第25話 教会へ侵入せよ
左腕を曲げ伸ばしする。痛みも違和感もない。
シャイラは教会を取り囲む塀の傍にしゃがみこんでいた。奥の方に、フィスクのいる塔が見える。
あの塔から追い出されて、もう数日が経っていた。
(あんなに遠い)
いつも過ごしていた部屋は遥か高い場所にあった。窓はこちらを向いていない。あんな高さまで風で飛ばされたのか、と苦笑する。
あの時は、フィスクと出会わずにやり過ごそうと考えていた。けれど今は、違う。
シャイラの後ろで、コーニがあわあわしていた。しきりに周囲を見渡している。
「ほ、ほんとに侵入するつもり?」
ここは診療所の裏手だ。教会と診療所が隣り合っていることに目をつけて、ここから塀を越えれば侵入できるのではと考えた。手引きをお願いしたコーニには申し訳ないが。
「正面から行っても、手伝ってくれる人はいると思うんだけど」
「その人が、後でアロシアから罰を受けたら嫌じゃない」
「そうだけど……」
何のために侵入するの、とは訊かない幼馴染が、どれだけありがたいか。
今日は祭りの日。街のあちこちで陽気な音楽が流れ、それを掻き消すような怒号と歓声が聞こえる。たまに小さく爆発音もする。
アロシアはこの時間、広場で行われている腕試し大会に、審査員の一人として出ている。『精霊祭』の主催である教会は、この日はとても忙しい。だから、侵入するなら人が出払って手薄な今しかない。
外したばかりの三角巾をコーニに渡して、シャイラは軽く屈伸をした。花屋の仕事をする時に使っている手袋を嵌めて、石組みの塀に指をかける。シャイラの身長よりは高いが、これくらいなら越えるのは簡単だ。
「うん、いけそう」
「気を付けてね……」
なおも不安そうなコーニに手を振って、シャイラは塀をするするとよじ登った。
塀を乗り越えて侵入を果たし、まずは裏庭の様子を伺う。回廊から誰かが来る様子はない。
もともと人払いされている場所だが、今日は礼拝堂からの喧騒も聞こえてこない。その代わり、遠い広場の熱気が伝わって来る。それと重なって、空を裂くような咆哮も聞こえた。大会の余興として出てくる魔物が、教会のどこかに捕らえられているのだろう。
裏庭に点在する塔に身を隠すようにして、できるだけ足早に奥へと向かう。
途中通りかかった宝物の塔は崩れたままで、周囲にロープが巡らされていた。あの時と違って穏やかな風が、そこから流れてきている。
(フィスクは、この先に)
「――まあまあ。本当に忍び込んでくるなどと、さすがですわね」
見咎められることもなく、フィスクのいる塔に辿り着いた時だった。
「そのような恥知らずな真似、わたくしにはできませんわ」
塔の内側から扉が開き、歪んだ笑みを浮かべたアロシアが姿を見せた。
「アロシア……。どうしてここに」
この時間はまだ、大会が始まったばかりのはずだ。シャイラが目を細めたのと同時に、広場の方からひと際大きな歓声が聞こえてくる。
アロシアは質問に答えず、不快そうに眉を寄せた。
「……本当に、どこまでも信仰の足りない娘。そこまでしてフィスク様の寵愛が欲しいの?」
この時初めて、シャイラは何故、アロシアにここまで嫌われているのか、本当の意味で理解した。
フィスクに対して無礼な振る舞いをするからではない。立場も考えずに親しくなったからではない。
「寵愛が欲しいのは、あなたの方なんじゃないの?」
はっきりと顔色の変わったアロシアに、思わず笑ってしまった。
「信仰心が足りないのは、どっちなんだろうね」
「貴様……!」
今までのアロシアは、常に余裕を纏っていた。絶対的な立場にいることによる、強者の余裕だ。それが、剥がれている。
ただの直感でしかないけれど、きっと大きく外れてはいない。
「フィスクに近づくなとでも言われたの?」
かまをかける。返ってきたのは言葉ではなく、きつく固められた拳だった。
体を開いて攻撃を躱し、後ろに跳んで距離を取る。咄嗟に腰の後ろから、鞘に収めたままのナイフを引き抜いた。仕事にも使用している愛用のナイフだ。
「花屋の小娘如きが、精霊の巫女たるこのわたくしに、どこまでも無礼な……!」
笑みすら忘れたアロシアが、腰を落としてシャイラを睨んでくる。図星だったようだ。
ふっ、小さく息を吐く。
アロシアの構えは洗練されたものだ。ちゃんとした師につき、体術の基礎から教わっているのがよく分かる。
対してシャイラは、特に戦闘の訓練を受けた訳ではない。風の加護を持つ者として身体能力は高いし、子供の頃から遊びの延長として組手をすることも多かった。しかしそれだけだ。
アロシアの肩が、沈む。ばねのように飛んできた拳をナイフで打ち払い、首を振って二打目を躱す。
横薙ぎの蹴り。受けるには重い。避ける方向を切り替え、アロシアに体当たりするようにしてその横を駆け抜けた。
軸をぶらされて姿勢を崩したアロシアが、よろめき、憤怒の表情でシャイラを見る。
「逃げる気か!」
「まさか!」
シャイラが距離を取ると、アロシアはさっと手を組んだ。祈りを捧げる、敬虔な信者の姿。
「悠久の空を吹き渡る主なる力よ、」
真剣に、一心に、精霊への感謝を込めて、加護を願うそのかたち。誰よりもまっすぐで、無垢ですらあって。
(かかった!)
あまりに盲目的で、甘すぎる。
戦場で、棒立ちになるなどと。
地面を強く蹴ってアロシアの懐に飛び込む。長ったらしい詠唱を待つ理由などない。
がら空きの腹を力いっぱい蹴り飛ばすと、流石のアロシアもよろめいた。
「神聖なっ、詠唱の最中に……っ!」
唸るようにそう吐き捨てたアロシアが、噂程の強者でないことにはすぐに分かった。型通りの構え、素直すぎる攻撃線。見切るのは簡単だった。距離を取れば魔法を使うであろうことも、簡単に予想できた。
「もう許しませんわ! 捻り潰してやる!」
しかし、やはり鍛え方が違う。すぐに体勢を立て直したアロシアの拳をひらりと躱し、シャイラは再び距離を取る。
攻撃は読みやすい。だが一撃もらえば終わる。時間をかければその分、こちらの方が不利になる。
どうやって切り抜けるか。シャイラの目に映ったのは、半壊した宝物庫だった。何かに、呼ばれたような気がした。
(そうだ、別に勝てなくていい)
シャイラの目的は、アロシアを倒すことではない。
アロシアに背を向け、宝物庫に向かって駆け出す。「待て!」背後で怒鳴り声がする。
導かれるように、シャイラは巡らされたロープを飛び越えた。
(近づける)
常に風を発生させ、人を寄せ付けない宝物。事故の日、あんなに荒れ狂っていた宝物は、親鳥が雛を羽で守るように、シャイラを風の渦で包み込んでくれた。
崩れた瓦礫を乗り越えると、地面に突き刺さった銀色の槍が静かに佇んでいた。穏やかな風がそっとシャイラの背中を押す。けれど、槍まであと一歩のところで阻まれた。風の壁が立ち塞がって、それ以上は進めない。
「止まりなさい! 宝物に近づくなんて……!」
声が聞こえた方を見る。風の翼に包まれたシャイラを、アロシアが引きずり出そうと手を伸ばしている。
そのままロープを越えたアロシア。その瞬間、槍が彼女を拒絶した。
数日前の再現、いや、それ以上だった。槍全体が強い光を放つ。同時に、内側にシャイラを抱え込んだまま、ゴゥ、と風が唸り声を上げた。流れ星のような閃きは光の粒をまき散らし、力強い風の奔流を目に焼き付けながら空へと駆け上がる。
街の上空に浮かぶ雲を貫くほどの光る竜巻は、巫女の細い体を木の葉のように吹き飛ばした。アロシアは、回廊の影、大きな檻に叩きつけられて地面に落ちる。
大会用の魔物はここに置いてあったらしい。大きな鷲のような姿をした風の魔物が、むくりと頭をもたげてアロシアを睥睨する。
唖然としてそれを見ていたシャイラは、すぐに穏やかな表情に戻った銀槍を見上げた。
「……守ってくれたの?」
まるで、この槍に意思があるような。そんな訳はない、と思いながらも、小さく頭を下げた。
「ありがとう」
これでフィスクに会うことができる。風の渦を抜け出して、駆け出そうとした。しかし。
背後で、擦るような金属音がした。続けざまに空を劈くような咆哮が上がる。
「不敬な小娘がっ。ここで死んでしまえ!」
体を引きずりながら高笑いするアロシアが、檻の扉を開けていた。解放された魔物が、扉の開いた檻から飛び出してくる。
「馬っ鹿なの!?」
今、この裏庭にいるのはシャイラとアロシアだけだ。確かにシャイラは狙われるだろうが、アロシアもそれは同じこと。
激しく羽ばたきながら突進してくる魔物。シャイラより二回りは大きな体躯をしている。咄嗟に体を屈めて魔物の嘴を避け、回廊の柱の陰に飛び込んだ。
あの槍は、また守ってくれるだろうか。淡い期待を込めて裏庭を覗き、凍り付いた。
シャイラにもアロシアにも、魔物は見向きもしない。アロシアが魔物を追いかけようとして、その場に崩れながら悲鳴を上げる。
「何故そちらに、だめっ、やめて!」
解き放たれた風の魔物は、迷いなく塔の最上部へ飛び、窓を突き割っていた。中に誰がいるのか分かっているように見えて、背筋が冷えた。
「フィスク!」
魔物と戦ったことなどない。だからといって、何もしない訳にはいかなかった。
柱の陰から飛び出して、地面を蹴る。
無駄に飾り付けただけの詠唱などいらない。大切なのは、ただ声に出して願うこと。
「風の唄よ、」
彼を助けたいのだと、心を込めて。
「私を飛ばして!」
二度目の出会いの時と、同じように。
足元から吹き上げた突風が、シャイラの体を一直線に空へと押し上げた。窓に頭を突っ込んでいた大鷲の魔物が、窓枠を顔にぶら下げたままこちらを見る。
ナイフの鞘を捨てる。柄を両手で握り、切っ先は正面、ただまっすぐに。
「……――ッ!」
声にならない叫びと共に、体ごと魔物にぶつかった。ナイフが魔物の目に刺さったのは、まったくの偶然だった。
絶叫した魔物がシャイラを振り落とす前に、ぶち破られた窓に向かって身を投げる。
部屋に飛び込み、ゴロゴロと何度か転がって、ようやく勢いが止まった。顔を上げ、よく見慣れた殺風景な部屋にいることを確認して、どっと汗が噴き出した。
手も足も震えている。でも、どうにか上手くいった。ほとんど運任せではあったが。魔物が窓から離れていることを確認して、一つ安堵の息を吐いた。
「あれ……? フィスク、どこ?」
立ち上がって周囲を見渡すと、ベッドのある方から小さな声がした。
「……馬鹿はお前だろう」
はっとして視線を向けると、フィスクが仰向けに横たわっていた。目元に腕を乗せていて、その顔は見えない。けれど、その声はいつになく弱々しかった。
「フィスク」
「何をしに来たんだ」
「私は……」
何と言おうかと、一瞬だけ迷った。
けれど、もう同じ間違いはしないと、そう誓ったのだ。
「あなたを、助けに来たの」
塔の外で、魔物がぎゃあぎゃあと騒ぎ立てている声が聞こえる。ずっとここにいるのは危険だ。だから、離れなければいけないのに。
フィスクは動こうとしない。
「ここからか?」
「フィスクが死んでしまう、未来から」
ハッ、と自嘲じみた声がした。
「俺の何を知ってるんだ」
「知らない。何も知らないから、あなたを傷つけた」
シャイラ自身を何も見せないで、彼の心を無理やり開こうとした。そんなやり方で、うまくいくわけがなかった。
フィスクがこちらを見ていないことを分かっていながら、深く頭を下げる。
「本当に、ごめんなさい。フィスクに信じてもらうための努力を、私はしていなかった」
少ししてから、微かなため息が聞こえた。
「今さらだ」
「……うん。本当に、そうだね」
許してもらえなくても、仕方がない。唇を噛み締める。
「人間は誰も、精霊を利用しようとする。例外は無い」
深く深く、地の底まで落ちるような疲労が滲んでいる。それはもしかしたら、諦めに似た失望なのかもしれなかった。
「結局、同じなのか。お前は違うんだと思った俺が、間違いだったのか」
裏表なく、秘めた目的も無く、疑念の目で見なくても良い存在。彼がシャイラに対してそれを求めていたのなら、確かにそれは間違いだ。
シャイラは顔を上げて、声が出せずに、小さく頷いた。フィスクには見えていないのに。
この期に及んで、嫌われたくないだなんて、考えている。
微かに震える唇に力を込めて、声を絞り出す。
「わたしは……、私には、確かに、目的がある。フィスクのことを、助けるんだって。でも、簡単に信じてもらえるとは、思わない」
だって、未来を知っているなんて非現実的なことを、どう説明すればいいのだ。遥か神話の時代に姿を消した女神が時間を戻してくれただなんて、シャイラ自身がまだ信じきれていないのに。
どこまでも都合のいい、信用するに値しない言葉ばかりだ。
だが、次に聞こえたフィスクの声は、予想以上に穏やかだった。
「一つ、聞きたい」
「なあに?」
「お前、さっきどうして、危険を冒して俺を守ろうとしたんだ」
どうして、と言われても、答えは一つしかないのだ。
「フィスクが危ないって思ったら、体が動いたの」
「……そう言うと思ったよ」
億劫そうに寝返りを打ったフィスクが、体ごとシャイラの方を向いた。その姿をはっきりと見て、息を呑む。
初めて会った時よりも、ずっと顔が青白い。頬もややこけて、シーツの上に散らばった空色の髪は艶を失っていた。
どこか儚げだった美貌は、既にそれを通り越して痛々しい。血の気が無く、乾ききった唇から、それでも芯の通った声がした。
「こっちに」
喉の奥に熱の塊を感じながらも、シャイラは差し出された手を握るために足を踏み出した。ベッドの傍まで寄って膝をつく。
「私のこと、信じてくれるの……?」
かさついた手は、幾度も肉刺が潰れて硬くなった跡がある。そっと指を絡めて握ると、フィスクは目を細めて、唇の端を緩めた。そうすると痩せてしまった頬が少し膨らんで、晴れやかだった。雲色の瞳に、暖かな晴れ間が覗く。
初めて見る、フィスクの笑顔だった。
花が開くよりも華やかで、月の光よりも透明で、新雪よりも柔らかく、そして美しい。女神が精霊たちを祝福した気持ちが分かったような気がした。
心臓を握りしめられたような心地で息を止めたシャイラに、フィスクは微笑んだまま言う。
「お前は馬鹿すぎて、疑う方が馬鹿らしい」
「それは酷いよ」
そんな綺麗な顔で言う言葉じゃない。思わず反論すると、フィスクがまた笑った。
「少し」
繋いだ手をぐっと引かれて、ベッドの上で上半身を起こしたフィスクに抱き締められた。
「こうさせてくれ」
「フィスク!?」
シャイラの肩に顎を乗せて、フィスクがふうっと力を抜く。
「こ……、んなことしてる場合じゃないよ!?」
体が沸騰するかと思った。こんなところで死ぬのかとすら。せっかく魔物から生きて逃れたのに。
だがフィスクは、シャイラがどぎまぎしているのをよそに、いっそ腹が立つほどに冷静だった。
「分かってる。だがお前に触らないと動けない」
「……どういうことなの?」
真剣な声色に、シャイラはどうにか暴れる胸を落ち着かせた。繋いでいない方の手をぎこちなく上げて、フィスクの背をそっとなぞる。
「お前をここに呼んでいた理由だ。……後でちゃんと聞かせる」
確かに、彼の事情を詳しく聞いている時間は、今はなかった。
「外にいるのは、風の魔物が一体とあの女。合ってるか」
「うん」
「人間は少し増えてるな。声がする。魔物を引きつけてる」
シャイラの耳ではそこまで正確には分からないが、フィスクには聞こえているらしい。話している間、魔物が襲ってこなかったのはそのためか。
「何か武器は」
「さっき、鳥の目にナイフ刺して、そのままにしちゃった。予備のナイフがもう一本あるけど……」
「二刀流か? 勇ましいな」
フィスクはシャイラから離れ、ゆっくりとベッドから立ち上がった。相変わらず顔色は悪いが、足取りはしっかりしている。
木枠ごとガラスの外れた窓から下を覗き、一つ頷いた。
「ナイフを貸せ」
「どうする気?」
「上から一気に仕留める」
ナイフを渡す。戦闘に使うダガーではないのが申し訳ないが、フィスクはあまり気にしていないようだった。
「あまり強い魔物じゃない。……今の俺じゃ、まともに戦えないが」
フィスクはナイフの鞘を払い、逆手に持って窓に足をかけた。そして、少しだけ楽しそうにシャイラの手を引く。
「高い所は平気か?」
「私、ここまで飛んできたんだよ」
「ああ、あれは良い突きだった」
軽々と片手で抱えあげられて、落ちないように慌ててフィスクの首に腕を回した。
「ちゃんと捕まってろよ、シャイラ」
「えっ、私の名前覚えて――」
言い切る前に、シャイラを抱えたフィスクは窓枠を蹴って塔の外へと飛び降りた。
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