第30話 引っ越しと世間話
「本当にいいのか」
フィスクは少し躊躇っている様子だった。深く被ったフードの奥から、雲色の視線が花屋の看板を見上げ、シャイラに戻って来る。
アロシアの乱心から、一日。フィスクから死の真相を聞いた、次の日のことだった。
教会を離れることに決めたフィスクを、シャイラは家に連れ帰ることにした。母は意外なほどあっさりと、フィスクが居候することを許してくれた。
「私がフィスクの所まで通うより、一緒に住んだ方がいいでしょ? どうせ、住む場所は探さないといけないんだし」
「それはそうだが……」
「必要な物は教会が揃えてくれるし、部屋は一つ余ってる。……宿に泊まるよりは、フィスクの気持ちは楽だと思うよ」
少なくとも、見ず知らずの人間が周囲に大勢いるよりは。エリーシャもフィスクにとっては知らない人間ではあるが、彼女ならフィスクが嫌がるようなことはしないだろう。それは母親に対する信頼というだけでなく、そもそもエリーシャが帝国出身でないことも理由だった。
どの国でもそうだが、やはり自分の国の精霊は特別なものだ。土の国ハルクメニア連合王国出身のエリーシャなら、教会の人々のように、フィスクをひと際特別扱いすることはないだろう。
フィスクはため息をついて、呆れたように笑った。
「意外と、意志が強いよな、シャイラは」
「お母さんと同じこと言うのやめてよ」
しかも、意外と、とは。
シャイラは頬を膨らませ、ガラス張りの扉を押し開けた。
店内に客の姿は無い。入り口近くで立ち止まったフィスクが、薬草の並ぶ棚を眺めて「花屋というより、薬草屋だな」と呟く。
「そっちの方が売れるからね……。お母さん、ただいまー」
「はーい」
店と繋がっている台所の方から返事が聞こえて、境にかけたカーテンの向こうから、エリーシャがひょいっと顔を出した。
「おかえりなさい、シャイラ。後ろにいるのが、昨日言っていた子?」
フィスクが本物の精霊であることは、事前に本人から許可を得て話してあった。彼が人を嫌っていることも。だからか、エリーシャはフィスクから遠い場所で足を止めた。
「初めまして、エリーシャよ。シャイラの我が儘に付き合わせちゃって、ごめんなさいね」
「いや……」
ざっくばらんなエリーシャの態度に、フィスクは一瞬だけ黙ってから、すっとフードを下ろした。その指先が微かに強張っていて、彼の緊張が窺えた。
「……フィスク。好きに呼んでもらって、いい」
エリーシャはフィスクの容姿に小さく息を呑んだものの、すぐに微笑んだ。
「分かったわ。なら、フィスクくん。二階に部屋を準備してあるの。シャイラが案内するわ」
顎を引くように微かに頷いたフィスクは、見るからにほっとしたように肩の力を抜いた。
「それとシャイラ、さっき教会から彼の荷物が届いたから、案内するついでに部屋に運んでくれる?」
言われてカーテンの向こうを覗けば、どうやら布団らしき大きな布の塊が置いてあった。他にも、細々とした日用品が揃っている。
服や、タオルや、食器など。教会でフィスクが使っていたであろう道具。その中に、シャイラがフィスクの部屋に置いたままにしていた、アネモネの花があった。
「……うん。フィスク、こっち」
アネモネの鉢を持ち上げる。シャイラが使っていたのとは、別の鉢になっていた。
「この鉢……」
隣に来たフィスクがばつの悪そうな顔をしたのを見て、思わず笑ってしまう。
「とりあえず、全部上に運ぼうか」
二人で手分けして、荷物をフィスクの部屋に運び込む。
シャイラの家は、一階が店舗と台所、二階は私室という造りだ。二人で住むには広い家だと思っていたが、母曰く「前に住んでいた人は四人家族だった」らしい。
部屋は三つあり、その内の一つは半ば物置扱いしていた。フィスクを迎えに行く前に余計な荷物を片付け、物置から普通の部屋に戻してあった。
「午前の間に掃除したけど、気になるところがあったら言ってね。そのベッド、前の人が使ってたやつらしくて古いんだけど、少し補強してもらったから壊れたりはしないと思うよ」
「手間をかけて悪い」
「言いだしたのは私だから、気にしないで」
フィスクは木枠だけが残ったベッドに抱えていた布団を下ろし、シャイラに向き直った。
「その、アネモネ」
気まずそうに口を開いたフィスクは、シャイラが持ったままの新しい植木鉢を、指の背でそっと撫でた。
「あの女が割ったんだ。返すつもりだったんだが……、植え替えて様子を見てるうちに、動けなくなって返しそびれた。すまない……」
しょんぼりと視線を落とすフィスク。
シャイラは首を振り、アネモネの鉢をそのまま窓際に置いた。
「ううん。むしろ、大事にしてくれてありがとう。私が世話してた時より、元気に咲いてるなって、思ってたんだ」
前回の今頃は、アネモネは既に萎れ始めていた。だが今は、花が散る気配すらない。よほどフィスクの傍が居心地よかったのだろうか。
「やっぱり、人間の私より、精霊のフィスクが近くにいる方がいいのかな」
何気なく呟いたその言葉に、フィスクはハッと息を呑んだ。
「そう……、だと嬉しい」
ほとんど反射的に、シャイラはフィスクの手首を掴んだ。下から目を合わせて、薄雲のかかっている瞳に向かって微笑む。
「そうだよ。絶対に」
一呼吸分おいて、フィスクも微笑み返してくれた。
(感情は見せてくれるようになった、けど)
涙は決して見せない彼の強さが、もどかしいと思った。
部屋をあらかた整えたところで、フィスクが尋ねてきた。
「母親と二人暮らしなのか?」
「うん。そういえば、話したことなかったね」
フィスクに嫌われないよう、当たり障りのない話ばかりを選んでいたから。シャイラの個人的な話も、あまりしたことが無かった。
「父親は」
「知らない。お母さんは一人でこの街に来て、すぐに私を産んだんだって。だから父親は最初からいなかったの」
幼い頃は、周りにからかわれることもあった。そこで、似たような境遇のコーニと仲良くなったのだ。
シャイラはベッドの木枠に浮かぶ年輪を、指でなぞった。
父親のことは、よく分からない。元からいない存在に対して、何かを思えというのも無理な話だ。シャイラにとって、親とは母のエリーシャだけだった。
ただ、そのエリーシャが。
「私が生まれるから、お父さんと別れたらしいの。だから、それは申し訳ないかなって思ってる」
エリーシャは多分、今でも父のことを愛している。父がどうだったかは知らないが、少なくとも悪い関係ではなかっただろう。
シャイラがいなければ、二人は今も一緒にいたはずだ。
「そもそも知らない人だから、本当のところがどうだとか、聞けないんだけどね」
知り合ったばかりの人に自分の家庭環境について話すと、気を遣われてしまう。それもあって、シャイラはあまり自分のことを語らない。
フィスクはどんな反応をするだろうか。ちらりと視線を向けると、意外にもあっさりした顔で「へえ」と頷いただけだった。
少しだけ拍子抜けする。もしかして、精霊と人間では家族に対する考え方が違うのだろうか。そもそも、自然から生まれる精霊は、人間と同じような血縁を構成するのか。
(……聞いていいのかな)
シャイラの葛藤を見透かしたように、フィスクは言った。
「うちは母親と兄の、三人だった」
「精霊にも親とか兄妹とか、あるんだ?」
「〈民〉にはある。女神を似せて作られたのが人間で、女神が直接血を与えた精霊が、俺たち〈女神の民〉だからな。その辺りは同じだ」
ベッドに腰を下ろしたフィスクは、硬さを確かめるように手のひらを何度か跳ねさせた。
「……父さんは、俺が小さい頃に死んだ」
淡々とした声だったが、その表情には確かに、父親に対する思慕が滲んでいる気がした。
「そうなんだ」
「それで、母さんが一時期、参ってて。兄さんと二人で母さんの手伝いをしてた」
「その時に料理を覚えたの?」
「ああ。俺の兄さんは何でもできるんだけど、何故か料理だけできなくて」
仲の良い家族だということが、少ない言葉の端からも伝わって来る。何より、フィスクの表情がとても穏やかだった。
これまでシャイラは、精霊という存在をちゃんと理解していなかった。そう思えるほど、フィスクの思い出話は、鮮明な色がある。彼らが紙の上の偶像などではなく、同じ世界で生きている存在なのだと、伝えてくれる。
シャイラは隣に座って、上からフィスクの手を握った。
「お兄さんって、どんなひと?」
触れ合った手のひらが温かい。胸の奥、自分の鼓動とは別に脈打つ何かがある。繋いだ手から、伝わってしまいそうなくらい。
「そうだな……。責任感が強い、かな。それから、俺に、とても甘かった」
少しだけたどたどしい口調で、フィスクは語る。
「戦士たちを率いていた父さんが死んで、兄さんじゃなくて、俺が後継に選ばれた。悔しかったはずなのに、それでも、俺には優しかった」
すべてを過去として語る横顔に、一瞬だけ寂しさが過った気がした。しかしそれはすぐに消えて、懐かしむ色だけが残る。
「俺が空から落とされた時、兄さんは駆け付けてくれたけど、間に合わなくて。心配してるだろうし、突然俺がいなくなったから、迷惑もかけてるはずだ。……それがずっと、気になってる」
「そっか」
彼を兄に会わせてあげたい。そう思うけれど、シャイラにはどうすることもできない。
だからせめて、願うしかない。フィスクが生き延びて、彼の大切な人たちと再会できる、そんな未来を。
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