話 そして、回想
シャイラは記憶を辿っていた。時間が戻る前。運命のあの日に、何があったのかを。
◇ ◆ ◇
アロシアにフィスクの世話係を辞めるように言われたのは、精霊祭が何事もなく終わってすぐのことだった。
もともとは、誤って裏庭に迷い込んでしまったことから、押し付けられたも同然の仕事だった。だから、世話係を辞めて花屋の仕事に戻るのは、シャイラにとっては喜ばしいことのはずだった。
教会に通わなくなり、一週間。ふとした瞬間に思い出してしまう。あの塔にいる、精霊のことを。
結局フィスクに見せることのなかったアネモネの花は、もう散り始めていた。
自室の窓際に置いた植木鉢を名残惜しく見つめて、訳もなくため息をつく。
そろそろ水やりの時間だった。家の裏手にある畑に出る。水を出す魔道具からバケツに水を汲んでいると、エリーシャが慌てたようにシャイラを呼びに来た。
「シャイラ、教会の巫女様が来てるのだけど」
「え、アロシア様が? なんで……」
魔道具を止めて家に入る。台所を抜けて店先に出ると、明らかに焦った様子のアロシアがうろうろと歩き回っていた。
「アロシア様……? どうしたんですか?」
「シャイラさん!」
アロシアはシャイラに掴みかからんばかりに詰め寄って来た。彼女はいつも悠然として、何事にも動じない印象だった。だが、今その態度はどこにも見当たらない。
慌てているアロシアは、何度か息を吸い込んで自分を落ち着かせてから、絞り出すように言った。
「フィスク様が、お部屋から姿を消してしまわれたのです……!」
「え!?」
「あのお方の存在は極秘でしたので、探そうにも手掛かりが無く……! 何か知りませんか!?」
「私は何も……、探すのを手伝います」
しかし何故、フィスクは突然姿を消したのだろうか。
彼は何も語ってくれなかったが、教会に対する不満はあれど、少なくとも積極的に現状を変えようという気はないように見えた。
シャイラが世話係を辞めることになる直前は、密かに持ち込んでいたクッキーを一緒に食べたりしていた。だが、普段は食事に出ないものを喜んでいたくらいで、教会を飛び出すほどの理由になるとも思えない。
アロシアは見ているこちらが心配になるほど焦燥している。その瞳の奥に、隠し切れない疑念が浮かんでいるのを見て、「ああ」と思った。
世話係を外されたのは、「フィスク様との距離が近すぎるため」とよく分からない理由だった。何か教会の機密に関わる事なのだろうと、それについては納得していた。
だがアロシアにとってシャイラは、そもそも信用しきれない部外者でしかなかったのだろう。
フィスクが姿を消してここに来たのも、何か手掛かりが欲しいというよりは、シャイラが何かしたのではないかと疑ったからだ。
それは仕方がない。シャイラは教会の人間ですらないのだ。真っ先に疑われるのは当然だ。
「……気になるんだったら、家の中を探しても構いません。私は別の場所を探しに――」
そう言いかけた時だった。
西の方角から、激しい破壊音が響いてきた。
「何!?」
街を囲む城壁の向こうに、土煙が上がっているのが見えた。
「何事ですか!?」
アロシアがびくりと肩を跳ねさせて、西門の方を振り向いた。大通りに面した家や店からも、驚いた顔の人たちが出てきている。
シャイラも城壁の方を振り仰いだ。土煙が上がっているのは、城壁の外、花畑が広がっている辺りだ。幼い頃、エリーシャと二人でピクニックをしたことがある。
何故だか、心がそちらに引っ張られている気がした。
行かなければいけない、と思った。あの花畑に。
根拠もない確信が、胸の内で脈打っていた。
(そこに、フィスクがいる)
衝動のまま、街の西へと踏み出した。
慌てて呼び止めてくる近所のおばさんの手を振り払い、体を寄せ合い震えている子供たちの前を通り過ぎ、路上で途方にくれて立ち尽くす少年の傍をすり抜ける。
西門へ向かう途中に、再びの破壊音。
街の人々が騒ぐ中を走り抜け、シャイラは城壁の麓に辿り着いた。当然だが門は閉ざされている。
シャイラは歩廊に続く階段を駆け上がった。僅かに息を切らしながら、城壁の上から見下ろした花畑は、酷く荒れていた。
あちこち掘り返され、抉れた土の色が覗いている。ここで激闘が会ったことを物語っていた。その真ん中に、散らばった空色の髪が見える。
「フィスク!」
仰向けに倒れたフィスクの傍に、黒い男が立っていた。黒い髪に、黒い服。夜空の色だった。闇に溶ける髪と、星の光を宿す瞳。何故か、目が合った気がした。
シャイラの方を見上げていた黒い男が、視線を下げ、手にした大剣を振り上げる。
「……やめて」
切っ先を下に向けて。
「やめてよ!」
耳を塞いで、しかし、はっきりと聞こえた。聞こえてしまった。鉄の塊が肉を貫く湿った音、溢れ出る血が跳ねる音、それから、小さな呻き声。
剣先を深く腹に埋め込まれて、反動でフィスクの頭が浮き上がる。一瞬だけ硬直し、微かに震えた体は、すぐにぐったりと力を失くして横たわった。
「いや、ぁ……」
胸壁に縋りつくようにしてへたり込んだシャイラを、男が再び見上げた。どこかで見た覚えのある、星明りの瞳がまっすぐに突き刺さる。
こちらに来る、と思った。しかし男は顔を背けた。その背中から飛膜のある黒い羽が生え、男はどこかへと飛び去って行った。
残されたのは、血だまりの中に倒れ伏すフィスクと、呆然とするシャイラだけだった。
何が起きているのか。ぐちゃぐちゃに掻き乱された頭のまま、シャイラは胸壁を乗り越え、城壁から飛び降りた。
優しい風の波が体を運んでくれたことにも気づかぬまま、手を伸ばし、フィスクの傍に膝をついて、崩れ落ちる。
どうしてこうなってしまったんだろう。
良い子にしていれば幸せになれるなんて、どうしてそんな幻想を夢見ていられたのだろう。
目の前に広がっているのは、幸せとなどは程遠い光景だった。
◇ ◆ ◇
ずっと、良い子にしていたつもりだった。そうあるように努めていた。
それが、間違いだったのだろうか。
だったら次は、間違えない。
こんな機会が二度も与えられるとは思えない。必ず、フィスクをあの黒い男から――、魔王から、救ってみせると誓った。
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