第26話 企みは潰えた

 低い位置でふらふらしていた魔物の頭上に、身を翻したフィスクが鮮やかに飛ぶ。流れる空色。人一人を抱えているとは思えない身軽さで、落雷のようにナイフを振り下ろした。首を貫かれた魔物は、断末魔の悲鳴を上げながら落下していく。


 その背に乗るようにして、二人も一緒に落ちる。


 必死にフィスクにしがみつくシャイラは、彼が楽しそうに笑い声を上げるのを耳元で聞いた。


 着地は意外にも穏やかだった。柔らかい風が二人の体を受け止めてくれる。


 子供のようにフィスクの腕に乗せられていたシャイラは、そっと労わるように地面に下ろされた。


 フィスクは魔物の目に刺さったままだったナイフを引き抜き、止めに使ったナイフと合わせて、血を振り払った。どこか昂った熱をその美しい顔に宿していたが、裏庭にいた人々が集まって来たのを見て、その熱はすうっと引いていった。


 アロシアに加えて、その従者と司祭、そしてコーニがいた。



「しゃ、シャイラ……、その人って」



 驚きのあまりか、目をまん丸に見開いているコーニは、今にも失神しそうだった。視線はフィスクに釘付けだ。空色の髪に、雲色の瞳。本物の精霊にしかない、自然そのままの美しい色だ。


 アロシアが、従者に体を支えられながらフィスクの足元まで這い寄って来る。



「フィスク様……! 申し訳ございません、申し訳ございません! まさかこんなことになるなんて、どのような罰でもお受けいたします!」



 すすり泣いているアロシアだが、見下ろすフィスクの顔はよく見慣れた冷淡なものだった。むしろ、前に見たよりも強い嫌悪に満ちているような気がする。



「わたくしは、ただ、信心深くなければいけないと……、本当に、それだけなのです!」


「だからシャイラよりも自分の方が、俺に相応しいとでも? 思い上がりにも程がある」



 今や、アロシアの方が顔色が悪いようにすら見えた。はらはらと涙を流す姿は可憐なものだったが、それが美しいとはどうしても思えない。



「わたくし、は、そのような……」


「俺が何も知らないとでも?」



 フィスクの口元が歪む。さっき見せてくれた優しい笑みには程遠い、憎しみに満ちた嘲笑だ。



「お前たちが何を企んでいるかくらい、知っている。子供を作りたいんだろう。精霊の血を引く子供を」



 〈精霊の子〉であるコーニが息を呑んだ。


 今の時代、〈精霊の子〉は少なくなっている。風の国、アリアネス帝国は特に。それは皆が知っていることだ。教会はその現状を憂いている。だから、そう考えることは分からなくはない。


 だが、それはフィスクの意思を無視している。人が嫌いな彼が、そんな計画を許容するわけがない。



「……その通りですわ。わたくしの使命は、〈精霊の子〉を増やすこと。そのために選ばれたのです。由緒正しい血筋を受け継ぎ、相応しい家格を持ち、何よりも正しい信仰を心に。大司教様方はおっしゃいました。わたくしの働きによって、精霊の血に宿るという祝福を、この世にもたらすことができるのだと」



 だがアロシアは、なんら恥じることはないと思っているようだった。青い顔のままだが、少なくとも計画を語る声を揺らがなかった。


 彼女がフィスクの寵愛を欲していた理由が分かって、シャイラは顔を歪ませた。


 シャイラとアロシアは、同じことを考えていた。その目的は違えど、フィスクの心を開きたいと。お互いが気に入らないのは当然のことだったのだろう。



「その血の祝福とやらについて、中央の爺どもはお前に何も教えていないんだな」



 しかしフィスクは、アロシアの言葉を鼻で笑った。



「精霊の血には永遠の幸せを約束する力がある、そのように教わっております。ですから、〈精霊の子〉が増えれば世のためになるのです」



 アロシアの言葉は頑ななまま。だが正直、彼女が何を言っているのかが分からない。


 ちょっと待ってください、とコーニが声を上げた。


 いつものように困惑した表情だったが、その目は驚くほど静かだった。彼が、深い思考に沈んでいる時の目だ。



「血の祝福、僕は知りません。シーレシアにある文献は全部読んでるけど、そんな話は出てこなかった。それに……、誰からも聞いたこと無いよ、永遠の幸せなんて」



 コーニが知らないのなら、本当に文献には何も載っていないのだろう。



「教会の中でも、最重要の機密だ。帝都の中央教会でも、本当のことを知っているのは極僅か」



 フィスクはちらりとコーニを見た。温度のない視線を向けられたコーニは、ごくりと唾を飲み込む。



「血の祝福って、なんなんですか?」



 意外なことに、フィスクはコーニに対してはあまり敵意をぶつけなかった。人間とはいえ、〈精霊の子〉は別ということだろうか。



「俺たちは祝福とは呼ばない。あれは呪いだ」


「呪い……?」



 幸せをもたらす、と言われているのに。幸せが呪いになることなど、あるのだろうか。



「あんなものは呪いだ、精霊にとっては。だからその呪いを受けた者は、血筋ごと忌み嫌われる」


「そんな……、そんなはずはありませんわ……」



 アロシアの声に満ちていた自信が揺らいだ。



「わたくしが救世主になるのだと……、そう、言われて……」


「〈女神の民〉の血には、永遠の命と幸運をもたらす力がある。女神が自分の血を分け与えた影響だ。人間がその力を享受するために、何をすると思う?」



 それでもなお、自分の考えに固執するアロシアを、フィスクは冷ややかに見据えた。



「精霊を殺し、その体から血を飲み干す。そうすれば永遠の幸せとやらを手に入れることができる。だから精霊は、この力を嫌う。――精霊殺しの呪いだ」



 小さな悲鳴を上げてしまって、シャイラはパッと口を手で押さえた。


 精霊の血を飲む。そのために殺す。自分の命を永らえさせたいがために。


 それは、なんて悍ましい、忌まわしい行為だろうか。


 しかも、大司祭たちはフィスクを殺そうとはしていないのだ。彼らの目的は、恐らく。



「祝福を欲しがっている大司祭たちは、お前に子供を産ませて、一体何をするつもりなんだろうな」



 崩れ落ちたアロシアが、初めて哀れに見えた。


 帝都の中央教会を束ねる大司祭たちが、何を考えているのか。シャイラがそれを知ることはできない。けれど、きっとアロシアが伝えられていた言葉は、偽りでしかなかったのだろう。



「で、ですが……。そう、きっと、大司祭様たちも、ご存知でなかったのです! そんな、精霊を殺すようなことを、あの方々が考えるはずがありません!」



 ほとんど恐慌状態のアロシアに、どうしてだろう、と思った。


 どうしてアロシアは、教会の偉い人たちの言葉は信じるのに、目の前にいる本物の精霊を信じないのだろう、と。


 その思いが、ぽろりと口を衝いて出た。



「あなたは精霊を信じているの? それとも、教会を信じているの?」


「わたくし、は……」



 完全に凍り付き、動かなくなったアロシアに、フィスクは容赦なく棘のある言葉を投げつける。



「信仰なんて都合のいい言葉で、醜い欲望を塗り潰しているだけだ。……精霊を好きに利用できるとでも思っていたのか。たかが、人間如きが」



 憎悪の籠った声で。


 軽蔑を込めた眼差しで。


 切り捨てるように断じたフィスクは、もうそれ以上アロシアを見るのも嫌だと言うように背を向けた。



「あ、ああ……、ああああ……っ!」



 信仰だけに生きてきたアロシアの心が、粉々に砕け散る音がした。


 身を絞るようなアロシアの呻きだけが裏庭に響く。きっと彼女は、ただ信じただけだったのだろう。疑うこともせずに、ただ、信じた。


 与えられていたのは、中身のない偶像だったのに。


 自分が特別な存在であると、すべてが思い通りになるのだと疑わなかった傲慢さが、彼女の過ちだったのかもしれない。






 呆然自失のアロシアと、その従者が大人しく連行された後。


 フィスクが半壊した塔に近づいて行ったので、シャイラもその後ろに続いた。


 数日前に暴走し、そして先程は、シャイラを守ってくれた宝物の槍。フィスクは風の幕を潜り抜けて、銀槍の一歩手前で立ち止まる。それは奇しくも、シャイラが守られたのと同じ場所だった。



「……セフィアス。ずっと、ここにいたんだな」



 フィスクは手を伸ばしたが、壁に阻まれて槍には届かない。



「この槍、フィスクの物なの?」


「ああ。……でも、今の俺には触れられない」



 隣に立って見上げると、フィスクの眉尻が下がっていた。


 悲しげな表情に、思わず彼の手を握る。普段、表情をほとんどを変えないだけに、その感情の強さが分かってしまった。



「この槍は、自ら主を選び出す。拒まれているということは、今の俺は、こいつの主じゃない」



 並ぶ二人の頭上に、ぽつりぽつりと、雨が降り始める。見上げると、見事な晴天が広がっている。西の空は、僅かに赤みを帯び始めていた。


 天気雨。アリアネス帝国では、『風の涙』と呼ばれている。別の場所で降った雨が、風に乗ってやってくるのだ。


 雨に濡れた髪が、重く垂れて体に張り付く。それでもフィスクは、しばらくの間、動こうとはしなかった。そんな彼に、シャイラは黙って寄り添っていた。

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