第27話 城壁の上で

 春の夜風が、濃い緑の香りを乗せている。眼下の街並みは遠く、祭りを楽しむ笑い声が揺蕩っている。


 フィスクの待つ城壁の歩廊に続く階段を、シャイラは踏みしめるように登っていた。


 夜の闇に鮮やかな空色の髪が靡く。フィスクは胸壁に腰かけて、ランタンの灯りに浮かび上がるシーレシアの街を眺めていた。


 彼が夜空の下にいるのを見たのは初めてだ。月の光の下でも、その美しさは変わらない。整った横顔に見惚れていると、フィスクはくすくすと笑いだした。



「いつまでそうしているつもりだ?」


「ご、ごめん」



 熱を帯びた頬を擦って、フィスクに近づく。自然な動作で差し出された手は、握ると少し冷たかった。



「体、冷えてない?」


「大丈夫だ。……お前は」



 フィスクの視線が、シャイラを上から下まで確認するように動く。



「怪我はなかったか」


「私も平気。フィスクこそ、まだ顔色も良くないし、あんまり無理したら駄目だよ」


「お前がいれば多少は問題ない。……ああ、でも」



 フィスクはそこで、何か思いついたようだった。



「何か、手作りの料理は持ってないか?」



 言われて、繋いだ手を放し、腰のベルトに括りつけていたポーチを開ける。



「クッキーならあるよ」


「なんで持ってるんだ」


「じゃあ聞かないでよ」



 過去の世界に戻る前から、彼の所に来るときはクッキーを忍ばせるのが習慣になっていた。


 気に入っていたようだから、フィスクに会えたら渡そうと思って持って来ただけだ。それすら拒否されたら、自分で食べるつもりだった。


 唇を尖らせて、クッキーの包みを渡す。しかし、フィスクが嬉しそうに目を細めて受け取るので、別の意味で顔を逸らすことになった。


 自分がどういう顔をしているのか分かっているのなら、迂闊に微笑まないで欲しい。



「シャイラ」


「……なに?」



 だが、穏やかな声で呼ばれれば、それを無視することなどできないのだ。



(フィスクに名前を呼ばれると、胸の奥が疼く)



 ぎゅっと胸元を握る。フィスクはクッキーを一つ食べて、ほっと息をついた。


 少しの間、呼吸の音だけが二人の間に満ちていた。耳を澄ませ、ひっそりと息を揃えて、重ねる。


 フィスクはその間、言葉を選ぶように視線を迷わせていた。二枚目のクッキーを食べ、ようやく意を決したように口を開く。



「――俺は昔、精霊界からこの街に落ちてきた」


「え……」



 フィスクはさっきまで眺めていた街並みを見下ろして、広場の方を指さした。



「教会の屋根の、穴。俺が落ちてきた時のものだ」


「そう、なの?」



 礼拝堂の天井に空いている穴。かつて精霊が訪れた時のものだと伝わっていたが、まさかフィスクが関わっているとは思わなかった。


 シャイラが驚いていると、フィスクは指を動かして、今度は空を示した。



「この祭りは、精霊界への入り口を祀るものなんだろう。俺たち〈風の民〉が守る門は、あの大きな雲の中にある。俺は、その門を通って来た」



 精霊界への入り口がすぐ近くにある。だからこそ、シーレシアは帝国で最も加護が強いと言われている。精霊の伝承も、他の地域や帝都に比べると多いのだ。


 精霊たちの住む世界と、一番近い街。



「空に住まう者、〈風の民〉はその身に空を宿す」



 フィスクが諳んじたのは、アリアネス帝国の者ならば誰もが知る、〈風の民〉の特徴だ。


 空色の髪に、雲の色をした瞳。そして、背中には純白の翼。



「気づいていたんだろう? 俺には翼がない。風の精霊ならばあるべきはずのものが」



 肩越しに自分の背中を撫でたフィスクの手が、小刻みに震えていた。



「百年前。俺は、翼を奪われた」



 シャイラは言葉もなく、その告白を聞く。


 ただ、聞くことしかできなかった。



「前に、魔力の話をしただろう。魔道具に使われる、魔物の核の話を」


「……うん」


「精霊も同じだ。それぞれ魔力の核を持っている。風の精霊なら、翼に」



 魔物が死ねば、その魔力が込められた核が残る。魔力を持たず、知覚することもできない人間は、精霊に願うか、あるいは魔物の核を利用した魔道具によって魔法を使う。


 自然そのものを操る魔法は、本来、人間には扱えない力なのだ。



「自然を扱う力。精霊にとって、魔力とは命そのものだ。魔力を失えば、その精霊は死ぬ。核である翼を奪われた今の俺は、……本当は、もう精霊ですらないのかもしれない」


「そんな、こと」



 人間を嫌い、精霊であることを誇る彼が。どんな気持ちでその言葉を口にしたのか。


 想像もつかなかった。



「魔法は当然使えない。魔力を感じとることさえ、できなくなった。だから憶測でしかないが、俺が魔力を失ってもここまで永らえたのは、幼い精霊たちが力を貸してくれていたんだろうと思う。けど……」



 息を詰めたフィスクは、間を紛らわすように、クッキーをもう一枚食べた。


 時間をかけて咀嚼して、またぽつりと話し始める。



「起きていられる時間が短くなって、ほとんどベッドから動けなくなった。それでも帝都からこの街に移ったのは、少しでも精霊界に近づけば、猶予が伸びるんじゃないかと思ったからだ」



 確かに、出会ったばかりの頃、フィスクはあまり顔色が良くなかった。時間が戻る前はずっとそうだったから、気づかなかったが。



「……でも、最近はそんなに体調が悪そうじゃなかった、よね? 今日見た時は、やつれてて驚いたけど……」



 それに、疑問はまだある。


 魔力を失ったと語るフィスクだが、何度か魔法を使っているのを見た。人間のように呪文を唱えることなく。


 時間が戻ってすぐ、シャイラが風に飛ばされて、フィスクの塔から落ちかけた時。風を起こし、シャイラの体を押し上げてくれた。


 それに、先程も。塔から飛び降りた後、着地の時にも魔法を使っていたはずだ。


 フィスクはクッキーの包みを膝上から退けて、体ごとシャイラに向き直った。


 真摯なその態度に、どきりと胸が高鳴った。気恥ずかしさがどうにも心地悪くて、意味もなく足を踏み替える。


 そろりとフィスクの顔を見つめると、彼は目元を綻ばせた。



「お前がいたからだ」


「わた、し?」



 特に何かをした覚えはない。だが、前回との違いがそこにあることはなんとなく分かった。



「お前に触れた時。それから、手料理を食べた時。何故か体調が良くなった。少しだけだが、魔法も使えた。魔法を使えば、回復した体調も元に戻るから、あまり使わないようにはしていたが。でも、久しぶりに楽になった」


「そう……、だったんだ」



 塔の部屋にいた時、ずっと聞けずにいたことが、明かされていく。


 フィスクがわざわざシャイラを抱え上げたり、料理を食べたがったりした理由。妙に距離が近い時があったのも、きっと失った魔力を回復するためだったのだろう。


 けれど。


 そもそも、どうしてシャイラは、彼を回復することができるのだろう。


 急に自分のことが分からなくなって、俯いた。そこでようやく、両手をきつく握り締めていたことに気付く。白く血の気を失った拳を、フィスクがそっと上から包んでくれた。



「どうしてお前が、というのは、俺にも……、分からない」



 視線は合わない。フィスクはシャイラの顔を見ないまま、固い拳を丁寧に解いた。



「ただ、シャイラで良かった。今は、そう思ってる」


「……うん」



 だから女神は、シャイラを過去に戻した。それだけは、確信できた。

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